これが原作の映画を観たので、原作も読もうと思い借りました。ネタバレ含みます。
シーナくんという、高校出たらただの人と読者に思わせたいキャラが、各話トリックスターとして登場してるということになっている短編集です。単行本は2012年。
●カバーデザイン 佐々木暁 カバーフォト Morton Bartlett ⒸMarion Harris Gallery, New York
解説は熊代亨という、下記の人。こういう小説は、ロードサイド小説というんだそうです。私は、山口瞳の谷保とか、佐藤泰志の海炭市叙景とか、ワインズブルク、おはよう、の郊外小説の系譜に連なるかと思ってましたが、それでいいのかどうか分かりません。下妻物語は未読。
熊代亨|プロフィール|ローチケ×HMV&BOOKS online
全八話。映画化にさいし、切り捨てたのは二話。
ひとつは、最後の、ちょっとSFテイストの話。若いうちはいくらでも眠れるものですが、眠り出したら一年間寝てしまったJKの話。その前に、オナヌーはセックルでしか越えられないものなのか(逆かな)、否、セックルを越えるのは淫夢である、との仮説から、自身の肉体と精神を実験台に、日々レム睡眠に励んだ結果、ついに井上陽水とか斉藤由貴が、ウフッフ、と笑いながらいざなう世界に行ってしまう話が、映画では、本題に絡みにくいので(?)切られています。JKなので、クラスメートには、幸福のかたまりみたいなアクメの夢ばっかり見てると吹聴してるのが、昏睡後、夢を書き留めたノートを読むと、実は毎晩悪夢ばかり見ていたと分かる。読者諸女、インキュバスという単語を知ってる奴は思い出せやオラ、とケンカ売ってるかのような小説。この話では、シーナ君は、眠り姫にとって、タモリにとっての吉永小百合のような存在(頁221)だそうで、平成生まれのくせにそんな雑学知ってる奴はいやだと思いました。
もうひとつ、映画が切った話は、シーナの大阪失敗時代の話。クラバーというのか、クラブキッズというのか知りませんが、そういうところに居たのがシーナ。離島出身で大阪とは名ばかりの高い山の上の大学(いしいひさいち『転向生』の舞台?)に通う下宿むすめが、その大学に、アジア圏以外からの唯一の交換留学生としてやってきているテキサスの白人むすめ(孤立)に近づいてトモダチになって、大坂のクラブに行って、白人むすめに声かけたのがシーナ。オチは、よくある笑い話で、洋物ポルノと日本のAVの違いで、貪欲に快楽をむさぼる白人むすめの野獣のような喘ぎ声とイエス!イエス!イエス!の絶叫慟哭に、浪速のチャラ男が萎えておしまい、という話。韓国人が「なぜ日本のAV女優はキムチいい、キムチいいと言うのか」と不思議がるあの恥じらいがないと日東の剣侠兒は萌えないのだ、自分を100%開放するな、と離島むすめが解説スルノデスガ、ホワイ、自分の気持ち感情だす、それ気持ちいいでしょー、と白人むすめは飲みこめない。だって彼女の絶叫だって、ナメられてはいけないとの思いから発せられた、演技だもの。
オッサンは援交のつもりだったが、JKは母性愛だか憐れみだかの発露でつきあってた。が、オッサンは長い独身生活に終止符を打つので、もう会えないとJKを捨てる話。これは映画とほぼ同じだと思いました。でも原作にピザは出ません。
シーナ君の妹の朝子は、映画では、唯一都会に順応し都会生活をマンキツ出来てる、一回り下の若くて未来がある世代の代表として描かれてますが(そして頭もいい)原作では、他のキャラが、都会での苦労を往々にして過去形で語る現在を生きてるのに対し、唯一現在進行形で都会とがっぷり四つに組んでぐんずほぐれつ苦闘する女子です。学芸大が駅名と分からなくてゴッツンしたりする(頁192)カテキョーの先生も、映画では、朝子にしか見えてない、ティファニーの朝食現場から来訪した高次元の存在でバツイチなのかと思いましたが、原作では地元大学の薬学部の学生です。どこから富山の大学に来たんだろう。作者は音楽をアイコンに使うので、この師妹の好きな歌手は下記とのこと。知らんので検索しました。
遠藤の話は、こういう女子が自分をガンダムに喩える程、ガンダムって人類に浸透してるのかと思いました。「ニーハイブーツ」で走ると、ガンダムみたいになるそうです(頁141)その履物知らなかったので、検索しました。
上記の画像はグーグルが特に出して来たもので、私が出したわけじゃありません。
映画ではロシア人はロシア語と朴訥な日本語でしたが、原作ではロシア語と英語です。つまり彼女はロシア人が話しかけるくらいの英語はやり取り出来る。あと、映画では目が覚めた遠藤がクルマで追いかけてきますが、原作は、彼女が消えても目が覚めません。そして、最大の違いは、原作では、シーナと彼女はどちらもこくってなくて、ただステディだと感じていたのですが、言葉にして明確化してなかったのが敗因だった、です。言葉にしてても「うそつき!愛してるって言ったじゃない!」になるだけかなと最初は思ったのですが、言語化したがらない相手とあえてつきあうこともあるだろうなと思い直しました。映画だとホンカノ(マジカノというのかな)だったのにな。これも原作にピザは出ません。
じんぼくんは、映画では神保でしたが、原作では一貫してゆうこです。内なるジェンダーが外の世界を圧して、侵食してる。映画では、東京で服装も本来の好きな服で、ヅラ(ウィッグ)で違う髪形になって、ゆうことして生きてるじんぼ君が、なんかあって、田舎でしばらくほとぼりさましてる感じで、そういうことなのであまり地元の知り合いとは連絡取らず、ゲーセンの隅でひっそり時間を潰してる感じでした。原作では、ここは逆に、地元の大学のオバドクだか院生で、論文作成から逃げて、ゲーセンと自宅の往復、ブッコフなどで切り売り生活、という設定です。これだとあまり内なるセックスが生きてこないので、映画ではいろいろ匂わせて説明しない作戦に出たのだなと。でもこの人の悩みは肥大した自意識なので、あまりLGBTは関係ないです。缶コーヒーの飲みすぎで口が臭いのをいつも気にしてるとか。寝落ちで歯磨いてないからじゃねーのとか思うんですが、どうでしょうか。
デルモの話は、だいぶ原作のがディティールが書きこまれていて、おもしろいです。結婚紹介所とか婚活パーティとか、スタバのバリスタ技術さえあれば、一生食うに困ることはないと、人間関係でゴッツンすると店を辞め、別のスタバに移るさすらいのスタバー(私が今作った造語)の話とか、面白かったです。ふたりが着てる服はゾゾタウンで、そのブランドは、社長さんが、ゴーリキはんのブランドイメージを突き崩す、ほんものの頭身とすっぴんの顔の画像を、ばんばんインスタgで垂れ流してくれる素晴らしい殿方としか知りません。2012年の小説でもうアラサー女子がファミレスで着る服になってたとは(頁58)映画は、ひと昔前ならサトエリがデルモ役やったのかなあと思ってましたが、相方は、原作のイメージなら、山田真歩です。「ピンカートンに会いに行く」で見ました。映画の人も、上手いと思いました。で、シーナ君は、一樹という下の名前なので、沢村一樹でいいやと思いました。
映画のメインの話は、時代設定のインターネットがWeb1.919くらいらしく、映画ではフェースブックでしーな君とつながるのですが、mixiです。ラインでなくショートメール。このルーズソックスの時代設定は、富山の設定で、神奈川の設定じゃねーよ、と言ったら、何人か傷つくでしょう。私はこの頃京都にいたし、服装にはうといので、分かりません。ラルフローレンのセーターとバーバリーのマフラー巻いた女子高生が大量にいたと言われても(頁22)県庁所在地の人通りが、東京で言うなら祖師ヶ谷大蔵(頁23)らしいですが、住みやすい県ナンバーワンと祖師ヶ谷大蔵を比べても。なんで職場の教習所に押しかけるのか、映画ではさっぱり分かりませんでしたが、原作では、ペーパードライバの主人公の教習と言う設定だったので、すんなり腑に落ちました。でも入会金なしでヒトコマごとの支払いでいいのだから、やっぱり住みやすい県だと思います。私も受けないと。映画の「衝撃の結末」は、私も体験したことあるくらいよくあることで、弱いので、オチになるかーと思ったのですが、原作もそう思ったらしく、ここは通過点で、その代わり、映画では、イナカのギョーカイ人説明箇所としてしか映されないこだわりのラーメン屋取材シーンが、妙にビートの効いたオチになっています。そう来るのか。
シーナ君は、ゴドーを待ちながらのゴドーみたい(未読)とも思いましたが、大人になってもギラギラしてる人はしてますので、たぶんそれは、性欲の多寡ではないかと思います。帰宅後はスカパーでプレミアリーグ見たら寝る時間のシーナ君(妻帯者娘一人)は、その奥さんとの出会いもセッティングしてもらってのもの。知人に、モテ期のさいごのほうの一人をがっちりキープして、それまで何回つけずにやっても全然誰も妊娠しなかったのが、結婚したら立て続けに数人授かって、その傍ら職場のバイトの子に手を付け続けた人がいますが、その人は東京近郊に建売買って今に至ってます。帰ってない。性欲のパッションのボルテージが成功か帰郷かの分かれ目とすると、そんな成功いらない、と叫ぶ人が読むような小説な気もします。作者がどっちで生活してるかは、知りません。
この小説は、どうしても『ここは退屈連れて行って』と覚えてしまいます。世代的に。その意味でも作者はケンカ売ってると思う。
「私をスキーに連れてって(英語名不明)」
「私を月に連れてって "Fly Me To The Moon"」
「私を月まで連れてって」は竹宮恵子
迎えに来て、という言い方は、私の身近にはアッシーとかいませんでしたが、知識として知っている、バブル期由来の由緒正しい文化ですので、それでいいのかな。ジブリ映画「耳をすませば」で、流れるカントリーロードが、テイクミーホームと歌ってますので、それで、「連れてって」はイヤだったのかも。あと、ラチを連想する人もいそうですし。この原作と映画の英語名だと「ピック・アップ」で、うぞうむぞうの中から、ひょいっとお釈迦様が指で摘みあげてくれたり、蜘蛛の糸を垂らしてくれたりする、そんなイメージかなと思いました。
巻末に参考文献。
- 作者: 長谷川町蔵,大和田俊之
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2011/10/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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- 作者: ターシャテューダー,Tasha Tudor,食野雅子
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都築のみ既読。ターシャ・テューダー(私は未読)がここにあることでいろいろ浄化されてる気がするトラップかもしれません。
映画のほうの私の感想
https://stantsiya-iriya.hatenablog.com/entry/2018/12/19/234643
以上