『熱い紅茶』(原題:海底の火)වඩබා ගින්න Wadabā - ginna අනුලා විජයරත්න මැණිකේ Anula Wijayarathna Menike アヌラー・ヴィジャヤラトナ・マニケー(現代アジアの女性作家秀作シリーズ)読了

熱い紅茶

粗末な茶店で生姜入り紅茶を売るタミル人の男と、それを味わう常連客のシンハラ人の<私>
さまざまな民族と文化がせめぎ合う社会で、少数派として生きるタミル人の姿をシンハラ人の<私>の眼で描く。 シンハラ語で書かれた本書は、スリランカの1993年度マクシム・ゴ-リキ-記念賞受賞。「民族と文化の不協和音を抱える国の社会派小説」 -共同通信

スリランカの小説を読もうと思って読んだ小説。大同生命国際文化基金からもスリランカ小説の邦訳が出てるのですが、三部作で量が多く、軽々しく手が出せそうにないかったので、まずこっちを読みました。巻末、訳者あとがきの参考文献を見ると、E・サラッチャンドラという近代スリランカ小説旗手の作品が二つほど南雲堂から出ていたようです。南雲堂といえば、日系米国人作家ヒサヱ・ヤマモトサン短編集の邦訳だけは再版してほしい、もしくはどこかに版権移して文庫本にでもしてほしいと切に願っています。ヒサヱ・ヤマモトサンとマレーシアの漫画家ラット(LAT)は、もっと知られてほしい。

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අනුලා විජයරත්න මැණිකේ ←著者名。本書ではヴィジャヤラトナの「ト」を「t」にしてますが、どうも「th」のようです。アルファベット表記を英語→シンハラ語でグーグル翻訳して出したものを、一度検索にかけて、本人画像などが出るサイトでファクトチェックしました。下記はご本人による、2009年のインド仏跡旅行の一部。こういうのが出て来るんだから、この綴りであってるだろうと。

බුදුසරණ අන්තර්ජාල කලාපය

で、原題のシンハラ語の綴りを探そうとしたのですが、これがめんどうでした。

①アヌラーサンはウィキペディアなし。なので、著作一覧リストもなし。

②マキシム・ゴーリキー賞歴代受賞者リストみたいなものもウェブに転がっておらず。なので、そこで1993年受賞作のタイトルを探すことも出来ず。

シンハラ語書籍のネット通販サイトで著者名検索をしても本書は出て来ず。

南インドスリランカ大学図書館のウェブ蔵書検索も試してみたのですが、本書は出ず。

⑤訳者あとがきによると、原題"Wadabā - ginna"「ワダバー・ギンナ」は「海底の火」という意味だそうで、しかし、日本語「海底の火」をグーグル翻訳すると、「火」はギンナと読むシンハラ文字になるのですが、「海底」は違う単語になってしまいます。

⑥もうしょうがないと思って、「ワダバー」を英語→シンハラ語でグーグル翻訳して、ギンナと組み合わせると、あら不思議、「ワダバー・ギンナ」についての音声説法サイトが出てきます。夢にまで見たシンハラ語。しかしその言葉は、仏陀がどうの、アーナンダがどうのという、仏教関連の単語のようで、あんま海底ではないかったです。

www.waharaka.com

www.youtube.com

書名と著者名のアンド検索で、表紙画像なり、古書販売なりが出れば御の字だったのですが、めぼしいものは出ず、でももうしょうがないので、වඩබා ගින්න がタイトルということにしました。

別の段々社の本の巻末広告に、本書の刊行予定が出ていたのですが、そこでは「海底火山」になっていました。邦題『熱い紅茶』も悪くないのですが、原題が仏教関連のことばであることに辿り着いていたら、もう少し邦題もやりようがあったかしれません。

■インドからく光り輝く島スリランカ〉へ移住し、 小さな町の駅前で粗末な茶店をいとなむ男、レンガサーミ。  タミル人の彼は、 シンハラ人優位の社会で、 シンハラ人になりきろう と健気な努力をかさねてきた。 妻と 年ごろの娘との、 貧しいながらも平穏な生活。 だが、 彼がきずいた人生 は、町の映画館でおきた些細な出来事をきっかけに一変する――。 ■仏教とヒンドゥー教シンハラ語タミル語・・・・・・ さまざまな民族と文化がせめぎ合う国スリランカ。 その 複雑な社会で、 少数派として生きるレンガサーミの姿を、 シンハラ人の 〈私〉が友人の眼で描写する。 開発の波に洗われ変わりゆく町を舞台に、スリランカの根源的な問題を浮き彫りにした力作長編。

装幀・装画 井田英一 訳者あとがきによると、在京の中村サンと在阪のスーシーサン(在日二十年)の共訳。タミル語については、ガーミニー・ペレーラサンという人と、シャムガラトニサンという人の協力を得たそうです。段々社坂井正子サンへ謝辞。トヨタ財団「隣人をよく知ろう」翻訳促進プログラム助成を受ける。

この本はいい意味でいろいろ逸脱していて、それで私は読んでいて、助けられました。

(1) この本はクライマックス、シンハラ人の暴動略奪を描いていて、だいたい暴動とはそうしたものなのでしょうが、タミル人を筆頭に、少数民族、「アラブ系イスラム教徒」や「オランダ人やイギリス人との混血人種であるバーガー」(頁204)の店がどんどん焼き討ちされるだけでなく、金目のものがある店はシンハラ人でもお構いなしにどんどん略奪されてゆきます。ミルクを輸送する大型トラックタンクローリーが爆破されるシーンはその典型。運転手はシンハラ人で、配送先もシンハラ人コミュニティなのですが、もう関係ない。こうした描写がアレで、本書が検索で出ないのかもしれないと思いました。マウンターヤの小説も張承志の小説も然りで、本国では現在進行形で入手出来なくなっている本の邦訳が、日本の図書館蔵書にキラキラと鎮座している。本書もその例ではないかと思いました。

暴動に対する苦い後悔を、タミル人難民キャンプで漏らす、「日常に還った善人」シンハラ人の描写や、テンプレと言ってはいけないんですが、暴動のさなかに産気づいた妊婦のもとへ、意を決した産婆が迎えの男性と共に、暴徒や検問を潜り抜けながら向かう描写はやっぱり素晴らしいです。産婆さんはシンハラ人で、ここでサリーを着ると明示的に書かれます(頁235)

仏教徒のシンハラ人もヒンディー教徒のタミル人もサリーを着るのですが、女性が額に赤や黒の印(ポットゥというそう)をつける習慣はヒンディーのものなので、シンハラ人はしないとか(どこのページか忘れました。主人公一家はシンハラ人の海に同化しつつあるタミル人なので、娘が印をつけているのを語り手のシンハラ人インテリが見たことない、という書き方をしています)これは知りませんでした。また、仏教はカーストがないので、カーストで苦悩するのはもっぱらタミル人ということになり、嫁の実家が嫁ぎ先に持参金を持っていく習慣もタミル人だけで、シンハラ人はそれらを知ってはいるが自分たちには関係ないので、ニヨニヨしながら見ているんだそうです。

(2) 本書は冒頭、すべてが終わって、主人公一家が破滅した後の光景から書き出されています。ところが、作者が書いていて、暴動のなまなましさにいろいろプロットが飛んでしまったのか、語り手の一人称と、タミル人主人公の三人称が交互に続いていく設定がどっかへ行ってしまい、語り手が三人称でバンバン登場し出し、あげく、すべてが終わって死んだと思っていた冒頭の歴史が改変されたかのようなオチを迎えます。これは、作家的良心が、社会派を貫くことに優先したんだと思いました。ので、この小説は、破綻した構成であり、小説のプロみたいな人たちからは、ギミックとしての評価はかんばしくないのかもしれません。しかしパトスが勝った。今、原書が検索で出てこないのは、その辺の事情もあるのかもと思います。

(3) 社会派として読むと、もう苦痛で苦痛で、地主の遊び人がどういうやりかたでタミル人一家を破滅させるのかとか、年頃を迎えるひとり娘がどうなるのかとか、コツコツ溜めたお金は強盗に遭うのか騙し取られるのかどっちなんだと、読んでいて気が滅入って、ページを繰る手もとどこおりがちでした。熱情が勝って、勝手にストーリー、作中世界が暴走してくれて、ほんとうによかった。予定調和なまま悲惨な結末を迎えて、神よ、この哀れなタミル人の魂を救い給え、なんて落ちは読みたくなかったので。

・この娘さんの愛称はペッタンで、意味も書いてあったのですが、忘れました。⇒頁41。オウム🦜のようにかわいい子だったので、オウムの愛称、ペッタンと呼ばれるようになったとか。二ヶ所ほど、彼女の肌の色の描写があって、一ヶ所は忘れましたが、もう一ヶ所は頁141。ジャフナ・タミルの母親と、インド・タミルの父親の肌の色を三対一で混ぜ合わせたような色で、とても男性を魅了する、蠱惑的な、アトラクティヴな肌の色だそうです。そう言われましても、さっぱり想像がつきません。

タミル系の女性がきれいなのは、私もマレーシア、シンガポール、東京で見てますが、肌の色というより、漆黒で彫りが深い顔立ちが、神様の奇跡みたいなので、そう思うです。そう言うと黒人的な顔立ちの人に恐縮ですが。映画「マルコムX」で、マルコムXが、イタリア系の父譲りのすっと通った鼻を自慢する黒人をボコボコにする場面がありました。フリューゲルスにいたブラジル代表セザール・サンパイオは、来日当初はヘディングなどで鼻が潰れていたのが、整形したみたいで、後で見るとすっと通った鼻になってた。

pt.wikipedia.org

・タミル人はインド・タミルのほうがスリランカのジャフナ・タミルより下で、主人公一家は百年前にインドから来た主人公がプランテーションの同族集落(本書では「エステート」という英語で表現されます)の一族同居に腰を落ち着けられず、飛び出して都市でくず回収や紅茶売り、自転車預かりなどさまざまな商売をしながら、没落して持参金が出せないジャフナ・タミル一家から嫁をもらい、さずかったのがひとり娘という設定です。彼らはタミル人の村落共同体(といっても旧宗主階級が所有していたプランテーションの中なのですが)に属さず、シンハラ人社会で、半ば同化しつつ、しかし周囲からも下に見られることでけっして完全には同化されないという立ち位置で生きています。何処も変わらん。タミル人のシンハラ語の蔑称はデマラ。パラデマラは外国のデマラの意味で、インド・タミル人。

シンハラ語でキャッサバはマンニョカというそうで、ブラジルでもマンジョッカというので、ポルトガル人が伝播させたのかしらと思いました。ゴア経由で。

・本書はサンボルをサンボールと書くのですが、削りココナツを加えたポルサンボル以外に、砂糖を加えたシニサンボルというのもあるそうで、後者は知りませんでした。シニサンボルはどういう料理に使うのか、今度スリランカ料理店に聞いてみます。

ビリヤニは本書では「ブリヤニ」と書かれます。頁187登場。

スリランカの、人をバカにするときのあだなで、かつてヒンディー教の司祭に実在した、腹が出て太った、背が低くて髪の毛が薄い人物の名前「プーサーリ」があるそうです。私は腹は出てないつもりですが、髪の毛がアレなので剃ってしまったので、プーサーリと言えるかどうか、今度スリランカ料理の店の人に訊いてみます。

・カトゥルムルンガという野菜と、パニ・トーラという野菜は、それ以上の説明がないので、調べてみようと思います。分かればいいな。頁43。

・生薬を「漢方薬」と書いていて、ちょっと違和感がありました。アーユル・ヴェーダ医学に基づいた治療に使うんなら、「漢方」じゃないんじゃと。頁183。

エステートに住んでいるタミル人は、ろくにシンハラ語が話せないそうです。すごい分断。

・サウミヤ・ムールティという、ヒンディー教の神さまも、それ以上説明がないので、調べます。頁92。

スリランカの賃仕事、日雇い仕事は、何のコネもないと、直接金を払ってサボリまくられるそうですが、人間関係のアヤを使って、金を借りてる人間、金銭以外でも社会的な借りを返してない人間にやらせることで、自発的にとってもよく働いてくれて、いろいろ気も回してくれて、しかも謝礼を受け取らないという素晴らしい結果に終わるそうです。人間関係はこう使え、の見本みたいな話。日本はもう、引っ越しですら知り合いに応援を頼まなくなってきてますが、それはそれであとくされがないので気が楽という…

(4) 本作は、スリランカの高度経済成長時代を舞台にしてるみたいで、密林が伐採されて道路が作られ、公団住宅が出来、そこに一攫千金をあてこんだ商店街も出来るが、商業施設は商業施設で別にコンプレックス、ショッピングタウンが出来ていいもの売ってたり、農民のニワカ商売の、大八車の屋台や筵の上に広げた食材販売から買った方が新鮮で安いので、団地併設商店街に栄枯盛衰があったり、という描写が続きます。中でも都市開発に伴う地価高騰、それによる成金の登場や、泣き笑いの数々が見どころのはずなのですが、私はどうも神経が細いのか、そういうのは客観的に読み続けられず、株とか出来ない人間なのかなあ、と自己分析したりしました。

やっぱり、私は、料理を食べるのもさることながら、当該国の文学を読んで検索するアプローチが性に合ってるので、今までスリランカにそれを試してなかったのが、ちょっとタイムロスだったかなと思いました。でももう後五冊くらいしか小説は邦訳がない気瓦斯。しかもそのうち三冊は三部作の大著。とほほ。以上

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カバー折の著者紹介
アヌラー・ヴィジャヤラトナ・マニケー
(Anula Wijayaratna Menike)
現代スリランカ文学を担う シンハラ人女性作家
1949年、 スリランカの古都クルネーガラに 生まれる。 首都のスリジャヤワルダナ大学で シンハラ文学を専攻、 卒業後教職につく。 現 在も執筆活動の傍ら教鞭をとっている。 学生 時代から詩作を好み、 '79年に一冊目の詩集を 発表。'88年処女小説 「貴族たちの子供』 でス リランカ作家協会文芸賞受賞。 また 「泥棒は 誰」 「時計のある町の晩餐会」 「金の壺の宝物』 などの児童書も高く評価されている
シンハラ語で書かれた本書は、スリランカ の'93年度マクシム・ゴーリキー記念賞最優秀 賞受賞。 近くタミル語版、英語版も刊行予定。 スリランカ文学界で現在活躍中の作家のひとりである。