『銀座細見』(中公文庫)読了

国会図書館サーチ
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001333336-00
著者 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%9B%B4%E7%94%9F
昭和六年に出版されたベストセラー。戦後中公文庫入り。
表紙画像は下記お借りしてます。


銀座のバーとかの本をつらつら読んでるうちに、参考文献か何かで、
出てきた本。以下後報。
【後報】
解説:宮川寅雄 昭和五十二年九月初版

頁20 二 銀ブラの時代的考察 街衢鑑賞の発生
フランス象徴派の詩人は夜ごとにアプサントをあおっては

「ト」を発音するのは兎も角、半濁音でしたか。アブサン

頁20 二 銀ブラの時代的考察 街衢鑑賞の発生
実際当時歩道と車道の分れているようなブウルバアルは、銀座のほかには求められなかったのだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB#.E8.8B.B1.E8.AA.9E.E5.9C.8F.E8.AB.B8.E5.9B.BD

私はよく、ブールバードとブルーバードを混同します。ニッサン

boulevard の発音 英語 Forvo
https://ja.forvo.com/word/boulevard/#en
Sepulveda Blvd. の発音 英語 Forvo
https://ja.forvo.com/word/sepulveda_blvd./#en
boulevard の発音 デンマーク語 Forvo
https://ja.forvo.com/word/boulevard/#da
前面二百米,右轉進入 Sunset Boulevard の発音 広東語・粤語 Forvo
https://ja.forvo.com/phrase/%E5%89%8D%E9%9D%A2%E4%BA%8C%E7%99%BE%E7%B1%B3%EF%BC%8C%E5%8F%B3%E8%BD%89%E9%80%B2%E5%85%A5_sunset_boulevard/

頁20 二 銀ブラの時代的考察 街衢鑑賞の発生
台湾喫茶店のウーロン茶に喉を潤してはモンナ・ヴァンナの作者を偲んだのである。

メーテルリンクの戯曲とか、それの作曲のラフマニノフとか、女性像の油絵の作者とか、
モンナ・ヴァンナにもいろいろあるので、何を言ってるのか、註がないと分かりませんが、
大正年間に島村抱月とか岩野泡鳴の名前で訳されてるので、青い鳥の人、なのでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF

頁22 二 銀ブラの時代的考察 銀ブラの民衆化
 実際当時銀座をブラついている学生は、慶応の学生ぐらいなものだった。彼らは課業が終ると虎の門に出て、それからブラブラと銀座へ出かけて来たのである。これが、今でも銀座といえばすぐに慶応を思い出し、早慶戦に勝ったといえばすぐに大挙してやって来る濫觴なのである。

六大学野球のような、「入れ替えのないリーグ」が他にもあるか、
最近知りたいと思っています。競技人口がなければ、そりゃ入れ替えないでしょうけれど。
(久米田康二の初期作品『南国アイスホッケー部』のごく初期の描写のように)

頁27 二 銀ブラの時代的考察 震災後の現象
 次いで徴兵生命の銀座ビルには、松屋が分店を開いた。

徴兵生命が分からなかったので、検索しましたが、「徴兵保険」しか出ませんでした。
http://hokensodan.com/?p=137

頁57、58に、デパートが漸次世に受け入れられるにつれて、
水道水も良質の紙も無料で歯磨き先願が出来るトイレが好評を博したとか(でもぼっとん)、
下足問題を解決するため、まず松坂屋が土足入店を認めたとか、
(全国的には白木屋の神戸分店が先だったとか)の記述があり、常識が覆されました。

頁62に、ビラ配り、マッチ配りの収入や、主戦力が女性である旨記載あり、
「おなじみ」の実名と年齢まで書かれてますが、十六歳と十三歳ってところが、
戦前の義務教育はもっと前に終わってたんだな、と改めて認識出来ました。

この本は、たぶん路上観察学の嚆矢だと思うのですが、
通る女性の内、口開けたのが何人半開きが何人閉じたのが何人の統計とか、
東側を通るか西側を通るか、とか、目線はどっちを向いてるか、とかは、
頁49のあたりです。有名な一節なのでしょう。

頁71 七 カフェ
これは単なる欧化主義者が物好きからはじめたので、今のカフェ史の伝統からは全くアイゾレエトである。


アイソレート(隔絶)だとは見当つきますけど、いちおう。

頁110 七 カフェ 喫茶店月旦 
台湾喫茶店
 有名なウーロン茶だ。銀座で最初に女給を置いたカフェだ。実に日本の女給の元祖なのだ。爾後美しい女給がたくさん出て随分盛んなものだったが、地震後にはすっかり寂れて、昔日の俤はない。女給も二、三人しかいず、晴れた日でも雨が漏るような感じの家だ。しかしここのウーロン茶は相変わらずうまい。点心にくれるバナナ入りの菓子もうまい。人を待ち合せる時などには、この家は大いに利用すべきだと思う。
 地震前からの赤塗りで、台湾風を模したエレヴェションだが、以前は二階が吹抜で面白かった。地震後はうまく女給が集らなかったと見えて、しょっちゅう女給募集の貼紙が表に出ていた。これなどもウーロン衰微の現れだったのだろう。

酒を出すカフェとお茶するカフェの二種類それぞれ書いていて、
この店は後者のカテです。前者は、大阪のエロが銀座を席巻するまでを。
パイナップルの点心でなく、バナナの点心なのかと思いました。
エレヴェションは、検索すると林芙美子の文章が出てきます。多分図面の意味かと。
http://ejje.weblio.jp/content/%E7%AB%8B%E9%9D%A2%E5%9B%B3

下記は、カフーが、共産主義がキライだから改造社から本を出さぬと言っておいて、
言説をまげて、高額の印税を貰って改造社から本を出した後の話。

頁148 九 カフェの客 文士
 或る晩、辻潤は酔っていた。室伏高信も一緒だった。二人がタイガアの二階へ上って来た。荷風氏はいつもの通りお久をはじめ多くの美女給に取り巻かれて、例のボックスに納っているところだった。平生は好々爺然たる辻潤も、曲ったことは毛筋ほども我慢がならぬ、本場争いなら誰でもやって来いというチャキチャキの江戸ッ子だ。彼のカンシャク玉は俄然バク発してしまった。イキナリ荷風子のテーブルに行って曰く、
「てめえ、何時社会主義者になったんだ」
荷風子少々面喰って
「イヤその話ならあとでプランタンへ行ってよく話しましょう」とか何とか逃げを打つのを聞かばこそ、お久なぞが出て来てとりなそうとするのを一蹴して、散々タンカを切った揚句が、
「いったいてめえなんざあ江戸ッ子なんてぬかすが、そうじゃあるめえ、大方名古屋種だろう」
 聞くならく、荷風先生の考は諱匡温、久一觔と称す。尾張の人なり。と。

その攻撃がそんな効くとは、濹東綺譚も大変だと思いました。
頁151、広津和郎が酒を飲まないのに、閉店まで居座って閉店するとまだ開いてる店に行って、
また同じことをする話も面白かったです。別に話をするわけでもなく、ただ、
superfluous menがどうとか、自分に哀感を感じながら、ずっといるんだとか。

頁163アイスウオータアは分かりましたが、サンマアハウスが分からず、
ただ、場所が軽井沢だったのと、下記の青空文庫が検索結果で出たので、
サマーハウス、別荘のことかと思いました。生碼麺とは無関係。

鱗粉 蘭郁二郎 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/43438_24885.html

頁178 一〇 夜店
焼鳥で思い出したが、不思議に銀座には本物の焼鳥がない。「本物の焼鳥」などといわなければならないほど、「四つ足の焼鳥」の方は天下に横行しているわけだが、浅草の広小路あたりへ行けば、本物のすずめやきモツなどの店がたくさん並んでいる。いわゆる高級? である銀座の夜店にこれがなくて、大衆向といわれる浅草の方に多いのはちょっと変な気がする。銀ブラの味覚エンコーに及ばずか。

調べてませんが、大正昭和初期にも、現代21世紀に通ずる援交という言葉があったのか、
なかったのか。

頁199 一一 食道楽 蕎麦屋
この家は美しい娘さんがたくさんあって、そしてそれがみんなアンテリジャントで、盛んに店のサービスをやったが、近ごろはやめてしまった。長女は無産階級の解放運動に理解があるので有名である。

この次の頁に支那料理があり、平気で事故物件が書いてあります。その次が西洋料理で、

頁201 一一 食道楽 西洋料理
建物もスパニッシュのなかなか気のきいたもので、インネンデコラチョンも派手で気持のいいものである。

「インネンデコラチョン」は、因縁、ちょんなどの言葉がチャフになって、
意味の分かるようなサイトにたどり着けないです。デコラ、コラソン、試したがダメ。

頁204 一二 銀座の暗さ ストリートガール
 銀座でストリートガールが出るのは南よりは北の方が多い。あの辺の横丁をゆっくり歩いている洋装の女を見たら注意してみたまえ。その中にはきっと君たちに何か合図をするはずだから。だけどその時君の方にその合図を受けるような資格が具っていなかったり、またその合図を感じる敏感さがなかったりしたら、それはそれまでの話さ。「俺は十年も銀座を歩いているが一遍もそんなのにぶつかったことがない」なんていう男は、自分の野暮を広告しているようなもんだ。そうでなければ酒飲みだ。酒飲みは駄目だよ。酔払って街を歩いているような男は、グリウたちは相手にしないから。グリウって何だって?(以下略)

頁215に、ノンシャランという言葉があり、これなら分かるぞと思ったのですが、
よく考えると分からないので、検索しました。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%B3-597736
本書では、千疋屋の果物の陳列について形容した箇所に出ます。

頁255 十五 銀座の歴史 露店
 ちょっと変わっているのは、洋酒のコップ売りの屋台で、これは移動バーとでも名づけようか。値段は一杯二銭が一番上等で、ジンとかコニャックとか葡萄酒とかを飲ませたそうだ。いま焼鳥屋や、チャン蕎麦屋で一杯十銭のウィや葡萄割りを飲ませているのはこの亜流かも知れない。

小津安二郎の映画『秋刀魚の味』で、笠智衆が、
東野英治郎演じる恩師の近況を同窓会で聞き、
「まさかナントカ(恩師の綽名)がチャン料なんかやってるとはなぁ」
と喋る場面、以前は東京12チャンネルでよくサンマの味は地上波放送やっていて、
必ずピー音が入ったものですが、支那料理がチャン料になるなら、
支那そばもチャンそばと呼びますわね。リクツから言って。ただ、それの、
文献で文字になったものをはじめて見ました。
関係ありませんが、チャン馬を支那馬と呼ぶ例は、まだみたときないです。

ウィスキーをウィと略してますが、中国料理店で気つけのイッパイというと、
白酒が永昌源ブランドだと「パイカル白乾児)」、これは中国語と分かるのですが、
薬酒の五加皮、ウェブだと「ウカピ」*1で、「カ」以外中国語と分かる*2のですが、
むかし、お店で頼んだ時、「オカピ」と言われ、珍獣というか、
それはハングル読みではないかと思ったのを思い出しました。
今検索して確認しましたが、「オカピ」はハングル読みだと思う。
韓国朝鮮の人がやってる中国料理店もありますからね。で、そこで修業したら、
そこの言い方しか覚えないでしょうし。

頁256 十五 銀座の歴史 オムニバスと鉄道馬車
 今日銀座といわず、東京の大路を縦横に走る奇怪な巨大な帆船のような乗合自動車を人はバスと呼んでいる。バスといえば誰しも直ちにあの怪物のことを想起するであろう。それが英語でオムニバスから出た言葉で、これに対してモオタアバスの語が出来、さらに再びもとのバスに縮まったのだくらいのことは、たいがいな人が知っているだろうが、

知るわけありません。

頁257 十五 銀座の歴史 オムニバスと鉄道馬車
このオムニバスが、明治の初年この銀座街頭を疾駆し、しかもその原名オムニバスによって呼ばれていたと聞いたらちょっと驚くであろう。三代目広重の錦絵はこのオムニバスの形状を我らに語ってくれる。バリモアのボオブランメルを見た人は失意の才子ブランメルがフランスを指してその故国を去ろうとする時に乗合馬車の上からジッと見つめた瞳を忘れはしまい。あの時彼が乗っていた馬車、あれが銀座を走っていたら、それが我が親愛なるオムニバスだ。


https://en.wikipedia.org/wiki/File:Beau_Brummel_(1924).webm
Beau Brummell Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Beau_Brummell
John Barrymore Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Barrymore
映画は見つかりましたが、何分ぐらいでその場面なのか、見てないので分かりません。

頁257 十五 銀座の歴史 オムニバスと鉄道馬車
二階のある馬車で、馬は四頭立てだった。路線は新橋と雷門の間で、雷門のところに車庫があってこれを千里軒といった。(中略)
 交通整理や交通常識の発達していない当時のことだから、たちまち事故を惹き起して人を轢いたりなにかしたので、評判も悪く、乗り手もだんだん減ってしまい、明治七年には二階馬車の禁令が出たので止めてしまった。

この後明治十五年六月二十五日から、鉄道馬車が新橋日本橋間を往復することになり、明治三十六年十一月二十五日に上野品川間に電車が開けるまで続いたとか。

頁258 十五 銀座の歴史 オムニバスと鉄道馬車
線路の上には馬がよく糞をするので、路の真中には馬糞がうずたかくたまっていた。またそれを除くために特別な道具があって、その両端がうまく線路の幅に合うようになっていて、それを動かして行くと自然に馬糞の掃除が出来るようになっていた。

頁259には、ステッキガール、ストリートガールという言葉の出来る以前、
煉瓦時代瓦斯燈の時代、明治十三年頃、京橋から四丁目の交叉点まで、
そういう女性たちが客を漁っていて、明治三十年頃まで活躍してたそうです。
で、それを、「銀座のひっぱり」と呼んでいたそうで、
まっさじいかがですかとは違いますし、またちょっと違いますが、
中国語の"拉皮条"を思い出しました。

拉皮条の意味 -Weblio
http://cjjc.weblio.jp/content/%E6%8B%89%E7%9A%AE%E6%9D%A1
百度
http://baike.baidu.com/view/393908.htm

頁262、デパート、百貨店が出来る前のショッピングモールとして、
「勧工場」の盛衰が取り上げられており、知らなかったので、検索しました。
これを知らないと田舎者、恥ずかしい、笑われる場面を、
二葉亭四迷の『平凡』から作者は引用しています。

勧工場(かんこうば)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%A7%E5%B7%A5%E5%A0%B4-48724
二葉亭四迷『平凡』青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/3310_8291.html
小川町で頁検索すればすぐその場面です。

作者はこの本を三十二歳で書き、学生時代から指示してきた恩師会津八一から、
この一件でも破門されるくらい叱責されたそうですが(たびたび破門され許される仲)、
実名がたくさん出て、おもしろおかしく書いてるので、そりゃむべなるかなと思いました。
今なら炎上確実ですね。昭和はオールデイズバッグッデイズだったでしょうか。以上
(2017/1/12)