『酒の肴・抱樽酒話』 (岩波文庫)再読

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)

昔いっぺん読んでいたのですが、図書館でなんとなく手に取り、
面白かったのでもういっぺん読んでいます。

日本の名随筆「酒場」*1の巻末参考文献にも
出ていたのですが、リストコピーし忘れました。

青木正児というと、さねとうけいしゅうの本で紹介されていたと思いますが、
戦後間もない頃、華僑の人と新聞の投書欄で、「支那」呼称の是非について
丁々発止のやりとりをされていた、京大支那学に愛着のある、泰斗です。
どの本だったか忘れましたが、ご自身の出身を中国西端の海に面した所、
と書いておられ、中国の西はシルクロード、砂漠で海はないだろう、
さまよえる湖ロプノールのことを指すメタファーなのか、核実験はいほーと瞬間考え、
読み進めて冷静になり、ああ、日本国中国地方山口県ということなのか、
と納得した記憶があります。あとは後報。

さまよえる湖 (中公文庫BIBLIO)

さまよえる湖 (中公文庫BIBLIO)

【後報】
上記はこの本でした。

頁92 酒の肴 12 豆腐腐談
仁寿は今の四川省永寧道仁寿県で、成都の南方にある。ここが虞集の先祖からの郷里で、集の父なる汲に至り、南宋の滅亡後、臨川の崇仁に僑居したのであった。
 私は海の幸に恵まれた中国西端の港に育った者で、芋食い人種でも「豆食い人種」でもないが、子供の頃から、やはり「天性殺生を喜ばない」で、豆腐が好きである。

頁33 4 酒盗のくだりで、和漢三才図会は鰹節は土佐を第一としながら、
酒盗とカツオのタタキでは土佐を挙げていないとしているところを読んで、
このタタキは、現在のタタキではなく、なめろうだろうと思いました。
頁45 5 鮒鮓では、新潟県北魚沼郡奥羽越でも鮎や鮭でナレズシを作っている、
民俗学の本に書いてあるとあり、へえと思いました。
さらに頁67 8 河豚で、中国では河豚は春に川を遡上する魚とされており、
だから「河」豚だとありました。講座「中国に川はない」*2では、
北方の河川を「河」、南方河川を「江」と中国語の世界では書き分けてる、
とあり、漢詩に見える河豚が江南の「江」産ばかりなのに「河」豚とは、
これいかに、と思いますが、その点に関しても、黄河がむかし、
江蘇省淮陰で淮水と合流して黄海に注いでいたころ、
黄河の河豚が有名だったと、納得のいく周到な説明をしています。

東洋学の系譜

東洋学の系譜

東洋学の系譜〈第2集〉

東洋学の系譜〈第2集〉

東洋学の系譜 欧米篇

東洋学の系譜 欧米篇

著者の博覧強記は凄まじく、漢籍だけならまだしも、
雍州府誌やら延喜式やらもぽんぽん出てくるので、
唖然とします。上の系譜を見ると、加えて英欧語、
西アジアをやる者は当然のようにペルシャ語トルコ語アラビア語
掠めてゆくわけですから、系譜を見るだけで目頭が熱くなります。

前回読んだときは印象に残りませんでしたが、
この本は中華文献に見える酒害についても、
「瓶盞病」(銚子盃病)として紹介しています。
下記は宋の陶穀『清異録』酒漿門を訳した箇所。

頁146
酒ずきは朝となく晩となく、寒いにつけ暑いにつけ、楽しいといっては酔い、愁えても酔う。閑だといっては酔い、忙しくても酔う。肴の有る無し、酒の善し悪し、一切構わず。質入れ、無心、借金、掛買い、一向平気で、日ごとに飲み、飲めば酔うまで。酔うを厭わず、貧しきを悔いず、俗にこれを瓶盞病と名づける。『本草』(薬物学書)を片端から掲っても、『素問』(古代の医学書)を仔細に検べても、これに効く薬ばかりは出ていない。

上古のアル中大人物は殷の紂王で、
革命成って政権奪取した周王朝は粛酒令を出したとか。
それが『書経』「酒誥」一編。中華最古の戒酒勅令。
三千年前。日本は縄文時代まっさかり。

頁147
もしも、人民が集って酒を飲んでいる、と密告する者があったら、逃してはならぬ、一人余さず引捕えて周の都へ送れ、予は殺してしまうであろう。ただし殷の遺臣及び官吏はまだ飲酒の悪習がぬけきらないのだから、飲んだとてすぐ殺しはしない。まあ寛めに見て教戒し、言う通りにするものはそのまま使ってやるが、もしわが教戒を守らない場合は、我一人同情はしない、そのまま許してはおけぬ、人民と同様に殺してしまうぞ。

殷周伝説―太公望伝奇 (22) (Kibo comics)

殷周伝説―太公望伝奇 (22) (Kibo comics)

論語』郷党篇によると、孔子は底なしで、ただ乱れなかったとか。
ほんとにまあ、歴史とは記録の積み重ねですね。縄文時代から記録が残ってる国。

頁153
 とにかくこの病に一度罹ると不治である。あるいはこれを戒める者があっても、何の彼のといって逃げ口上をこしらえる。

酒飲みの代名詞となる竹林の七賢人のひとり劉怜、晋の孔群、宋の李瀆素、
あと艾子の否認エピソードを列記しています。
弟子が艾子の吐瀉物に豚の臓物を混ぜて、五臓が四臓しかなくなったと告げる。
艾子は笑って、
唐の三蔵(玄奘)でさえ生きられたのに、わしは四蔵あるではないか、と。(頁154)
瓶盞病の次には、「止酒」をうたった漢詩を紹介しています。
以下後報。(2014/3/15)
【後報】
まず陶淵明。漢文は検索出来ますので、青木正兒訳文を、一部だけ抽出。

頁157
今まで酒を止めなかったのは
酒を止めれば楽しみがないからで、
暮に止めれば眠られず
朝に止めれば起きられぬ。
今日は止めよう、明日は止めようと思えど
止めると血のめぐりが悪くなる。
止めたら楽しめぬとばかり考えて
止めて得がいくなんて信ぜられなかった。

ところが、止めた方が善いと始めて覚った
今朝こそは本当に止めるぞ。
これから一ぺんに止めてしまって
扶桑の島へでも行ってしまおう。
酔をさまして素面になって

酒を止めると日本に行くことになるのがよく分からない。
徐福伝説でも踏まえてるんでしょうか。不老不死の…
北宋の梅尭臣(聖兪)「樊推官勧予止酒」訳文抜粋。

頁159
飲むといつでも嘔いたり下したり、六腑の和らぐはずはなく、
二日酔いで頭挙らず、部屋はぐるぐると渦巻く。』
楽しもうとして反って病むのだもの、どうして衛生に叶う道理があろう。
もうこれから止めようと思うが、ただ人にひやかされるのが気になるばかり。』

本人は肺病だと思い込んでますが、おそらくは胃潰瘍か食道ナントカ瘤破裂で、
何度か吐血したようです。でもまあ、断酒の意味が分からない友人から誘われて、
一度は断りますが、二度目からはまた飲みだしたとのことです。
南宋の楊万里(誠斎)の「止酒」詩は、結局止めないと歌った詩です。

唐代の、弱いが酒好きの白楽天の、朝酒の詩もありましたが、割愛。

飲酒の詩は、元代にアラク、阿里乞とか阿剌吉と書かれた焼酒、
西方から度の強い蒸留酒(現在の白酒)が伝わるに及んで、
すたれていったようです。中国人の飲み方も、科挙の普及に伴い、
乾杯文化、ゲームで負けた奴が一気する文化に変わってゆく。

頁183
しかるに中華における大酒の会は単に人に大酒を強いて盛りつぶすを快とするのみであって、量の多少を競う闘争的気持はない。秀野園入社試験の場合の如きは量の多少を論ずるが、やはり闘争的気持はなく、これは隋唐以来久しく知識階級の立身出世慾を支配した科挙、即ち文官登用試験の思想から来ているものと見るべきである。彼我国民性の現わるる所はかくの如く異っている。しかして彼の大酒会において人に酒を強いて快とする観念は、いわゆる「罰爵」の風に基づくもののように思われる。罰爵(爵は杯の一種)とは過失を犯した者に罰として酒を飲ますことで、

周恩来が、自分は口に含んだ酒をハンカチにこぼして、
田中角栄を撃沈した乾杯合戦は、こうした歴史の延長線上にあったのですね。
http://www.kyodo.co.jp/kyodopress_cms/wp-content/uploads/2012/04/025ccca81d51f4e4a94328ff34b34ea1-430x276.jpg
http://www.kyodo.co.jp/photo-archive/nicchu/
式亭三馬『無手七癖酩酊気質』を紹介してるので読んでみたかったですが、
収録本が分からないorz

頁230 酒中趣の序
 酒はもとよりわが性の愛するところ、酒を飲み、酒の書を著すことは、楽しみ中の楽しみである。酔叟近頃の日課は、晩酌して早く床に入り、ラジオを聴きつつ眠る。二時か三時頃に目が覚める。静かに書斎に坐して物を書く。ほっこりすると、煙草代りに瓢箪の酒を二杯か三杯飲む。飲み過ぎて睡くなると、また床に入ることもある。朝飯前にまた冷酒を小さいコップに少量飲むと、食慾を増進する。食後横になってラジオを聴く。とろとろとまどろむこともある。起きて早朝執筆した草稿を清書することもあり、読書することもある。午後は舌耕に出かけることもあるが、人を訪問することは殆どなく、散歩することも少い。こうして出来たのが本書である。

75歳、山口大学も退官された後の文章。この二年後没。
死ぬのだから好きに生きたい、とされたわけでもないでしょう。
なんとなく、サイバラの旦那が、ガンで死ぬことが分かった後、
でも酒は止めたままだったのを思い出します。
(2014/3/16)
【後報】
中国が酒に乱れるのを良しとしない文化(無礼講が無い文化)というのは、
『酒乱になる人、ならない人』 (新潮新書)*3にも
書いてありましたが、改めてその歴史的形成を教えられました。
蒸留酒科挙の結びつき…面白いです。
(2014/3/18)