『酒』(日本の名随筆11)読了

日本の名随筆 (11) 酒

日本の名随筆 (11) 酒

【内容目次】←アイウエオ順にソートされてます。実際の順番と違う。
http://www.sakuhinsha.com/essay/9117.html
出先で、このまま返却しちまうので、図書館から打ち込んでいます。

頁17 堀口大學「詩の味・酒の味」
だがしかし、試みて僕は知っている。酒の一番うまいのは、朝湯のあとの小酌だと。この点、小原庄助さんは偉かったと思う、羨ましいとも思う。だが僕にはまだあのまねが出来ない。
 朝湯のあとで一ぱいやってしまったのでは、その日一日がまるつぶれ、仕事が出来なくなってしまうのである。やんぬる哉!

ここで踏みとどまれるのはたいせつ。
中原中也ネタは面白いので、少し長いが抜粋します。
女性飲酒に関する安吾説は、まだよく解明されてない頃の与太話と思って下さい。

頁122 坂口安吾「ちかごろの酒の話」
 酔うために飲む酒だから、酔後の行状が言語道断は申すまでもなく、さめれば鬱々として悔恨の臍をかむこと、これはあらゆる酒飲みの通弊で、思うに、酔っ払った悦楽の時間よりも醒めて苦痛の時間の方がたしかに長いのであるが、それは人生自体と同じことで、なぜ酒をのむかと言えば、なぜ生きながらえるかと同じことであるらしい。酔うことはすべて苦痛で、得恋の苦しみは失恋の苦しみと同じもので、女の人と会い顔を見ているうちはよいけれども、別れるとすぐ苦しくなって、夜がねむれなかったりするものである。得恋という男女二人同じ状態にあるときは、女の方が生れながらに図太いもので、現実的な性格がよく分るものであり、だから女の酒飲みが少いのかも知れぬ。
 女はそのとき十七であったから、十一年上の私は二十八であったわけだ。この十七の娘が大変な酒飲みなのである。グラスのウイスキーを必ずぐいと一息で飲むのである。何杯ぐらい飲んだか忘れたが、とにかく無茶な娘で、モナミだったかどこかでテーブルの上のガラスの花瓶をこわして六円だか請求されると、別のテーブルの花瓶をとりあげてエイッと叩き割って十二円払って出てくる娘であった。しょっちゅう男と泊ったり、旅行したりしていたが処女なので、娘は私に処女ではないと言って頑強に言い張ったけれども、処女であったと思う。日本橋にウヰンザアという芸術家相手の洋酒屋ができて、そこの女給であったが、店内装飾は青山二郎で、牧野信一小林秀雄中島健蔵河上徹太郎、こう顔ぶれを思いだすと、これは当時の私の文学グループで、春陽堂から「文科」という同人雑誌をだしていた。結局その同人だけになってしまうが、そのほか中原中也と知ったのがこの店であった。直木三十五が来ていた。あの当時の文士は一城をまもって虎視眈々、知らない同業者には顔もふりむけないから、誰が来ていたかあとは知らない。
 中原中也は、十七の娘が好きであったが、娘の方は私が好きであったから中也はかねて恨みを結んでいて、ある晩のこと彼は隣席の私に向って、やいヘゲモニー、と叫んで立上って、突然殴りかかったけれども四尺七寸ぐらいの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらい離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウィングやアッパーカットを閃かしている。私が大笑いしたのは申すまでもない。五分ぐらい一人で格闘して中也は狐につままれたように椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こっちへ来ないか、私が誘うと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言いながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になったが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずという顔をした。それほど惚れてはいなかったので、ほんとは私と友達になりたがっていたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であった。

http://img.travel.rakuten.co.jp/share/image_up/10757/LARGE/VKyEdT.jpeg
図書館は三十分しかPC使えませんので、暢気に履歴削除とか確認してたらタイムアウト
打ち込み未完で返却出来ず。となるのは嫌なので、必要箇所ゼロックスして返却。
家で続きを入力します。

頁132 野坂昭如「わが焼酎時代」
 ぼくは、一日にウイスキーをほぼ一本飲む、もっとも週に二日は、意識して休むけれど、完全なアルコール中毒者であろう。

久里浜の本を読んでいたら、離脱というか禁断症状は四十八時間後に現れるとあり、
だから休肝日は三日おかないと、それが出るところまで行っているのかいないのか分からない、
と書いてあった気がします。二日じゃダメなのネ。

頁175 高橋和巳「酒と雪と病」
 そして酒精のもつ魔性は、この〈酒悲〉の感情がわかりだすころに、加速度的に膨張する。一宵の宴席に酔いしれ、床の間を便所とまちがえたり、高歌放吟、その酒量の多さをほこったりしているあいだは、まだ無邪気な段階なのであって、まかりまちがえても、翌日、保護所の門を出るころには正常に復している。いや、こうした〈狂酒〉の段階では、酒はむしろ誇大妄想的にはたらくものであって、有名な「酒得の頌」をかいた晉の劉伶などはかっこうの例であって、人がおとずれて裸でねていた彼の失礼さを難詰すると、「宇宙はわしのふんどしのようなものだ。のこのことわしのふんどしの中にはいってくるな」と言ったという。
 だが〈狂酒〉から〈酒悲〉の段階に移行すると、こんどは自分が無限に小さな存在にかんじられはじめる。つまり酒によって己れみずからを知ってしまうのだ。そして一人でなめるように酒をのみ、茫然と虚空に目をそそいで、なにかひとり言をしたりするようになりだすと、もう軽犯罪法ではいかんともしがたい状態になっているとみてよろしい。「いいお酒ですな」と人に感心されるようなのみかたが、あんがい静かな絶望の表現であったりする。

白居易の下の詩から始まった散文です。読み下し文はたぶん悲の器の人。
誰料平生狂酒客 誰か料らんや平生狂酒の客
如今變作酒悲人 如今却って酒悲の人となるを
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最後に、沢木耕太郎のゲイマーワイン取材記を引用します。これは思わぬ文章を見つけました。

頁200 沢木耕太郎「葡萄酒と心意気」
 話は終戦直後にさかのぼる。戦前からの日本に長く住んでいたゲイマーさんは、戦後の荒涼たる世相の中で、国際赤十字などの奉仕活動をつづけていくうちに、この日本で何か自分のできることはないか、意義のある仕事はないかと考えるようになったという。考えに考えた末の結論が葡萄酒だった。このプロセスこそ、ゲイマーさんのゲイマーさんたるゆえんなのであろう。
「あなた知らないだろうが、戦後の日本、とてもひどかった。物がない、食糧がない、米がなかったね。でも酒あった。酒なんで作るの。米でしょう。ほかでは米ないで泣いてる人いるのに、そんな大事な米をお酒にしてしまうね。もったいない。もったいないでしょう。だから、私、林を開墾して余計な土地で葡萄作ろうと思ったわけですね。葡萄酒を作って、その分のアルコールを、御飯にすればいい」
 驚くべきことは、このドン・キホーテ的夢想を、ゲイマーさんは正気でやり通したということである。未開拓の地として相模原を選ぶや、木を切り、地をならして何万坪かの葡萄畑を作ってしまう。葡萄酒をねかすには土の室が必要だということになれば、地下十三メートルの場所に延べ百メートルに及ぶ地下室を作ってしまう。しかもシャベルとクワだけで、なのだ。

この後、ゲイマーワイン初期の在庫はないか聞く沢木に、
ワインは旬の時期(五年目くらい)に飲めばそれでいい、
ヴィンテージはありえないとゲイマーさんが返すくだりがあり、そして、

頁205 沢木耕太郎「葡萄酒と心意気」
酒はどんなものでも安くなくてはならない、とぼくは思い込んでいるところがある。安くて美味しくなければいい酒とはいわない、と思う。そして、事実、どこの国にいっても安くて美味い酒が必ずある。して、わがゲイマー・ワインの値は?ゲイマーさんが恥ずかしそうにいう値を聞いて安心した。
「四合瓶で九百五十円」
 これでも高すぎる、とゲイマーさんが考えているらしいことに、さらに安心し、もう少しいえば感動した。

副業があるとはいえ、この精神には泣ける。
私もかつて京都の友人にこのワインを送ったことがあります。郷土の誇りとして。
そんな、ゲイマーワインとワイナリーが今はもうないというのは、とても残念なことです。

覚えていますか?あの強い味 大野台・ゲイマーワイン思い出話
http://www.townnews.co.jp/0302/2012/11/22/166147.html