『立ち盡す明日』(新潮文庫)読了

立ち盡す明日 (新潮文庫)

立ち盡す明日 (新潮文庫)

立ち盡す明日

立ち盡す明日

読んだのは文庫版ですが、カバーは、単行本の、松本タカオという方の絵です。
どういう画家なのか、同名の人が検索上位に来たので、分からずおしまい。
第八刷。昭和五十三年。1978年ですか。解説は真継伸彦*1

作者の処女作*2解説で大石静が、70年代80年代のは全部持ってるけど、
90年代の作品は書棚に置いてない、と書いていて、
その90年代の作品*3を読んで、作風が軽いからかな、と推測し、
70年代の作品ももう少し読もう、と思い借りた本。

なんだろ、ラスト怒涛のセックルシーンでカタストロフィを迎える迄の、
抑制に継ぐ抑制の描写がウケたのかな、と思いました。
日本を舞台にモラヴィアの世界を構築しようとしたらこうなった、みたいな。
主人公が途中、自分でも分からぬ衝動でイタリア語を独習せんとするですが、
それがそれの隠喩かな、と。でも、最後の褥の場面も、結局寸止めなので、
男性向けのラブコメならそれでいいのですが
(最後まで行くと「征服」した
 ことになって、次の新キャラが登場、
 「書泉奴は四天王でも最弱」と云う法則)、
少女漫画はあっという間に一線を越えて後はイチャイチャと危機の天丼、と、
編集者漫画(バクマンだったかな)で、聞いた気がしますので、
この抑圧ラブコメがどの世代まで共感を得られるか分からないです。
ましてや、避妊が出来る?がゆえに、簡単に一線を越えられる21世紀においておや。

頁122など、とりえを取り柄と書かず、取得と書いていて、
一瞬、しゅとくと読んで、それでも意味が通じないことないので、
アタマクラクラしました。

ラストの一線崩壊は台風の夜で、しかも夫婦それぞれに訪れるという、
大がかりな仕掛けなのですが、妻のほうが、相手が大学の先生(夫の旧友)で、
しかも自分は妊婦で、それが分かったあとの相手がしどろもどろの弁解で、
もうどうなってもいい、女がここまでしてるのに恥をかかせないで、状態に、
體も蓋もなく恥をかかせて遁走せんとする情景が、なんちうか、非常に印象的で、
作者自身の体験とかどうなん?と誰もが妄想たくましくしてしまうと思います。
下腹に手を伸ばしてじりじり行くと、そこに子供がいるから気をつけて、
と言われた瞬間のインテリ浮気男の気持ちとか、もう絶妙過ぎてwww
解説者もおそらくそれだから、解説でこんなことを書いているのでしょう。

頁175 解説
 東大文学部助教柴田翔氏はそのころから立派な髭を生やしていたが、夕飯のとき畳の上へ、尻の両側に両足をはずして女のように、あるいは幼児のように坐ると、「おれは煮魚があればほかには何にもいらないのさ」と言って喰べはじめた。
 私はそんな姿を、『されどわれらが日々――』にも『立ち盡す明日』にもでてくる、中年の男と若い女との情事の場面と、重ねあわせて想いだすのである。柴田翔が無意識に、それゆえに必然的に、心から書きたくて書いてしまうその情事は、実は作者が内面でいとなんでいる情事の表現ではないかと思うのである。

こんなに言って委員会、こんなに言ってインカ帝国

若い女性、ということでいうと、この小説はひどくて、若い女性は失踪して、
手紙ひとつで、その行方はようとして知れない、でオワコンです。
これ、男性作家だったら、フツーは贖罪意識が働くので、
魔女宅的に、いろいろあったけど私は元気でんす、みたいな描写入れて、
(親戚がそれを知るか知らないままかは別として)読者をほっとさせるじゃいか、
と思いますが、この小説では本当に安否が案じられるまま終わるので、
なにそれこわい、女性が若い女性に向ける残酷さに阿って、女性受けするオチにした、
と言ってしまうと角が立つけれど、そうとしか思えなくて、
私のようにモテない人には、作者のようにモテる人の心理は分からないな、
と思って本を閉じました。蒸発とか、どんな罰ゲームやねん。かいそうに。以上

【後報】
あと、この小説は、所謂ら抜き言葉
れる、られる、れれるが何か所か面白かったのですが、
付箋をつけておいて見返した時、なんのつもりでつけたか忘れて剥がしたので、
どのページかもう分からないです。ハテ残念びんしけん。
(同日)