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落日 : とかく家族は (勉誠出版): 2012|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
stantsiya-iriya.hatenablog.com
この作品は、作者が父(文革後期、日中国交回復後に突然死)と祖父(武漢攻略戦で亡くなってるので逢ったことはない)を綴った作品です。「上海文学」一九九〇年第四期発表。邦訳テキストは2005年長江文芸出版社『方方作品精選』で、そのほか、一部、初出など参照とのこと。
作者の父親の汪徳佑は、1973年9月2日、武漢の長江映画館で内部上映の邦画「軍閥」鑑賞中、気分が悪くなってひとり外に出て、階段で倒れて死亡とのこと。どこかを打ったのが死因か、卒中とかなのかは書いてません。医師が蘇生を行う場面を目撃する描写がありますが、それ以上は今となっては… なのでしょう。
「内部上映」については、神大日本常民文化研究所の非文字資料研究センター「非文字資料研究」28号、2012年7月25日刊に、康楽という招聘研究員の方が寄稿されたレポートが詳しいです。
13 中国における日本映画の伝播と受容
文革期において、資本主義国である日本の映画を受容できる唯一のルートは、「内部上映」と称される政府機関内の映画試写会のみだった。
1971 年 2 月から 4 月にかけて「連合艦隊司令長官山本五十六」(丸山誠治監督、1968 年)「日本海大海戦」(丸山誠治監督、1969年)「あゝ海軍」(村山三男監督、1969年)が全国各地で盛んに内部上映され、多くの中国人が批判目的で鑑賞することとなった。これらの作品評は中国の映画人や「人民日報」をはじめとする各マスメディアによって大きく取り上げられた。
康楽という人は(中山大学)と書かれているので、中国人だと思うのですが、名前のルビが "Koh Tanomi" で、日本では「たのみ」と名乗っていたのかなと思いました。
百度で検索すると出て来る〈中南海内部電影〉や〈内参片〉は、当時のリンダぉ(领导)たちがゴラク(娱乐)目的でこっそり鑑賞してた西側映画を指すようなので、ちがいます。
で、「軍閥」という映画は、フツーに1970年東瀛全国公開の邦画で、ヤフーでも映画.comでも☆3.5で、ヤフーのレビューには「当時の空気を肌身で知ってる世代が制作した、戦争映画の良作」と書いてあったりします。アマゾンプライムでも鑑賞可能で、DVDももちろんありますが、私は未見。
激動の時代を生きた日本人の魂の真実を描こうとした「日本のいちばん長い日」につづく“激動の昭和史”シリーズ第二作。新名丈夫著『政治』をもとに、「続社長学ABC」の笠原良三が脚本を書き、「狙撃」の堀川弘通が監督した。撮影は「待ち伏せ」の山田一夫が担当。全国公開は1970年9月12日より。
今の中国領袖が海洋政策に熱心で、空母買ったり建造したりするのは、まだいろいろやわらかい若いうちに「連合艦隊」とか見て擦りこまれて、「嗚呼、いひなア。日本人とドイツ人は、次ぎはイタリア抜きでやらうぢやなひか、なぞと云つてゐるやうだ。だうだい、我国も、次ぎは惨胜でなく、完勝といかうぢやなひか」などと言い合っていたせいかもと思ったりしますが、それは閑話休題。
アマゾンプライムでいつでも見れるので、小説中の下記のような描写が、ホントかどうか今ではぱっと確認出来るのですが、133分。長いけど、見るかどうか。大佐は1990年にこの小説書いたわけですが、彼女自身は当時この映画見たんだろうか。
頁079
父は狂ったような殺人場面を見つめていた。銃剣と鮮血が父の目に焼き付いた。
(略)
父は映画が嫌いだったが、政治任務と思うと行かないわけにはいかなかった。そこで、父は日本人がどのように人を殺すのかを見たのだ。
銃剣と鮮血、騎兵と日本語に接して、(略)
父の前の席には女が坐っていた。気の小さな女で、恐ろしい場面のたびに小さな声をあげて顔を両腕で覆った。私も同じようなものだが、違うのは、私は声を出さず顔をそむける点だ。(略)スクリーンの中の年取った男が、父の視線の中で祖父の姿に変わったとき、前の女が鋭い声をあげて素早く突っ伏した。その刹那、父はスクリーンの全体を見ることになった。銃剣と滴りおちる鮮血が、目の前に現れたのだ。(略)
こんな映画なのかなあ。で、父親は祖父が死ぬ場面を見ていませんので、伝聞で脳内に形成されたシーンがスクリーン上で再生されたということだと。
父親が倒れたとの報を聞いた時、大佐は自宅の、いかにも長江中流域な竹製ベッドの上で、レールモントフの「詩人の死」1955年漢訳版を読んでいたそうです。夕暮れ時で、母親は台所で炒めものを作っていたとか。
頁084
私は夏のあいだずっとお下げを頭上に巻いていた。よく冗談交じりに、私はチベット族だからと言い、母はそれに笑って応えていた。だが、母はこの時だけは反対の意見を出した。わたしは結局その理由が分からなかった。
ひっつめ三つ編みのことなのかなと思いながら読みました。武漢のチベット人というと、八王子ではてなブログを書いてる方が日本語教師を検討したこともある中南民族学院(当時)の学生くらいしか当時はいないんでないと思うのですが、どうだろう。改革開放後は、高級ホテルの周りで鹿の角や鹿の乾燥ペニスを売ろうとうろうろしてる民族服の、よく分からないシンジケートの人もいたでしょうけれど、文革中だから。ひっつめ三つ編みも、時代が変わってからは、『綿の国星』とか、いろいろ違うことを連想してほしい気がします。無理か。
父親は1949年、当時の職場が台湾に撤退する予定だったのに、共産党に崇拝と憧れを抱いていたので、逃げずに南京に留まったんだとか。頁122。祖父とそのきょうだいは江西訛りのことばを話しながら南京や武漢郊外に住み、父は南京訛りのことばを話しながら武漢に住み、そしてファンファン大佐は武漢訛りのことばを話しながらもう武漢から出ない。海南島に移住でもしてたら、またしてもインテリ流浪一族、ということになるんでしょうが、ちがう。もともと江西の一族がそうして移動したのは、科挙官僚が任命される任地にあちこち移り住んで地元の郷紳と結託して転々と搾り取ってた、というよりは、びんぼうな寺子屋の先生が、縁故のつてで見つけた就職先次第で引越し人生だったから、なのかな。父親は頁14、右派闘争時、現場に寝泊まりしていた時に盗み見られた日記から密告されて吊し上げられます。そうしてだんだんに屈折していったんだとか。戦前には、母親と恋愛結婚するくらい、進んだ人間で、戦争中は雲南で中印パイプラインの仕事についたこともあり、その時は陽気なヤンキーといっしょに仕事して、アメリカ人の流儀も知っていたそうです。
祖父の汪國鎭は、武漢攻略戦に際し、郊外の馬当要塞のあたりで隠居していて、地元の人に慕われていたそうで、それで、高橋部隊に、英語が出来たりもするので、引っぱられて、宣撫工作への協力を要請され、首をガンとしてタテに振らなかったので、拷問の末殺されたとか。最後の場面について、作者は、自分の文章でなく、叔父が死後追悼のため書いた文章と、『江西省通誌』からの引用のみ記述しています。引っ立てられる前の文章は、伝聞をもとに「中華を侵す戦争は、正義の戦争ではないぞ!」(頁127)と言ってそれを通訳から聞いた日本軍を驚かせたり、「あなたが我々と来るなら、彼らは釈放します」「あんたら、言行不一致はダメですぞ」(頁128)と江西訛りの漢語と英語で言ったとか、気骨あるところを書いています。
訳者は、2008年に作家代表団の一員として来日した大佐に、早朝、ホテルのロビーで会った時に、この作品は事実に基づいているのかと質問したそうで、「すべて事実です」と答えられたそうで。
頁391 解説
一人の戦後生まれの日本人として、このような場合どのように返答することができるのか、少なくとも訳者には重い設問である。
そんな質問しなければいいのに。「ぜんぶウソです。創作です」と答えてもらえると思ってたわけでもないでしょうに。そのかわり、訳者は、1938年の朝日新聞縮刷版を漁って、高橋部隊の馬当要塞近辺攻略の記事タイトルを列記してます。現在、ウィキペディアでは、馬当要塞絡みは単語が見えるだけで(英語版では"madang")個別の記事は消されたようで、写真も、中国側のものしか使われていないので(中文版)「漢口を望んで意気軒高」「皇軍兵士、彭沢県城を睥睨」みたいな朝日新聞の見出しの日本側の写真も使ってあげたらいいかも「よくねーよ」
祖父のお兄さんは汪辟疆(汪國垣)という名前で、この人は南京郊外にいて、逃げて難を逃れ、1966年に逝去して、墓は紅衛兵になぎたおされてます。曽祖父は汪際虞という人で、広東に任官されたこともあったとか。
武漢では文革期の事を「白色テロ」と呼んでいたそうで(頁093)台湾では国民党の恐怖政治を指すこの言葉が、なんで武漢では紅衛兵同士の内ゲバを指すことになったのか、さっぱり読んでわかりませんでした。〈紅八月〉とか〈三字兵〉とか〈狂妄師〉とか、紅衛兵組織の名前だけはカッコイイ気がしないでもないです。特に最後のは、「クワンワンシー」という名前が、ジャンプのマンガのブリーチみたいだと思いました。ただし、「◯◯師」という言い方は、相武台前以降あんまし… なので、それは書き添えておきます。以上