『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(ちくま文庫)読了

 カバーデザイン 神田昇和 写真提供 共同通信社 解説 保坂正康 序文 鄭大均

日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想 (ちくま文庫)

日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想 (ちくま文庫)

 

序文の人が同じくちくまでまとめた『日韓併合期ベストエッセイ集』に一部が載っていて、面白そうなので読もうと思ったのが2016年11月。三年後にやっとリクエストしました。リクエスト時にはもう契機を忘れていて、福田和也とボーツー先生のデタラメ書評座談で出てきた本だと思い込んでました。ちがった。 

1975年同成社刊『愛と民族』を2011年草思社が復刻し、それをちくまが文庫化したもの。著者は最初の本のまえがきで、韓国で前年「바우덕은 나일까」(バウトクは私だろうか)という同内容の本を出したけど、それの邦訳じゃないよと断っています。ハングル版が세한출판사というところから出たまでは検索で追えたのですが、출판사はチュルバンサで出版社、세한が、「詳細」という意味なのか、新羅初期の王族勢漢(세한)王から来てるのか、「歲寒三友」(세한삼우)というハングルのことわざ?から来てるのか分かりませんでした。

この人は戦後所謂チニルパとして反日媚美のイスンマン政権下で冷や飯を食わされながら、テクノクラート不足を補うために駆り出されもした人だそうで、日本語版はありませんが、ハングル版ウィキペディアはあります(親日派狩り時代の遺産だと思います)通名でなく、創氏改名時の日本名だと思うのですが、その日本名もハングル版ウィキペディアで読めます。豊臣秀吉の「豐」つけてるでよ。

임문환 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

バウトクってのは著者がこの手記を書くにあたって用いてる名前で、この手記は三人称「バウトク」が主語で書かれています。幼名の「岩徳」から来てると頁24にまず書いてあって、我々ハングルなんか分かりませんから、鄭大均サンも序文でそれを補強してますし、素直にそれで読んだんですが、どうも「바우덕」を検索すると、綱渡りの画像がちょいちょい出るんですね。

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcThQ1SOsOe6lQi47EJktBQ_lOQ_5OB-tefjdN3fMD2X0p4dlnie

안성시바우덕이축제

folkency.nfm.go.kr

http://www.dmilbo.com/news/photo/201710/188246_78741_1131.jpg

제17회 안성맞춤바우덕이축제 대성황 - 도민일보

著者は本書で、自分の前半生は、面従腹背で、大日本帝国臣下の新付日本人としてうわべは赤誠を誓いながらその実祖国コリアのために尽くせるだけは尽した、そのために渡日して人力車引きから新聞配達(これは高熱の下痢で布団から下宿から糞便をまき散らして寝込んだので一週間で解雇)牛乳配達から同志社中、東大と立身出世に邁進し、就職にあたってはまっしぐらに総督府勤務を望み、植民地手当も何もつかない(植民地二世の日本人はつくのだが植民地人はつかない)待遇に差がある環境にも耐え、ひたすら「曲芸師」としての腕を磨いたと自画自賛しています。これさ、日本語版では「バウトク」の意味を伏せたままでやるんだもん、ちょっと、最後まで策士ですよね。

同じ人力車引きでも、アナーキストの朴烈は、ナオンとムンジェイン政権下で映画になって、対してバウトクはんは死後もこんな感じですが、「我が人生に一片の悔いなし」だったかどうか。本書巻末時点では息子が大卒兵役終えて未婚で、日本で院に進んで学究人生送りたそうなのをだまくらかして口先三寸で親の経営する釜山プラザホテルで働かせ、だからまだ孫の顔見てないのが心残りと書いてます。チニルパ狩りは子孫にも無論及んだそうですから(そういう国)孫が出来たとしてどうなったかなとも思います。関釜フェリーで下関まで行って食ったパスタより自分のホテルの釜山のパスタのほうがウマいよ、肉と野菜ふんだんに使ってるから、と書いてあり、これが、1973年の話。まだ韓国にスパゲッティー世代(というんでしたか、キムチが食えない辛い物ダメな世代)が現われるだいぶ前の話です。以下後報