『カイロの庶民生活』حياة مواطنى القاهرة "Life Among the Poor in Cairo" 読了

前川健一のアフリカの本の写真の、田中真知のエジプトの本で、紹介されてたエジプト関連書籍の一冊。 訳者の恩師ヌタハラうじの本同様第三書館の出版で、ヌタハラうじの『エジプト人はどこにいるか?』同様アラビア語で題名が記載されてます。

カイロの庶民生活 (第三書館): 1986|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

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しかしこれが、ヌタハラうじの本と異なり、Google翻訳でちょろっと訳せ中田。

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最初と最後の単語は合ってるんですよ。最後の単語がたぶんカイロの意味の「アルカヒラ」で、最初がたぶん「生活」の「アルハヤット」から、何故か第三書館ボーンヘッドで?接頭辞の「アル」が抜けて?、単数形になった?形と推察。検索すると、日本各地のハイアットホテルが何故かバンバン出ます。同じ語源?

حياة - Wiktionary

しかし真ん中の「庶民の」が同じ単語にならない。

原題の"Life Among the Poor in Cairo"(これまたけっこう率直なタイトル)で試しても、真ん中の単語はうまく一致しない。

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「貧民」とか「一般大衆」とか「市井」とか「下層階級」とか「ふつうの人々」とか、いっろいろ単語入れて試したのですが、Google翻訳はなかなか合致する単語を吐いてくれず、しかたなしにパソウコンの言語にアラビア語を追加して、アラビア語キーボード配列を参照に、似たような文字を打ち込んでみました。またこのWindowsアラビア語が、サウジ、クウェートUAEカタールバーレーンオマーン、イエメン、リビア、モロッコチュニジアアルジェリアレバノン、シリア、イラク、ヨルダン、エジプトと、国ごとに分かれているので、とりあえずエジプトを選択しましたが、本書表紙のアラビア語は、接頭辞が抜けているようなアラビア語なので、エジプトでほんとうにいいんだろうかとひやひやしながら追加しました。

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/KB_Arabic.svg/1352px-KB_Arabic.svg.png

アラビア語キー配列 - Wikipedia

で、えっちらおっちら、ウィキペディアに載ってるキーボード配列を見ながら、なんしかそんなような単語を打ち込みました。مواطنى

"i"みたく見える箇所が、やや本書の活字より上に高い気がしますが、ن以外入れる字を思いつかなかったので、しかたない。で、ファクトチェックで、その単語を、Google逆翻訳してみました。

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そうすると、その単語は「マイ・カントリーメン」になりますので、それはそれでいいかとニヨニヨしました。表紙のアラビア語頼まれた人もニヨニヨしたんじゃいか。本書の執筆者、ウンニ・ヴィカンは女性ノルウェー人の社会人類学で、本書に登場する庶民生活も、だから、男性フィールドワーカーが侵入しえない女性の暮らし、母と娘、夫や父との関係、婚姻について多くのページが割かれています。そのアラビア語タイトルが「ライフ・オブ・マイ・カントリーメン・イン・カイロ」なのが実に逆説的でいとおかし。ちなみに、日本語にすると、「私の同胞」になります。はらから。日本で「ムスリム同胞団」と訳されている団体名にはこの単語は使われていません。

Unni Wikan - Wikipedia

小杉泰 - Wikipedia

Zu: Unni Wikan - Life Among the Poor in Cairo

Zu: Unni Wikan - Life Among the Poor in Cairo

 

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以下後報

【後報】

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この本の写真はなべて不鮮明で、写真をゼロックスにとってそれを載せてるのかと思うほどです。これがイチバンましな写真。ヘジャブをつけても貫禄は消えない。

(2020/11/7)

【後報】

作者はオマーンだかUAEにもこの後フィールドワークに行って、ガルフは対人関係に距離を置いてきて慇懃無礼、エジプトは他人のテリトリーに土足でドカドカ入ってくるイメージを持っています。

女性の婚約が、周りの人間がどんどん介入してくることによって、なぜかいまくいかなかった二例は、読んでいて、ちがう社会なんだなあと唸りました。訳者によると、作者は宗教には無関心で、その分、男性が入ってゆけない、住居内で女性が住む区画や女性同士の人間関係、女性と男性の人間関係に大きく力を注いでいます。

 頁24
 行政的には、この地区はカイロの一三郡のひとつギーザ(聖書におけるゴセン)に属している。

頁25
裏街の人々は、そこを「洋風地区」(ヒッタ・フランギー)と呼んで、自分たちの住む「庶民地区」(ヒッタ・バラディ)と対比させる。(バラディという言葉には、素朴、粗末、伝統的、未開発などの意味も含まれる)。

 「洋風」は、フランク人のフランキーだと思うので、ここも面白かったです。フランクという言葉は、ほんとだいぶ後まで残ったのだなあと。

ja.wikipedia.org

石火矢 - Wikipedia

法郎机_百度百科

訳注22
 ペプシ・コーラは、当時、最高の清涼飲料とみられていた。コカ・コーラは、イスラエルとの取引のため、エジプトを含むアラブ諸国にボイコットされていた。エジプト製のシー・コーラやオレンゴ(オレンジ飲料)もあったが、ペプシ・コーラより安く、また低級とみられていた。と同時に、当時はまだ、びん入りの清涼飲料そのものが今日ほど(あるいは日本ほど)一般化しておらず、いわば高級な飲み物であった。

これも面白かったです。こうした事態は徐々に変わってゆき、トランプ仲介でUAEオマーンイスラエルが国交樹立するや、イランの核開発の中心人物がイスラエルに暗殺されるというのが、地政学として分かりやす過ぎないかと思うくらい。

訳者解説は、カイロ・アメリカン大学について、多く筆を割いています。いわく、ベイルート内戦以降、企業のアラビア語研修生はレバノンからエジプトにその実習先を変え、その主な受け入れ先がカイロ・アメリカン大学だった。プロテスタント宣教の先兵としての位置づけがなされ、事務員は当時全員がコプト派で、教員も米国人教師を除くと、コプトが大多数だとのことでした。

頁286

(前略)アメリカン大学は、エジプトの大学というよりも、エジプトにあメリカの大学であり、そこで教えられるエジプト観は奇妙に歪んでいる。アメリカン大学のマス・コミュニケーション学科のある講師の言葉によれば、「ここにあるエジプトは、コプト教ブルジョワジーと西洋化されたイスラーム教徒の意識の繁栄としての空想上のエジプト」なのである。

 こうした中にいる研修生を見ると、全般的傾向として、エジプト文化やイスラーム教に全く興味がなく、エジプトに対しては嫌悪感がある。嫌悪感の理由は、主に三つである――(一)非衛生的で汚い国と思える。(二)酒の禁止など、イスラム教は狭量に思える。(三)エジプト人は怠け者に見える。

 私の考えでは、これは偏見以外の何物でもない。しかも、その偏見は、「現地で実際に体験した」という形で、正統性を与えられている。(中略)もし高い費用をかけての派遣が偏見しか生まないとすれば、やればやるほどエジプトと日本の間の文化理解はギャップが開いていくことになるのである。

 そのことを考え合わせると、エジプトで、奇妙な実体験をするよりも、日本で本書に出会う方が、エジプト人の実相に近づけるのかもしれない。 

 小池百合子サンのウィキペディアを見ると、かなりアラビア語の語学能力について突っ込まれてますが、カイロ・アメリカン大学でなく、カイロ大学できっちり学んだ点だけでも、評価に値するのではないでしょうか~、なんて思いました。

しかしまあ、ベイルートがあかんくなったからアラビア語研修生がカイロに向かった、というロジックは、面白いです。ダマスカスはちょっとあれだったかもしれませんが、当時はまだバグダットもふつうでしたし、アンマンもあったので。チュニスやオラン、ラパトでは遠すぎるのかな。以上

(2020/11/30)