『黒岩重吾長編小説全集4 人間の宿舎 裸の背徳者 カオスの星屑』読了

黒岩重吾の戦争体験もの三冊のさいご。解説はこれも尾崎秀樹

黒岩重吾長編小説全集12 花を喰う蟲 病葉の踊り』読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20150525/1432549591
黒岩重吾長編小説全集15 花園への咆哮 北満病棟記』読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20150430/1430403807

前二冊が、偽装疾病兵として病院に逃げ込む話だったのに対し、
この巻は、主人公「黒木」が、勤労奉仕の「人間の宿舎」、
東満で乙幹の「裸の背徳者」、ソ連に捕まらないよう韓半島を逃げ内地帰還、
ののち、焼け跡闇市体験「カオスの星屑」の三作から成っています。
前の二冊と比較して、格段に引き込まれる小説でした。
作中の時系列順に発表しています。今書き並べてみて、
韓半島南下のエピソードは虚構としても書き遺さなかったのだな、
と思いました。幹部のように事前に情報を得てお召し列車で逃げたわけではないですが、
すでに組織としては崩壊した関東軍ではあっても、命令死守したわけではないので、
書きにくかったのかもしれないと思いました。ちがうか。

下記は、戦争で殺し合いをした後、大学に復学した学生たちの風景。

頁229 カオスの星屑
 戦争に行く前に見慣れた、あの芝生に足を投げ出して坐ったり、寝転んでいる者は一人もなかった。それは、十二月の初旬という季節のせいもあるだろうが、それだけではなかった。
 何故なら、芝生の前のベンチに坐っている者がいなかったからである。復学した者も、学生生活にのんびり浸る気持には、なかなかなれないのだろう。驚いたことに、子供のように、樹に登り、枝に腰かけている学生もいた。これからは、これまでの戦争で弾丸雨飛の中で身を晒した者と、内地勤務だった者との間には、ものを視る眼に、色々な違いが出そうな気がした。

頁231 同
 樹の枝に腰かけているのは、一人や二人ではなかった。背の高いポプラの樹にも登っている者もいた。十米以上の高さで、その男は煙草を喫っていた。子供ではない。良い大人なのだ。
「あいつら、何で樹に登ってるんだい?」
 と黒木は不思議そうに訊いた。
「樹登りの訓練ばかりやらせられて、それが習慣になっているんだろう。復学したけど、まだ、現実が信じられないんじゃないか、俺だって、時々夢じゃないか、と思う時があるよ。だから、戦争帰りの連中は皆、落ち着かないんだ。芝生にのんびり坐っている者がいないのは、そのせいだろう」

頁231 同
 午後三時からの社会学が休講ということになり、黒木達は帰ることにした。すると、それまで樹に登っていた連中が一斉に降り始めた。友人の誰かが休講だ、と合図したらしい。ポプラの樹の男は猿のような奇声をあげ、実際猿に近い早さで降りて来た。そして服の塵を手で払い、あっという間に学生達の群れの中に姿を消してしまった。

大東亜戦争PTSDについては、先日も新聞で、
千葉県国府陸軍病院の記事*1を読んだばかりで、
以前にもどこか国立の施設の記事を何かで読んだなあと思うのですが、
小説で、ヘミングウェイのロストジェネレーションばりの描写があるとは、
知りませんでした。狂ってしまうか、闇市などで空白を満たすかなら、
読んだり見たり*2したことがありますし、合法的に徴兵忌避した連中へのほの暗い憎悪は、
山口瞳などのザギンエッセーでも目にしていました。が、これはPTSD
インドネシアで、日本兵は木の上にいる、いた、とよく話を聞かされたのを、
想い出します。キジムナー。

焼け跡闇市の場面。

頁223 同
 丁度その男が話し終った時、陽焼けしたもんぺ姿の中年の女が、砂糖と小麦粉を買った。女の言葉に濁音がなかった。
 女は十円札を数枚人差指と中指にはさみ、見せびらかすようにして、黒木にも、食料品を売らないか、といった。

下記は、ふしぎな特攻兵の回想。

頁267 同
「冗談じゃない、特攻隊員の半分くらいは、淋病持ちやったと思うな。死ぬ前に女を抱こうと、女郎か、転び芸者を抱く。あの当時は淋病持ちの女が多くてな、移るんや、ところが、ペニシリンなんかない。だから、罹っても誰も報告しない。どうせ死ぬ以上、何も軍医に診て貰ろて恥をかく必要はないからな、そうはいっても、淋病に罹りたていうのは、何といってもショックや、精神的にもショックやし、それに痛うてたまらん……」
「不潔、そんな話、聞きたくないわ」

頁267 同
「飛行機に乗ってな、エンジンを掛けると、機体が震動する。その震動の激しさで、炎症を起している一物が、それこそ千切れる、と思うほど痛みよるんや、死にとうなるのも無理はないぜ、分るやろ、黒木……」
「ああ、分るよ」
「二人共、私を馬鹿にして、黒木さん、腕離して頂戴」

主人公は、醤油を五合ほど飲めば即日帰郷になる、といわれていたが、そこまでする勇気もなく、軍隊に取られたのだった。
というわけで、「裸の背徳者」になります。この小説では主人公以外が、
偽装疾病で入院除隊を試みますが、満洲で最も苛酷な牡丹江病院でひどい目にあって、
死にます。大卒なのですが、幹候試験を受けるよりこっちのほうが生存率が高い、
と自分で判断選択して、失敗した例として登場します。

この東満の、独立愚連隊なんて映画みたいにいいものじゃなく、
実体は使えない使いたくない兵隊の集まりは地獄、という小説の舞台のあたりは、
むかし、ちょっと行ったことがあるかもしれないな、と思いながら読みました。
でも、鸡东/鶏東くらいまでしか行ってないから、虎林とか密山などの舞台とは、
ちがうかなと思いました。下記を読んでなんとなく行った旅行。

中国朝鮮族―歴史・生活・文化・民族教育

中国朝鮮族―歴史・生活・文化・民族教育

街の目抜き通りの新華書店に、古い装苑が並んでたり、
例の版権なんとかの翻訳日本漫画が、サスケや銀河鉄道999だったりと、
(サスケの各キャラの名前が北京語の音を当てていて新鮮でした)
残留孤児残留婦人戦後の農業指導、濃いつながりあっての日本グッズチョイスだと、
感心したのを覚えています。まだおいそれと電化製品なんか買えなかった頃、
農村部には水道もなく、川まで天秤棒で水汲みに行っていた頃。
型紙付でワンピースなんかを自作する装苑のバックナンバーが、
現地に受け入れられた西側日本の“新潮”だったんだな、と。

話を戻すと、「人間の宿舎」でも能力差によるイジメが主題のひとつですが、
(あとは黒岩重吾なので青線含めた性の重要視)
「裸の背徳者」はなんか考えさせられてしまいました。
初期支那事変で全部体験し、日常と非日常が逆転してしまい、
そのへんの将校なんかじゃ言うことが聞かせられなくなってる暴力古参兵と、
もともとが懲役帰りの暴力でなんでも解決してきた兵士と、
後者が、刑務所と同じ感覚で、女の代用品に仕立て上げた排泄用兵士。
東山彰良の初期小説*3のあとがきを思い出しました)
病院行きのインテリを除くと、あとふたりこの規格外部隊にはいるのですが、
ひとりが、古参兵のいじめで、ちんぽ凍傷にかかって先がなくなってて、
(それがイジメであることはネタバレです。本人の不注意ということで話は進む)
その状態でのオナニーで人間の尊厳の回復を確認する場面や、
彼が、そういう人間は身に染みてよく分かるのですが、
そこまでされながら、自分の動機では怒れないんですね。
彼が怒るのは、姑娘と同じ感覚で、開拓団の若い夫婦の夫が、
せめて妻だけでも逃がそうと託した妻を、
(古参兵が、馬車には一人しか乗れないと狡猾に罠にかけた)
老兵がさっそくよってたかって輪姦しようとした時、
その時、他人のために怒りを発動するわけです。三八式で古参兵二人を射殺し、
そのあと三八式を口にくわえて軍靴を脱ぎ、足の指で引き金を引く。
性器を欠いて、まともに歩けない状態にまでされてなお、
利他的行為でしか怒りを爆発させることが出来ない、ひとつの人間のタイプとして、
深く印象に残りました。極限状況でも、彼は変わらなかった。以上