『スリランカから世界を眺めて』"The view from Serendip" by Arthur Charles Clarke アーサー・C・クラーク 小隅黎=訳(ハヤカワ文庫NF)読了

軌道エレベーターを描いた『楽園の泉』を読んだら、思いもがけずスリランカ(を強引に赤道直下に移動させた架空の島)が舞台でしたので、この人、私の予想以上にスリランカが好きなんだなと思って、これも読んでみました。1960年代から70年代までのエッセーを集めた本で、スリランカ絡みのエッセーも入ってます。

宇宙を愛し、海を愛する現代SF界の巨匠クラークがさがしあてた地上の楽園、 スリランカ。彼はこの伝説に彩られた美しき島を拠点に、持前の軽妙でユーモア あふれる語り口をもって、世界各地で科 学解説・啓蒙活動をくりひろげてきた。 宇宙計画の将来は? 真空中で人は生きのびられるのか? 地球外生命の可能性は? 2001年の世界は? 本書はこういった疑問に答える科学エッセイのほか、 最愛の地スリランカでの生活点描、難破船の財宝引揚げをめぐる海洋冒険譚など 60~70年代のクラークの活躍をあますところなく伝える自伝的エッセイ集である。

1981年サンリオ文庫、1988年ハヤカワ文庫。電子化未。カバー・鶴田一郎 巻末に本書登場の作品一覧(エッセー含むので未訳多数)と永瀬唯サンの解説「ロケット運動の闘士 ――アーサー・C・クラーク

スリランカから世界を眺めて (サンリオ): 1981|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

スリランカから世界を眺めて (早川書房): 1988|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

解説によると、クラークサンは1953年6月、フロリダ海浜でマリリン・メイフィールド嬢と運命的な出会いをし、わずか数日間の交際ののち婚姻し、同時に二人の関係は破局を迎えます。当時クラークサンは36歳。マリリン22歳、男の子をひとり産んで育ててます。クラークサンは大戦中英国空軍に勤務していたので、当時の中立国以外の男性の常として、晩婚だったのは分かります。マリリンサンが寡婦だった理由も、書いてはありませんが戦争が原因だったのかもしれません。しかし。

en.wikipedia.org

離婚は1964年まで成立しませんでしたが、クラークサンのスリランカ移住は、彼女からの逃避だったとか。1954年オーストラリアへ逃避行の途中、スリランカに半日停泊、立ち寄る。1956年セイロン移住。

英文版ウィキペディアより(邦文やシンハラ語版には彼女のその後の記載なし)

Marilyn never remarried and died in 1991. Clarke also never remarried, but was close to a Sri Lankan man, Leslie Ekanayake (13 July 1947 – 4 July 1977), 

(グーグル翻訳)マリリンは再婚せず、1991年に亡くなった。クラークも再婚はしなかったが、スリランカ人男性のレスリー・エカナヤケ(1947年7月13日 - 1977 年7月4日)と親しく、

エカナヤケサンは、クラークサンの人生におけるパーフェクト・フレンドだったそうで、ふたりはコロンボの同じ墓地の同じお墓に埋葬されています。本書には、出ないかな。まあ、英語版にはいろいろ書いてあります。タミル語版だと、クラークサンがスリランカを選んだ理由は、移住後1964年のポリオ感染と車椅子生活が大きいとなっています。

タミル語ウィキペディア

1962-ல் இவர் போலியோ நோயினால் தாக்குண்டார். நோயின் தொடர் விளைவால் வாழ்வில் பிற்காலங்களைப் பெரும்பாலும் இவர் நகரும் நாற்காலியிலேயே கழித்தார். இவரது வெளியுலகத் தொடர்பு, தொலைபேசி மற்றும் மின்னஞ்சல் வழியாகவே இருந்தது. தன் கற்பனைக்கும், சிந்தனைக்கும், எழுதுவதற்கும் ஏற்ற அமைதியான இடமாக இலங்கையில் கொழும்பு நகரைத் தேர்ந்தெடுத்தார். 

(グーグル翻訳)1962 年に彼はポリオに罹患しました。彼は慢性疾患のため、晩年のほとんどを車椅子で過ごしました。彼と外の世界との連絡手段は電話と電子メールでした。彼は想像力、思考、執筆のための平和な場所としてスリランカコロンボを選びました。

本書はクラークサンが生前に書いた本ですので、その辺のことは全然書いてませんし、カムアウトとアウティングはちがうということであれば、それでよいのかと。

カバー折の著者写真が禁転載明記で、さいごのエッセー「アユ・ボワン!」を読むと、写真の配布はしないなど、晩年のポリシーが箇条書きされており、それでだと思いました。いちいち手紙のやりとりをするヒマがなくなったクラークサンが、テンプレのガリ版返信書文を一律返信することにした、その文面をそのまま載せたエッセーです。クラークサンがどういう人かよく分かる例として、このビジネスレターにまつわるあらゆる著作権の放棄を宣言もしています。原稿を送られても一切助言等しませんとか、スリランカ外の講演依頼は断ってますとか、いろいろテンプレを書いて、ぶえんりょな面識のない世界のマスゴミ・団体からの依頼をシャタウト。謄写版で返信を刷ってるのが、時代というかなんというか。ゼロックススリランカにはそれほど普及していなかったのか。ましてやプリントゴッコにおいてやをや。作家になりたい人は、モームの『作家の手帳』でも読んでみたら、だそうです。

ආයුබෝවන් - විකිපීඩියා

アユ・ボワン(ボワンは"bowan"でなく"bovan"で、インド亜大陸の”v”が「わ」になるルール*1を踏襲。クロアチアのボーバンは"boban")は「いらっしゃいませ」にあたることで、長寿を祝してるのか祈念してるのかという意味だそうです。

移住当初に書かれた頁28によると、スリランカの使用人はシンハラ語と英語とタミル語で併記された「使用人登録簿」を持っており、それには指紋、姓名、父親の名前、出身地、住所、人種、階級(カースト)宗教、職能、財産、年齢、身長、つくり(肌の色、鼻、口、目の色とかたち、髪の色と毛質と髪型、歯、ヒゲや眉など顔面の毛のディティール、ふだんどんな顔つきか、身体に傷跡やあざなど、ずっとあとまで判別がつく特徴があるかどうか、既婚か独身か、家族構成、云々。英国植民地時代は携行が義務付けられてましたが、独立後は形骸化したが、欧米人の使用人として就職する際にはやはりあったほうがいいのだとか。使用後のあれこれ、盗癖があるなどを雇い主、ボスが書く欄もあり、ヘタなことを書かれるとクビになった後再就職が困難になるわけですが、前途ある若者の未来を案じて手加減して真実を書かないと、それはそれで次の雇用主が顔を真っ赤にして怒鳴り込んでくるという。在スリランカ外国人社会に波風が。

クラークサンは英国人ですので、こういう欄には皮肉以外書くことがないことをよく承知していて、褒め殺しの数々を記入例として挙げています。「まあまあ」とか「一見正直」とか「もっと経験を積めば」とか「熱中しすぎないタイプ」とか「監督していれば裏切らない」とか「馘首でなく自主退社」とか。今の日本でも過去の勤務状況を尋ねられて、こう答える会社は多いかも。

クラークサンが最初に雇った使用人は、四十台で子だくさんの妻子持ち男性で、余白には二十年前にひとこと、「陰気」と書かれているだけだったそうです。のちに、主人の酒を飲む、隠れ酒派の大酒のみであることも発覚。しかしクラークサンは彼を雇い続けます。たしょうのちょろまかしには目をつむって。それ以外にも何人も雇って、やめてゆき、また雇って。

頁39

 パンダのあとしばらくしてやってきたガミニは、情熱的な瞳を持ち、謎めいたほほえみをたたえた美少年だった。彼は台所仕事はあまり得意でなく、暇さえあれば髪を櫛でといたり、居間に花を活けたりしていた。やがて友人の何人かが、おかしな目でこっちを眺めはじめたので、わたしたちは、彼にどこかよその家で花を活けさせてやることにした。引きとったのは友人のファッション・デザイナーで、その優雅な家でなら、彼もきっと幸せだったにちがいない。

ここで「わたしたち」と書かれてるのは、スキューバ仲間でいっしょに移住したアメリカ人夫妻のこと。レスリーが「おかしな目で」見てきた「友人の何人か」に含まれていたかどうかは分かりません。

頁47

(前略)わたしは強い酒がきらいで、かわりにブリストル・クリーム・シェリーだとか、知り合いの酒豪たちのあいだでは「咳どめシロップ」とばかにされている甘口のリキュールなどを愛用していたからである。

お酒の方が咳止めシロップより効くんですね。

頁172

 ここを訪れる西欧人の便宜をさらに大きく高めてくれる要素のひとつは――ほかの異邦情緒ゆたかな国々とは対照的に――どこへいっても英語が通じ、事実上あらゆる道路標識にローマ字が(シンハラ語タミル語とともに)使われていることである。一九四八年まで英国の植民地だったため、教育のあるセイロン人はみんな二国語育ちバイリンガルである。(略)有名なヴィクトリア慣用句集に出てきそうな"Help! My postillion has been strock by lightning."「助けて! わたくしの御者が雷に打たれました」といったいいまわしを理解できるものがひとりもいない場所を旅行者がさがし当てるには、かなりの決意と努力が必要であろう。

このエッセーの時代はシンハラ語普及が進んだ時代だったので、いったん英語化は停滞したようですが、タミル人の反発暴動反乱からシンハラ語モノリンガル化がとん挫したことは歴史的事実。先日読んだグレゴリー・ケズナジャットサンの『鴨川ランナー』に出て来る邦人英語話者女性は、フワちゃんなんかの反対で、ベッドでのピロートークはエロエロなのに、普段の英語会話はきれいな教科書英語、スタンダード・イングリッシュを心掛けていて、テレビのフィリピンロケで英語でハジけてるフワちゃんを見ると、ちがうものだと思います。本書はタミル・イーラム解放の虎時代は出ませんが、70年代初頭の、一万五千人に上る叛徒と容疑者を捕虜キャンプに収容した極左テロは出ます。

頁179

(略)いまにいたるまで、その首謀者ははっきりつきとめられていないが、疑惑の目は北朝鮮に向けられている。先立つ数ヵ月にわたり、いくつかの地方新聞が、英雄金日成キム・イル・スンの業績を読むに耐えぬほど誇張して書き綴った論説を掲載していたからである。その行文をなんとか読むに耐えた辛抱づよい読者は、まるで専門家の教育をうけたように、自動的に革命の原理を身につけてしまった。この符合は偶然とは思えないと感じたセイロン政府は、北朝鮮国籍の人々に国外退去を命じた。

本書はスリランカ以外に技術史、技術の革新や宇宙についてのエッセーも多数収められていますが、頁362、電話の歴史の箇所で、スターリンが「電話を手にしたジンギス・カン」というあだなで呼ばれていたことを記しています。モンゴル人は聞いたら怒るかな。オーノス・チョクトサンとか朝青龍とかどうだろう。

頁311、衛星放送は情報量を増やして、送り手の優位は、「今世紀が終わるより前に、通信衛星は、人類共通の第二言語が英語になるか、ロシア語になるか、中国語になるかを決めてしまっているでしょう」とあります。外れた気がするのですが、どうでしょうか。

クラークサンは晩年はポリオの影響でか、国外講演をやめたのですが、それまでは、スリランカから徴税追放という処分を受けていて、一年のうち六ヶ月は国外退去させられており、その期間を講演旅行に当てていて、アテンドは一切エージェントに任せていたが、それによりけっこうな収入を得ていたそうです。徴税追放ってなんだろう。スリランカ居住者としての納税を拒否していたのかな。だとしたらずっこいです。

頁182

 ポルトガルは剣と十字架を、オランダは会計簿と法律書を。英国は道路と鉄道をもちこんだ。それぞれの侵略は、この国本来の生活様式を破壊したが、完全に壊滅させるまでにいたらず、かくてセイロンの今日の魅力は、この文化の異常な混合ぶりによるところが多い。コロンボの電話帳をひと目見れば、そこに歴史の断面と、はからずも進められた遺伝の実験とを見てとることができる。ペレラが七ページにわたり、デ・シルヴァもそれに匹敵する――ほかにもフェルナンド、デ・ソーサ、ディアス、ゴメスなどが散見される。ついでページをめくり、世紀が変わると、少数ながら新来のロゼフ・コンラートにはじまり、ファン・ランヘルベルフ、ナタニールス、ブロヒール、ヨンクラース、クーネマン、ヘイン、クールメイエルといった名前が見つかる。

 以下のものは純粋なセイロン系だ――セナナヤケ、ヘティアラクチ、バンダラナイケ、キルティシンゲ、アトゥコラーレ、ウィジェラツネ、グーネワルデネ・これらセイロン家系は人口の七十パーセントを占め、その言語はいまや公用語となった――が、これはいまひとつの大きな種族であるタミル人にとっては、かなり不利益になる。電話帳の中に見られるタミル系の名前の中には、まったく舌をかみそうなものもある――アミルトハナヤガム(この文章をタイプしてくれている人の名)、グナーサムバントハン、バラスブラマニアム、ドゥライッパハパトハル。そして何世紀にもわたる貿易が必然的にばらまいた名前――モハメッドにマクラレンにヒュティアルに、チェンにモサジー

続けて、スリランカの戦後人口爆発は、ハーマン・マラー博士がジクロロジフェニルトリクロロニタンの特性を発見し、DDTという薬が作られ、マラリアの猖獗から人類が解放されたからだとしています。米軍統治下の沖縄みたい。今沖縄に行くと、コンビニの店員さんはスリランカ人ばかりだそうで、沖縄の失業率を考えるとふしぎなことですが、正規雇用とパートタイムアルバイトのちがいでしょうか。

考えると、本書に出て来る人物は男性ばっかりで、性癖はともかく、ホモソーシャルな世界に生きた人であったことは間違いないと思います。軍隊がなければ、ハインラインのような別傾向の作家になっていたであろう、とは解説者の弁。頁215のアイザック・アシモフ講演(国際メンサ協会英国本部講演)の前座、話者紹介の弁などは抱腹絶倒です。アシモフはここではアモフと書かれています。ブラッドベリキューブリック同様、飛行機に乗れない人だったとか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

アシモフサンの飛行機嫌いをあげつらった前座が終わった後、アシモフサンは、船酔いの恐怖から逃れ出た船旅でクラークが「ポセイドンアドベンチャー」船内上映を決行するとにこにこ話してくれた思い出を語ります。上映するという英国流ジョーク。

 

キューブリックサンとクラークサン不仲説を私はどこかで吹き込まれて信じているのですが、本書にそういう箇所はありません。しかし、2010年を書いた人であることはよく分かります。宇宙ステーションで大リーグの話を、ハンバーガー食べもって話す場面を書きそうな人だな、と。キューブリックが極力排除した「生活」場面。大リーグが今では人気面でバスケとアメフトの後塵を拝すことになろうとは、そもそもクリケットの国スリランカでその場面を書いたクラークサンには想像もつかなかったかもしれません。

タイトルのセレンディップは、掘り出し物とでもいうのか、予想外のものが出て来る玉手箱みたいなイメージだそうです。

serendipの意味・使い方|英辞郎 on the WEB

以上

*1:

stantsiya-iriya.hatenablog.com

頁115

vatasino namayeva Bhurana desu! vatasiva Indo karakimasita!

上は、インドの引きこもりから来たローマ字のメール。どうもインド亜大陸は、"w"でなく"v"が「ワ」になるようで、それで読み変えると意味が分かるそうです。確かに、ワデもワダも"v"だ。