『コプト社会に暮らす』 (岩波新書 青版893)読了

コプト社会に暮らす (1974年) (岩波新書)

コプト社会に暮らす (1974年) (岩波新書)

なんでこの本を読もうと思ったのか、かいもく思い出せません。
誰かのブログ読んで、アラブのクリスチャンについて触発された…のかな?
作者はプロテスタントの牧師さんで、1960年代「産業伝道」なるものがあって、
日本ではある程度成功を収めていて、それを、エジプトでやるにあたって、
成功した日本から、同じA.A諸国である日本から、伝道師呼ぼう!
親日アメリカ人牧師が提唱し、そんならと嫁さんと二人の赤ちゃん連れて、
1964年10月から1968年9月までエジプトに滞在した、その記録です。
当時エジプトには人口の17%くらい占める(頁100)キリスト教コプト派、
カルケドン公会議でキリスト単性論を主張して異端とされ、
下野した「非カルケドン派正教会」の、最主力コプト派がいて、
そこにアメリカが肝いりで新教の福音教会作ってたそうです。
コプト」はギリシャ語でエジプト人を意味する言葉でから来た言葉で、
だからそもそも「エジプトのコプト派」は同語反復だそうです。頁71。
(「ハングル語」みたいなものか)コプト派から見た歴史では、
カルケドン公会議自体が噴飯ものの出来レースだったっちゅうことでした。

非カルケドン派正教会 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B4%BE%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
コプト正教会 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%88%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
エチオピア正教会 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

妻帯者の司祭がいて、司祭になった後の結婚は許されないが、
結婚後に修道生活に入るなどして司祭になった人の妻子はそのまま、
とのことで、それはニケーア公会議で決まったことだそうです。頁76。
ニケーア公会議って、紀元325年、四世紀ですよ。もう卑弥呼は死んでますが。
そういう、アラブがエジプトを席巻する以前からの共同体が、
コプトなんだよ〜だ、という話で、人口では少数派ですが、
コプトの家はコプトムスリムの家はムスリムとセパレートされており、
だいたい聖書やコーランから名前をつけるので、名前で分かるそうです。

頁206
私は或るエジプトのエヴァンジェリスト(説教家)から尋ねられたことがある。
「聞けば、日本のキリスト教徒の数は人口の一%にも足りないとのことだが、エジプトには長い歴史をもつキリスト教はすでにそんざいしているし、その信徒数も一〇%以上になる。まずお前は自分の国で伝道すべきではないか」
と。
 私はこの問いかけに対して一言の返す言葉もなかった。何故ならこの問いかけはエジプトの土壌からすれば当然のことであるし、また問いそのものの中にも真実が含まれているからである。

「産業伝道」だから、近代化に成功した国から来るんだよ〜、ということですが、
そも産業伝道がよく分からなかった。今でも分かりません。
ゼルビアのホーム野津田には農村伝道学校がありますが、それの仲間かな?

INDUSTRIAL EVANGELISM
https://www.lausanne.org/docs/lau1docs/0898.pdf

作者は関西の「産業伝道」仲間から高野豆腐送ってもらうなど助けられたり、
訪問を受けて一緒に砂漠の修道院行ったりしますので、
一時期盛り上がった運動だとは思います。解放の神学と関係あるのかな?
とか空想しましたが、特に南米のそれとはリンクしなさそうでした。

頁131、コプト派に限らず、東方教会の正教徒に断食があるとは知りませんでした。
肉、卵、乳製品を食することが禁じられている期間と、魚もダメなヨナの断食など、
だそうです。
頁104、エジプトのクリスチャンは十字架の刺青をよくし、その時の苦痛で、
エスの十字架の苦しみを味わうのだそうです。作者は、十字架の刺青は、
ムスリムなどの)割礼に等しい意味があるのかもと空想しています。
頁21にモロヘイヤが「モルヘイヤ」として登場します。
日本で栽培されるようになるのは、1990年代でしたか。
頁39エジプト人特有のを浮彫にさせている。
そんな漢字知りませんでした。

眶とは Weblio辞書 
http://www.weblio.jp/content/%E7%9C%B6

このルポはオチがごく私的なところにオチていて、なぜそこに落としたのか、
と反発する気持ちがあります。時おりの関西弁のセリフが、よかったです。
頁1「ヤー ラバン!」(牛乳でっせ!)
頁22「インタ ターラフ カーバル?」(カーバルってどういう意味か知ってる?)「ラ ムシュアーレフ」(いや知らへんけどな)

頁111
 「学校は今日、休みなの?」
と尋ねると、
 「いや、学校はあるけれども、今日はクリスマスだから私たち休んだんだ」
との返事である。
 「君たちだけが休んだの?」
 さらに私が問い返すと、
 「キリスト教徒は、たいがい休んでるのと違うかな」
 「と、いうことは、今日学校に行った生徒たちは、イスラム教の子供たちということになるの?」
 「まあ、そういうことね」

頁173 息子さんがエジプトの工業都市の幼稚園に入った時のこと
ぼくが「またあしたもあそこへ行くの」ときいた。おとうさんは「行かなだめだとちがう」といいました。

頁178言葉もまだ十分に喋ることの出来ないスースは、こちらが何を尋ねても、
 「ケダ!」(そうやから!)
としか答えない幼児であるが、

作者のWikipediaかなんかないかと思って検索したら、動画が出ました。

講演「7世紀のイスラーム到来期におけるコプト教会の動向」
アップデートした団体:同志社大学一神教学祭研究センター(CISMOR)
http://www.cismor.jp/jp/
アップロード日時:2011/04/17
講演日時:2010年3月13日(土)13:30−15:30
講演場所:同志社大学神学館礼拝堂

これを視ると、若い時の経験が、この人の生涯を決定したのだな、
と思いました。焦がれて、焦がし尽す人生。蚸慕。以上