『アスピリン・エイジ(下)』 (ハヤカワ文庫NF)読了

http://www.aspirin-lady.com/html/episode/11/image/img02.jpg今回も製薬会社様*1から表紙画像をお借りします…

アスピリン・エイジ〈下〉 (1979年) (ハヤカワ文庫―NF)

アスピリン・エイジ〈下〉 (1979年) (ハヤカワ文庫―NF)

上巻の背表紙に
「上」の字がないので、
やっつけ発刊なのかと
思いかけましたが、
表紙自体には
「上」の字があります。

波間信子さんという方の
同名マンガ*2
京都府庁舎近くの
同名洋食屋*3
検索で見つかりました。

ともあれ、読み終えることが
出来て、本当によかったです。
五月から借りては返し
借りては返しでした。

ファシズムは民主主義の中から
生れるとは、ワイマール共和国と
ナチスの台頭を学んだ人は
誰でもそう思うことですが、
では民主主義の総本山最後の牙城
アメリカではどうだったのか?その疑問に答えるエピソードが下巻の巻頭を飾っています。
大義名分の正しさから、禁酒法を実践したアメリカですから、
当然独裁者も地方レベルでは輩出されていた、が、質問の答えです。

頁19 アメリカ型の独裁者 ヒューイ・ロング
 一八世紀当時のルイジアナは、同じアメリカでも東部海岸地方とはまったく異なっていた。ルイジアナの住民は、イギリス人もしくはイギリス人の子孫たち――祖国イギリスで自由な人間の享受している特典が、ここ植民地における自由な人間にはあまりにもわずかしか与えられていない、といって抗議していたあの人々――とはまったく別な人間であった。
 ルイジアナの住民は、かれらとは異なり、頽廃して滅亡に瀕していた二つの君主国のために代々奴隷となっていた。ル・モワン兄弟(シャルル・ル・モワンを始祖とするカナダの一族。かれには一一人の子息があり、いずれも軍人、探検家、植民地開拓者などとして一八世紀はじめに名をなしたが、なかでも、シュール・ディベルヴィユとシュール・ド・ビアンヴィユの二兄弟はとくに有名だった)は、フランス国王の代理として、ミシシッピー河下流地方に植民地を開拓しにやって来た。この植民地には、ル・モワン兄弟の後に続いて、種々雑多な無気力な人間の集団が入り込んで来て、やがて少数の支配者のために奴隷化されていった。

頁20 同
 こうした植民地居住者の間では、自治などという考えはほとんどなかった。かれらは実にひどい搾取にあっていた。一七六三年、フランスはこの厄介な植民地をスペインへ提供した。このとき、きわめて少数のものではあったが、ミシシッピー河畔に自由な国家を建設しようなどと謀叛気を起こしたものがあった。かれらはたちまちにしてスペイン軍によって銃殺の刑に処せられてしまったが、刑場で銃口の前に立たされて、かれらははじめて、政治的自由などというものはルイジアナの人間にとってはまったく縁のないものだ、ということを悟ったのであった。アメリカにおける植民地が自由の宣言を発して独立してから一世紀の四分の一も経過したのちに、アメリカがフランスからルイジアナを買い上げる(一八〇三年、ミシシッピー河以西の土地八八万五〇〇〇平方マイルを一五〇〇万ドルで買収した)に及んではじめて、この土地には自由が約束されるにいたったのであった。しかも、その後になってもルイジアナには民主主義は存在しなかった。この土地の政治は、はじめから、特殊の地位を固めていた少数のものによって動かされていた。ルイジアナに移住したフランス系、スペイン系の上流階級のものと、アメリカ人の商人、農園主らとの間には一つの基本的な協定ができていた。それは、これら有産階級のもの、ならびにこれの指示をうけて動く政治家のみが、この新領土へ流れ込んできた新開地移民や、フランス系、スペイン系の下層階級のものを支配する、ということであった。

これを読んで、私は、どこのフィリピンかと思いました。
フィリピンはいまだに合衆国の州に加えてもらえない生殺し地域ですが、
ルイジアナの拡張を忌避するふいんき(なぜか漢字で書けない)が、
全米にあるのかもしれません。
バトンルージュというと、フリーズの一言が理解出来なかったばかりに、
家宅不法侵入で撃ち殺された日本人留学生*4を日本人としてはすぐ想起しますが、
かつてはファシズムがここから全米に羽ばたこうとした地域でもあったのですね。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/HueyPLongGesture.jpg/300px-HueyPLongGesture.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

次のエピソードは、上の人が国王になる動機を作った下のアメリカ人女性。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/33/Wallis_Simpson_-1936.JPG/300px-Wallis_Simpson_-1936.JPG

頁81 王様とボルティモア
エドワードは自分の体にドイツ人の血が流れていることを常に喜んでいたが、その血は直接かれの曾々祖母(ヴィクトリア女王の母のドイツの王女)と、曾祖父のサクス・コーバーグ・ゴータ家のアルバート殿下、それにハノーヴァ王家全体から受けついだものである。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/b/b8/Duke_and_Duchess_of_Windsor_meet_Adolf_Hitler_1937.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%B3
次の話は労働争議とそれにまつわる流血。
その次の話は、うつの青年(金持ち)がホテル17階張り出しに籠城。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/0/0e/John_Warde_on_ledge.jpg/250px-John_Warde_on_ledge.jpg
John William Warde
http://en.wikipedia.org/wiki/John_William_Warde

あの手この手で救出を試みる中で、
ベンゼドリン混入水を飲ませるという方法も試みられます。
ベンゼドリンとベンザリンの違いが分からなかったので、
眠らせたら落ちちゃうじゃんかよ、と思いました。検索するまで。

その次の話は、火星人襲来。書いた人は『失われた週末』の原作者。

頁194
だれかれとなく、わたしはあう人ごとに、「ニュージャージーがドイツ軍にやられた――ラジオがそういっています!」と、気ちがいのように呼びつづけました。わたしはすっかり興奮していましたが、ローズヴェルト大統領が二週間ばかり前に打った電報を、ヒトラーが相手にしなかったのだとちゃんとわかっていたんです。アメリカが何もかも解決したと安心しきっていたときに、ドイツ人が不意うちをしかけてきたのだと思いました。ドイツ人はとてもりこうだから、軽気球のようなものに乗ってやってきて、アメリカに着陸したんです。爆発が起こったってラジオがいったのは、そのときのことなんです。

このエッセーは、最後の一行が、う〜んなんですが、まあ、リオンコーエンも、
Give me Hiroshima と歌っているから、いいのかも。

次のエピソードは、ルーズヴェルト三選時の共和党対抗馬、ウェンデル・ウィルキー。
彼の敗れた後の言動は、二大政党制の鏡ではないでしょうか。

頁228
ウィルキーは共和党の人たちにたいし、党派的ないざこざは水に流し、国内的な紛争は当分の間お預けとして、枢軸国にたいして自由世界の力を動員するため、全力をあげて大統領を応援するようにとはっきり呼びかけたのであった。
 一九四〇年一一月一一日、ウィルキーは、“国家に忠実な反対党”――つまり、「反対のための反対をするようなことはせず、活気にみちて愛国心に富んだ、国家に忠実な反対党」を産みだしたのである。
 それからまもなく、ウィルキーは数回にわたって演説を行ない、国民は戦争の危険を目前に控えて、よろしく一致団結して政府を支持すべきである、と絶叫するにいたった。

当時のアメリカにはまだまだ孤立主義固執する勢力も根強く、
また、対独宥和政策の支持者たちも活発に活動を行なっていたそうです。
リンドバーグとか。
共和党の長老たちはウィルキーの言動に慌てふためき、
1944年の大統領選では彼は排除されましたが、二大政党制で国家運営を回してゆくということ、
その要諦を彼が示したということだと思います。
日本の失敗した二大政党制というより、どちらかというと、
台湾民進党政権時代、国防予算にいちいち反対した国民党を想起します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%BC

彼の掲げたスローガン、ワンワールドは、北京五輪の時に、
ちょっと手垢がついたかな、と思いました。

さいごは、真珠湾奇襲攻撃です。
ローズヴェルトが事前に知っていたとか、知っていてわざと手をこまねいたとか、
日本では文春連載の手塚治虫のマンガ『アドルフに告ぐ』でもそう書いてある位、
人口に膾炙した話ですが、アメリカでも、前段の反ローズヴェルト勢力を中心に、
その説は盛んに唱えられているようです。
しかし、日本は積極的に米国と事を構える気はなかったのに、
大陸の権益やファーストレディー宋美齢の南京アトロシティー演説全米行脚、
それを受けての対日輸出規制などが重なって日本は米国に追い詰められた、
と私は思うのですが、この本では、三国協定に日本が調印した以上、
遅かれ早かれ米国は事を構えることになっていて(その未来は揺るがない)、
ただ、1941年12月07日時点では、まだハル国務長官と日本人の交渉が続くだろう、
と、多くの人が考えていたようだ、ということでした。
ちょっと唾を吞みました。

頁302
しかもその協定ができあがってから日本が実際に攻撃を加えてくるまでには、一年と三カ月の月日が流れている。大統領にあたえられた課題は、イギリスおよびアメリカ自身の防衛力が充実するまで日本を“あやしている”ことだった。そしてこの“あやし”は、十分つぐなわれたのである。パール・ハーバーに飛んできた日本の飛行士たちの眼にも映らなかったことは、一九四一年一二月には、アメリカは月九〇〇台の戦車を生産していたのに、一九三九年一二月にはただの一台も生産されていなかったことである。一九三九年にアメリカの生産した軍用機の数は二一〇〇を上まわる程度だったが、一九四一年にはこの数は一万九五〇〇にもたっしていた。現役兵力も、一九三九年七月一日の一七万四〇〇〇から、一九四一年一二月七日には一五〇万以上に増加していた。とくに重要な事実は、武器を製造する軍需工場がすでに竣工し、また造船所が早くも艦船をつくりだしていたことである。勝利を確保する機構がもうできあがっていたのだ。

上巻読書感想:http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20140725/1406273350
中巻読書感想:http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20140810/1407676527

以上
【後報】

The Aspirin Age: 1919-1941

The Aspirin Age: 1919-1941

The Aspirin Age - 1919-1941

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(2014/8/29)