『万延元年のフチボ』講談社文芸文庫版を読んだ*1ら、解説で本書と『個人的な体験』と『レインツリーを聴く女たち』をコミコミで読むと万延顔淵閔子騫のあじわいがより深まるというようなことが書いてあったので、読みました。
内容というか、感想はほぼほぼ上のウィキペディアと同じです。ゴチエイが根本敬を評して言った「飲めない酒を飲んで絡む」ような作風というか。
メインキャラクターの斎木犀吉は伊丹十三をモデル人物としている。本作には多様な飲食物や車の名前が登場するが、伊丹仕込みであり、小谷野敦は本作と同時期に書かれた伊丹のエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を「元ネタ」としている[2]。
冒頭友人が死ぬところは同じなのですが、1967年の万延元年では尻に胡瓜を突っ込んで自死、1964年の本書ではアフリカのホテルで自死と、だいぶこきおろしかたが変わっています。俳優でレタリングの仕事もしてるという箇所で、ふつうに伊丹十三を連想出来たかと。私は伊丹十三の葬儀における大江さんの弔辞を知りませんが、映画「ミンボーの女」後日譚でヤクザに刺されて死ぬという現実の結末を、どのように自身の小説と関連付けたのか、知りたくもあります。一六タルト。
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頁117に「ニート」という単語が出て、これが日本初の「ニート」使用例だったら面白いなと思いました。1963年のニート。頁141には「ブリリアント」が出ます。田中康夫より19年前。
「ぼく」がヒポコンデリアに陥っている状況は「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」発表後の大江の窮地を連想させる[3]。
深沢七郎『風流夢譚』と並ぶ現実も、オーエサンにとっては、ヒカルクンの衝撃に比べれば、鴻毛のように軽かったのでしょう。鬱と書けば一文字ですが、ヒポコンデリーと書けば七文字。字数を稼ぐためにそうしたわけではないでしょうが…
「ぼく」が「バルカン半島の社会主義国」から招待され、そこを経由してパリ、ロンドンに斎木犀吉に会いにいくくだりは、1961年2月、大江がブルガリア政府とポーランド政府の招きで、両国とギリシャ、イタリア、ソ連、フランス、イギリスを訪問している伝記的事実[5]と符合する。
頁212にタルトゥラという酸っぱいミルクのスープが出ます。上記によるならそれはブルガリアもしくはポーランド料理ということになるのですが、検索ではイタリア、ピエモンテの玉ねぎ入りカスタードしか出ません。よく分からない。
そんな映画監督もいたと思ったら、タルトゥラでなくタルベーラでした。
頁10、「デキゾコナイ」という言い方が出てきて、「出来損ない」なら「デキソコナイ」、語頭以外清音なのではないかと思いました。
でもひょっとしたら、pixiv百科事典で「おっさんホイホイ」のタグつきで紹介されてるアニメ「ろぼっ子ビートン」の主題歌が「できそこない」と言ったから「できそこない」が広まったのかもしれません。それまでは「できぞこない」も淘汰されず併存していたという仮説(検証しません)
頁35
(略)そして死にもの狂いの漂流のあと香港の英国人の巡視船に救いあげられた斎木犀吉はどういう誤解からかわからないが、中華人民共和国からの避難民のための九竜のキャンプに収容されたのであった。しかし斎木犀吉がそこでのんびりしていたとしたら、かれは避難民送還バスにのせられて毛沢東の放蕩息子の名において広東の人民公社へ帰還しなければならなかったろう。
毛沢東の息子は朝鮮戦争で戦死してるので、ここでいう「放蕩息子」が誰を指しているのか、まるでナゾでした。次男を指して言ったとしたら、そりゃ兄の妻の妹で、まだ学生だった女性と結婚したわけですから、そうも呼ばれたのかなあ、当時のモノサシで、とは思います。もしくは、当時は有名な隠し子がいたんでしょうか、という話で。
本書主人公の祖父90歳は、虞世南から習ったかのような美しい字を書いたそうです。頁47。
作者の分身である本書主人公は作家訪中団に加わって上海で毛沢東に会っていると、頁48に書いてあります。会ったとしたら文革前の、劉少奇時代のお飾り状態時期か。その時期に客寄せパンダの側面を受け持たされて、おおいに内心むかついてたんですかね、毛沢東サン。にしても、大江健三郎サン、毛沢東とじかに会ったことがあったとは。とんでもない。おそロシヤ。
ハングルでいうと、金泰という在日コリアンボクサーが出ます。父親への反発から拳闘の道を歩んだ少年という設定。食べ吐きのクセをもっていて、減量に役立てています。キムテと読むと思ってますが、本書のルビはキムタイです。ハングルでタイって読むのかなあ、泰。
イテウォンクラスはイタイウォンクラスジャナイデスヨネ。
頁120
(略)ところがついに我慢しかねたように彼女はこう叫んでしまったのだ、
「金泰、カンバッテネ!」
ぼくも犀吉も二人のボクサー志願者も、それに卑弥子自身も(当然のことながら、彼女がもっとも絶望的に激しく)雷にうたれたような気分だった。ああ、金泰にむかってなんということをいうのだろう、かれが朝鮮人であることを下賤にも嘲弄してみるつもりなのか? それはもう気違いざただ、けなげにも、なんとかして恐怖にうち克とうとしているわれらの親しい友にたいして、カンバッテネとは!
しかし若い聖者のようなボクシングのプロ選手は赤くなっていまにも泣き出しそうに醜い卑弥子をこういって救助してくれたのだった。
「ああ、カンバルヨ」と微笑して……
金泰の描写はよく分かりません。
頁152
金泰の生れた東京湾周辺の朝鮮人部落の少年が強姦殺人事件をおかしたとき、金泰は、かれの次の試合をその少年のためにささげ、ノック・アウト勝ちした。かれは日本人に屈服すべく自己欺瞞をかさね、ついに性犯罪をつうじて自己解放するほかに、生きてゆくべく試みる方法をなくしたひとりの朝鮮人少年のために、リングの上での自己解放をおこなってみせたのだった。結局、その少年は死刑に処せられてしまったが、金泰によってささげられたあのノック・アウト勝ちは、少年を死の時にいたるまで勇気づけたにちがいない……あのころ金泰に、日本に帰化するようにすすめたボクシング批評家かレフェリーがいたが、かれはそれを拒絶した。むしろかれは日本の職業スポーツの分野で働いている様々なかれの同胞たちと横のつながりをつくろうとしていた。もっともこの方は、金泰の申し出がほとんどつねに拒まれたようだった。
こういうのを読むと、まさにゴチエイの根本敬への指摘そのままなような… 「飲めない酒を飲んで絡む」
アイヌは比喩で出ます。
頁156
(略)やがてただちにかれの義兄となる筈の嬰児殺しの医師がアイヌみたいに毛むくじゃらの掌で親しげに、蒼ざめた新郎を蒼ざめた花嫁の方へ押しやった。
頁187にも付箋をつけたのですが、どこの箇所に反応したのかもう忘れています。
読んだのは初版の七年後の十一刷。貸出の日付が昭和57年で切れてるのは、以降バーコードの貸し出し処理になったからと推定。
ん
な
本
で
す。被爆者一世も出ますし、ましてや女性の形容をや。ユングやフロイトをかじった読者が、著者と伊丹十三の関係やコンプレックスをあれこれ類推するのを高みの見物でもしたかったのでしょうか。それらすべての日常営為は、ヒカルクンによって吹き飛んだ。大学で教育学のセンセイが言っていたのですが、ハンデのある子どもが産まれた時、「インテリほどもろい」とか。