『花の旅』読了

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001388190-00

庄野英二サンの旅のエッセイ。

東欧諸国を急ぎ足で旅した「東欧 花の旅」(アルプ掲載)(1975年)と、1976年のスリランカの旅、「江南の旅」(創文掲載)(1977年)と同年のキューバの旅を収録。出版は1978年。

装画とカットは著者。

最初の東欧の旅は、短い旅程にモスクワ、ブダペストプラハワルシャワを詰め込んでるので、メモをそのまま写したかのようなそっけなさとせわしなさがあります。

スリランカの旅は、現地でガイドと運転手を雇ってのとのさま珍道中で、特に危ないこともなく進むので、読んでて肩がこらないです。私がこの人の著作を読もうかと思ったきっかけになった、坂東眞砂子デビュー作と同じシリーズの児童向けスリランカ紀行『象とカレーライスの島』と、どこが違うかも確認したいところ。庄野英二サンは戦中南方におりましたので、随所にスリランカと南方の比較が飛び出します。

中国紀行は、「第二次日本高校生友好訪中団」に顧問として随行した時の記録。庄野英二さんは、満州で匪賊討伐、長江中流の、今アツい武漢や、湖南省福建省に挟まれた江西省の南昌を転戦して1941年重傷を負って南昌九江南京の野戦病院を経て内地へ後送された経歴があるので、中国行きは気が進まなかったそうですが、かきくどかれて承知したそうです。もうひとつ、気乗りしなかった理由は、団体旅行が嫌いだからだそうで、しかし1977年なので、無茶言うなという感じ。農村へ行けば「大塞に学べ」工場に行けば「大慶に学べ」ちょうど四人組批判が花盛りだったようですが、

頁91

 しかし、なぜ一九七七年十月まで批判することが出来なかったのか不思議な気がする。 

 上海で泊まったのは田中角栄も泊まった錦江飯店。たかが高校生の交流旅行にこのクラス、著者曰く「フランスの作った上海第一の」ホテルをあてがうなんてと思うのですが、「さすがはお国柄で差別はない」と書いています。プロレタリア階級でも三星ホテルに泊まれるという意味なのか、サパニンの小僧どもや、成りあがりの宿泊客をホテルマンが木で鼻を括ったようにあしらったり陰で笑ったりがないという意味なのか、分かりません。

魯迅記念館に行くと増田渉の書簡がたくさんあり、作者は同じ佐藤春夫ラインで増田渉を知っててもおかしくないのに、知らなかったのは迂闊だったと書いてます。頁96。作者が日本を出発する日に増田渉は竹内好の青山斎場での葬儀で弔辞を読みながら昏倒して不帰の客となったとか。大阪市立大や関西大の教授を歴任した人を帝塚山の住人、教育者が知らないというのも含蓄のある話で。アノニマスダイアリー。

増田渉 - Wikipedia

頁104、魯迅中学というところで、紅衛兵と日本の高校生の交流座談会があるのですが、1977年ですから、実体としての紅衛兵はもうないと思うので(とっくに下放でズタボロにされてたかと)外国人向けのショーウィンドウとしての紅衛兵だと思います。

頁104

 こんなあどけない子どもたちがよくも文革をやりとげたものだと驚かないではいられない。 

 この子たちはやってないから。習近平はやったと思いますが。紅衛兵の発言は優等生の模範解答ばかりで、日本の高校生は率直訪問なので気兼ねなしの言いたい放題だったとか。中ソ対立が背景だと思いますが、この時の中国側は北方領土問題に関心が深く、日本への返還を支持していて、

頁104

 最後にあいさつに立った紅衛兵は、可愛い顔をした少女であったが、

 「どうか日本の皆さま、断固、北方領土問題を勝ちぬいて下さい」とハッパをかけた。 

 たしか日共は北方四島にとどまらず、千島列島全島の日本返還を主張していたはずなので、この時の訪中団は社会党系なのかなと空想してみたりもしました。北京の赤旗社屋が紅衛兵に襲われたのは文革初期でしたか。

頁104

 紅衛兵は、異口同音にしっかり勉強して党と国家のために働き、人民に奉仕したいというが、こちら側の生徒は、人生の目的は個人の幸福の追求で、他人のため、国家のために犠牲になる必要はないとあっさりいってのける。 

 当時からこうもすれちがっていたのかとおかしいですが、紅衛兵は勉強なんかしてなかったし出来なかったはずなので(教師をガルウィングでつるしあげてたわけですし)この一点のみ見ても戦後というか文革は終わりぬ、子らは学び屋に帰りぬ、ただそれはこの時点では日本側は知りようもなかったことだと思いました。

南京に行って鉄道大橋を見たり蘇州(留園とか虎丘とか)に行ったり揚州に行ったり無錫に行ったり杭の杭州に行ったりするわけですが、南京で、当時まだ大虐殺同胞記念館(コレクトな名称ではなく、おおまかな記憶だけで書いてます)はなかったようで、しかし雨花台「廟」に行く記述があります。

頁114

(略)中国旅行社の心遣いで、大抵の日本人はここを訪ねないらしい。しかし私たちは特に頼んでスケジュールに組んでもらったのである。しかし正直なところ私は出発の前から気が重かった。といって避けて通るべき所ではなかった。 (略)

 作者は当時南京にはいなかったので、関係ないといえば関係ないのですが、そう平然としていられるものでもないだろうとしています。その辺の作者の機微はともかく、文革末期改革開放初期に中国を訪れていた日本人というのは、自民党と経済団体を除いたら、それなりの左翼人士ばかりなわけなので、そういった人たちがここに来ないというのもどうかと思いました。そりゃ日中友好まぼろしだわ(Ⓒ古森義久

有吉佐和子の中国レポートでも、雨花台来てたか、ちょっと覚えてないです。どうだったかな。あれだけナマイキなレポートもそうそうないので、今でも面白いのですが、中国農業にレイチェル・カーソンをぶつける質問とか。

庄野英二サンのエッセーには雨花石を売り付けに来る地元のガキどもは登場しません。商業の自由化がどこまで許されるか不明な時期で、まだいなかったのかもしれない。華国鋒の名前は出るのですが、有吉佐和子のエッセーでアホか、的に記述される「かなめをつんで~」のスローガンは出ません。まだ文革を引きずった「大塞」と「大慶」だけ。

はいすくーるララバイな高校生訪中団の、ウカダイ巡礼感想は記載されてません。さすがにあれはアジア開放のための正義の戦争だったと云うタイプは1977年の訪中団に参加してなかったと思いますが、歯に衣着せぬ論法で、ボクらに罪はない、ボクらも戦前の指導者たちの被害者、犠牲者である、現代の日本の若者も暗い青春を送っている、ボクらも青春を楽しみたい、しかるに大人社会は… くらいのこと言っててもいいかなと。でもそんなものが記述として歴史に残されてる箇所はないのでした。日中友好以下略

蒋介石が戦後ダイナマイトで完全に木っ端微塵に爆破粉砕した、汪兆銘の墓廟も雨花台だったと思うのですが、維新政府を思わせる遺構なんか、1977年にあるわけもなし。そういう記述も一行もありません。

キューバ紀行になると、一転して、吉田ルイ子も書いてる(騙されてる?わけでもないと思いますが)キューバには黒人白人の差別がないとか、フローズンダイキリおいしいとか、そういう記述になります。同じ共産圏でも、えらい違いや。キューバは中ソ対立ではむろんソ連側なので、東洋人の庄野英二サンは、随所で中国人(チーノ)に間違えられて、とげとげしい視線とキツいことばを投げ掛けられ、ハポネと言い返すと相手は笑顔になる繰り返しだったようです。

いやー、どこが花の旅なのか分かりませんが、人に関わりなく、花は咲いているってことではないでしょうか。以上