ビッグコミックオリジナル『前科者』ロイホ読書会に出て来た本。
最初、作者の名前が「B」でなく「V」なのに気づきませんでした。ヴォソットサン。そういえば、船戸与一サンも、funadoと書くけど、唇を触れ合わせてF音を出してるわけではないので、hunadoだよなあと思ってみたり。
ひきこもりも、本書ではそのまま"HIKIKOMORI"と書いているので、そのまま使ったったらええけえ、楽やんと思ってたのですが、ウィキペディアを見ると、元になる英語ウィズドローゥがあったようでしたので、そっちを英題にしました。だいたい、作者の人はフランスとの交流が深いようでしたので、そうすると、ヒキコモリでなくイキコモギになってしまう。その辺、めんどくさかったので、こうしました。
あと、中国語ですが、《空巢》はどうも別の意味に使われているようで、ヤフー知恵袋に出て来た「宅神」が面白かったので、実際に使われているかどうかは分かりませんが、使いました。
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この辺から下は、とりあえず貼ってるだけで、どう文章を書くかまとまってないのですが、あまり放置しても仕方ないので、出します。本書を読んで私が感じたのは、私も「そとこもり」だなあ、ということ。職場と家と、興味のある場所を往復してるだけ。以下後報
【後報】
著者によると、海外で放浪してるような人は、カンバセーションがろくにない状態で、現地社会となんの折り合いもつけずずっといるわけなので、部屋の外はおろか家屋外、さらには国外にいるけれど、引きこもりと実質変わらないということで、「そとこもり」なんだそうです。それに対しドメステッィクな引きこもりは「うちこもり」部屋から出ない状態だと「ガチこもり」だそうです。頁16。
それでまあ、同じページで、著者はこころのお医者さんの主治医から、病名によるカテゴリーわけというかレッテルの問題で、適応障害とか発達障害とかそういうののない、「ただのひきこもり」と診断され、強くそれに反発、否定しようとします。西鉄バスジャックのぬこ洗面器だの、新潟少女監禁だのの犯罪者イメージばかりが蔓延する風潮下で、同一視されたくないという思いが先にたったとのこと。
そこにみられる、支援者のようでいて、実は偏見を助長するありかたを著者はサイードのオリエンタリズムをもじって「ヒキエンタリズム」と命名しています。いかにも今五十代のひとが経てきた知識潮流を感じ、世代だなあ、と思いました。あんま同時代性からは離れないものですよね、部屋の壁があっても。
フランスには日本と同じような?生活保護のシステムがあって、ひきこもりやすいようで、頁80あたりにかなり詳しい明細があります。在仏外国人にもそれがあるかは知りません。そういう本ではないので。著者がかつて滞在したアフリカも仏語圏で、そっから知り合いを訪ねて渡仏したこともあるので、それで本書にもフランス人がそこそこ出ます。たいがい五十代の著者より年下の、若い世代の現役引きこもりのもやもや感や、「もうオレは卒業したぜ」的な人の、後輩に残しておくゼ的体験談ですが…
頁29。長期間「フランスでもっとも美しい村」にランクインしている郊外農村に住む引きこもりに著者は、田舎だと濃密な人間関係が苦しくないかと訊き、観光村なので人が定住せず入れ替わりが激しいので、それはないという予想外の回答を得ています。なるほどなあ。名前が売れてる田舎はそうなるのか。軽井沢シンドローム(はそういう意味のマンガではありませんでしたが)
著者は、世界の引きこもりの共通語?というわけでもないでしょうが、日本のオタク文化に詳しくないそうで、それと関係あるのか知りませんが、頁67の注釈など、「フィギュア」だったり「ボーカロイド」だったりして、確かにこれらの言葉も、注釈が必要な人がいるかもしれないが、と思いました。
頁74
「人は、自分と同じような人を助けることはできない(On ne peut pas sauver les gens d'eux-même)」
こんなせりふが出ますが、同じでなくても、他人を助けるのは無理ですよ。ひとは自分を助けることが出来るだけ。それを見て、かかわったほかの人も勝手に直ってゆく(うまくすれば)くらいな気持ちで、気楽に行きたく。
頁78、「外傷再演」という精神医学のことばが出てきて、ひきこもりから脱する時に、ひきこもりと正反対のシビアな仕事を志したりする時に使う用語のようでした。しかしそれは、深奥の自分が、過去のトラウマ、PTSDを再体験しようとしているだけで、負の連鎖とかループから抜ける動きではなく、解決の方向ともちがう(ので、それをむりやり外部からやろうとする「ひきはがし」は、ほかの国ではまだそういう金儲けが普及していないせいもあって、非人道的行いとして本書では他国の当事者から糾弾されています)とのことで、へーと思いました。ここは、引きこもりを脱しようと兵役について、かえってだめになって、その後アルコール依存になったフランスの例。
何かとりつかれたようにいっしょうけんめいにやったりすることって、別に本当に嫌いなことではないし、そういう人って(自分も含め)実は本当に嫌なこと、向き合いたくないことはしないですからね。ほんと、気持ちいいくらいしない。ぶっ倒れるまで何かやり続ける人でも。で、だからといって、変わらないかというと、変わるようで、しかしそれは、自己評価が全然ない分野で、本人的にはどうでもよかったり、変えたくないと思ってる部分だったりで、そういうところで「最近変わったね、すごくいいよ」などと言われると、当惑の極みながらも、ほめられてうれしくない人はいなかったりするわけで、まあそれが社会かなと。
頁115
vatasino namayeva Bhurana desu! vatasiva Indo karakimasita!
上は、インドの引きこもりから来たローマ字のメール。どうもインド亜大陸は、"w"でなく"v"が「ワ」になるようで、それで読み変えると意味が分かるそうです。確かに、ワデもワダも"v"だ。ワタラッパンは忘れました。
この人は、当事者でなく支援者だと名乗っていて、しかし特にウェブの世界では、自分のことを別人のこととして話す例が多いので、うーんと著者は思い、さぐりを入れると、もう彼はそのメアドではバニッシュしてしまったとか。リアルに会うわけでない地下茎の世界なので、そういうことばっかだそうです。たつきの手段がたたれて困窮とか孤独死とかしてたらと考えるとこわいですが、そこまでクリアーに出来る紐帯でなく。
表紙一部。
頁122に、別のインドの元?引きこもりからのメールがあり、彼の語る世界観が、あまりにほかのいろいろなひとのプログラムと似通っているので、ちょっと写します。
頁122
「あなたは一人ではないこと」
「あなたにはそうなった責任がないこと」
「あなたは他の人の重荷ではないこと」
(略)
インドであろうと、日本であろうと、世界のどの地域であろうと、私たちは(略)私たちは皆、強くなるために生まれてきたのです。私たちは皆、成功するためにここにいるのです。ただ私たちには、それぞれが自分自身になるための時間が必要なだけなのです。
私たちが自分自身を受け入れ、何を始めるのにも遅すぎることはまったくないと考えなくては、自信や尊敬や成功といったものは、決して訪れることはないのではないでしょうか。
これはこの人の考え方で、そして著者はそれにコミットしません。基本的に言いっぱなし聞きっぱなし(ヒョーロン家的な人も登場するので、そういう人とはやりあいます)
頁105にアルゼンチンの引きこもりが出ます。彼のアルゼンチン社会評もおもしろいです。こういう国だからああいう形で、最高のパフォーマンスと最悪のマリーシアでワールドカップ優勝したのか。よく激昂して崩れなかったな(いつものパターン)と思いました。広い国の引きこもりは、広いところに住んでいます。人口希薄。
頁162はパナマ運河があって自国通貨のない国(米ドルが通貨)パナマの引きこもりが出て、彼は著者の文章を読んで、こんなことまで語っていいんだと思ったそうで、それとは関係ないと思いますが、「中米では無神論者(彼もそこに入る)はLGBTより疎外され排斥されている」なんて書いてます。両親は熱心な旧教信者とのこと。
頁130からしばらくは、イタリアの社会心理学者(支援者?)マルコ・クレパルディ"Marco Crepaldi"との会話で、読んでいて、けっこうお互いプライドをぶつけ合って、バチバチやりあってるなと思いました。消耗して、精神の高揚が去った後はつかれたと思います。
ゼレンスキーみたいな(うそ)著者より年少のやり手。
頁248には、ジョセフィーヌというフランスの、たぶん引きこもり以外に何かカテゴライズされる名称を持ってそうな人とバチバチにやりあって、「きっとあなたは早熟な子どもだったのでしょう」とか「へえ、あなたは相当すごい方なんですね」みたく、褒め殺したり呆れたりしてまったく通じず"go for block"してますが、ここは著者も「合わない」と認めていて、私は読んでいて、相手が女性だからというわけではなさそうだな、と思いました。しかし私がこの二人ライバル(悪い意味で)だなと思ったのは、上のイタリア人です。ほんとに組んで仕事出来なさそう。
頁254は台湾の映像作家とのやりとりで、この人とはそんなやりあってません。ここでは、引きこもりの定義について、両者に意見の相違があるのですが、お互いに尊重し合う関係を築いています。この時点での著者の引きこもりの定義は「何らかの意味で生き方が社会の主流秩序から外れ、自らをひきこもりだと考える人のことをいう」で、自らのアイデンティティを重要視する点で、スターリンの民族定義と重なると思いました。しかし著者は、のちに、登戸通り魔事件の犯人が客観的には引きこもりなのに本人が主観的にそれを否定した事例から、アイデンティティを重要視する定義を疑問視するようになります。で、どうしたかはまだ模索中かもしれません。そんな簡単に答えは出ない。
著者のヴォソットサンは、生活保護をもらっていて、ページは忘れましたが、住宅手当まで、詳細に書いてました。受給理由は分かりませんが。能書きはいいので、どうやって得ることが出来たかだけ、知りたいんだ、という人はたくさんいるだろうなと、読んでて思いました。最近話題の参議院議員になって年間三千万として、それを投票したものでわけあえば何人が口を漱ぐことが出来るだろうと思いましたが、十人で割ったらもう三百万で、何万票も入れないと当選出来ないので、無理だなあと思いました。
頁260、著者と台湾の映画監督とで、広い意味での嗜癖の話や、お金の話をしていて、
頁260
でも、もし私たちが口に出してこう言ってしまったら、どうなるでしょうか。
「ぼくは働きたくない。でもお金はほしい(以下略)
まったくその通りで。totoBIGなんて当たらないですよと思いつつ。
この本に、風景とかにせよ、画像は少ないながらちょっとはあるのですが、著者は、視覚的に理解した方が口で説明するより早い場合が多いので、けっこう画像を送れないかと頼んだりしてて(風景など)しかしそもそも引きこもり生活でスマホはいらない、パソウコンさえあればいいの人が多いので、それで画像を撮れないケースが多いようです。まあ結果的に、身バレとか自撮りの悪質なエスカレーション要求とかとも無縁な生活をキープ出来るので、相手が信頼出来ると分るまではホイホイ乗らないが吉と、改めて思いました。
最初に読んだ時は感情がたくさん湧き出て、これ感想に着手すると大変すぐると思いましたが、あまりに時が立ち過ぎましたので、さくっと書けて、よかったです。図書館の方ごめんなさい。群馬県太田にて。チェックアウト前に了。
(2023/3/6)
【後報】
本書に登場する中国の引きこもりは、在仏からのメールのみで、彼によると邦人はいないというグルノーブルです。日本企業が買収したサッカークラブがグルノーブルにあることは知らなかったようで。中国のネットカフェではかつて、連続何百時間ゲームやり杉で死んだとか、そういう話を聞いてましたし、オンラインゲーム大国で、おじいちゃんおばあちゃんに育てられる児童も多いしで、引きこもりはたくさんいると思ってます。キンペーチャン体制がそれに取り組む意思があるかは知らない。人多過ぎなので、部屋にこもってる連中の分、競争率が下がってよいのかも。
韓国の引きこもりも出た気がしますが、よく覚えてません。兵役には行くんだろう多分。そうした人たちが翻訳した情報で著者が知ったんだったかな、脱北者家族が地域で四面楚歌になって、蟄居というか引きこもり状態を余儀なくされるくだりもあり、「北朝鮮の引きこもり」として紹介されています。著者は本書のタイトルに売らんかな主義を感じていたが編集者に押し切られたそうで、しかしこのタイトルでよかったと私も思います。
(2023/3/7)