『熱い絹』Atsui Kinu = "Hot Silk" by Matsumoto Seicho 上下巻 読了

 読んだのは単行本ですが、絵は文庫と同じ。デザインを少し変えてるだけです。

[まとめ買い] 熱い絹
 

 装幀 菊地信義 雉の向きや、タイトル下地の赤い四角の角度が、単行本と文庫本で異なります。

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熱い絹 - Wikipedia

タイ・シルク王ジム・トンプソン失踪事件(未解決)に着想を得た、メタ推理小説

ジム・トンプソン (実業家) - Wikipedia

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現地取材旅行をした上で、1972年から1974年まで連載して中断し、1983年から1984年まで全面改稿、構想を練り直して再度連載、単行本出版、その間も、その後も、題材となった1967年の失踪事件は未解決のままという。

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佐藤正午『ジャンプ』に、ボー・ティーというマレーシアのお茶が登場し、松本清張の本書にもボーティーが出てくるよということで、ジャンプの主人公が読んでたので読んでみました。でも、松本清張の小説では、「カメロンハイランドで作られるお茶」という形容で登場するだけで、ブランド名は出ませんでした。

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本書にはサカイ族というマレー半島の山岳民族が登場しますが、この呼称はマレー人から見た「奴隷」の意味を持つ言葉なので、現在ではふつうは使われないんだとか。

セノイ族 - Wikipedia

上巻頁36でいきなり、「夏は農閑期」ということばが飛び出して、びっくりしました。北九州はそうなのでしょうか。このことばが出る場面は、軽井沢なのですが、軽井沢の農家にとって夏は高原野菜の最盛期で農繁期のはず。いきなりわけが分かりませんでした。そのすぐ後の頁42で、「四十五歳の老嬢」という表現が飛び出て、今度は苦笑しました。むかしは年を取るのが早かったのだなあ。今はその年だと、子どもが小学生の高齢出産の人もままいるはず。

上巻頁201、マレー人の警部補の口から、"chinese merchant abroad"という言葉が出て、チャイニーズ・マーチャント・アブロードは「華僑」の意味だと、通訳の邦人国際刑事課員から説明されています。普通はオーバーシーズチャイニーズだと思うのですが、70年前後はそうだったのかなあ。

Overseas Chinese - Wikipedia

上巻頁271に、辻褄が合う、の意味で、「平仄が合います」という表現が飛び出して、なんというか、華人とマレー人が錯綜する現地の表現として、ふさわしいと思いました。

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松本清張センセイは、現地の看板や新聞やパンフの文章が面白かったようで、あちこちに引き写しています。特に、日本から現地巡業する歌劇団の宣伝パンフは、英文も漢文もみっちり寫しています。おかげで、明星でなく紅星と書いてあるとか、ところどころ簡体字が混ざっていて、個個が个个、種が种、逆に𦾔字も混ざってるということかな、舞踏が舞蹈だったりして、読んでて面白かったです。蠢动世界,闻名遐迩!

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キャメロンハイランドがリゾートでゲンティンハイランドがカジノのはずですが、私はよくごっちゃにしてしまい、覚えられません。

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私はマレーシアでカード詐欺(トランプのインチキイカサマ)にあったことがありますが、その時も、連中、ゲンティンハイランドがどうのとタワゴトをぬかしていました。

小説中、東南アジアの珍しい蝶を探し求めて旅する日本人青年がぬっころされますが、『バンコク楽宮旅社』にもそういうバックパッカー登場してたなあと思い出しました。確かスマトラのトバ湖に行くんだった。私は中国で邦人の鉄オタやアマチュア登山家に会ったことありますが、昆虫マニアには会ったことないです。で、トバ湖には行ったことあります。ふつうにリゾートで、キリスト教に改宗したインドネシア人の集落があるので、豚肉料理を出すレストランがある。

本書でいちばん興味深かったのは、ベトナム戦争たけなわで、文革期の中国で毛沢東世界同時革命を鼓舞していましたので、マレーシアでは華人青年主体のマラヤ共産党が山岳ゲリラ戦を戦っており、それを、鎮圧する側のマレーシア警察側から見ている点です。マラヤ共産党は孤立無援というか、毛沢東の遊撃論信奉もむなしく敗れ去るのですが、相手が軍でなく、「野戦警察」という独特の部隊の掃蕩戦だったとは知りませんでした。

上巻頁227

 ――マレーシア警察は、国軍とは別に、内務省の所管する警察隊の中に十九個大隊約二万二千名の野戦警察隊がある。主として密林地域内における対反政府ゲリラ作戦に従事している。装備は国軍歩兵部隊(陸軍の兵力は約六千三千人)とほぼ同様で、国内治安維持の暴動鎮圧部隊(デモ規制用)も持っている。 

 こっちはムスリムのマレー人主体で、アニミズムを信奉する山岳少数民族サカイもマレー人側についているという状況で、海からの船荷の中共物資供給を遮断されていたとすれば、華人青年たちに勝ち目はなかったろうなと思いました。

頁219

「イポーは」

 先頭の車で、ダウドウ警部補が川久保を通じて長谷部に説明した。

「広東から集まってきた中国人錫鉱夫によって発展したようなものです。かれらの住む鉱夫納屋キャビンがどんどんふえましたからね。飛行機の上からもごらんになったかもしれませんが、クアラルンプールとペナンをつなぐ国道沿いでも、この付近の崖下の台地にある赤や白の建物は、みんな中国人の仏塔パゴダです」

 マレー人の警部補は、中国人のエネルギーの繁殖力を語ったあと、いまいましそうな顔をした。

 イポは、ヤスミン・アフマドの映画でも、ラットの漫画でも、舞台になった街ではなかったかしらと。一度行ってみたいと思っています。機会はないだろうけれど。

下巻頁87に、シンガポール華僑で、興行界の大立役者のリ・ジチウンという人物が登場し、《李子純》と書くと説明される場面があります。これ、広東語だと、jiseunだし、ウェード式の國語だと、tzuch'unなので、ピンインのzichunをそのまま英語風に読んでると考えるのが自然と思いました。日本のカタカナの、清音濁音は無気音有気音にあらずルールだと、ツィチュンと書くのではないかと。チャン・ツィイー

子 - ウィクショナリー日本語版

純 - ウィクショナリー日本語版

このリ・ジチウンサンは、「五十歳をちょっと過ぎたくらいの若さ」だそうで、上巻そうそう軽井沢で殺害されたイギリス人の「四十五歳の老嬢」とは、だいぶ形容が違うやないかいと思いました。80年代の男性の感性。新世紀オバンオジン。

頁92に「ワンサガール」ということばが登場しますが、80年代にも使われてたのかしらと思いました。

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ワンサくん|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

下巻頁114に、夏威夷の英字はケダーという、トンデモが披露されています。夏威夷はハワイなのに。で、ケダーはマレーの北西部で、そこに米国製と日本製のフィルムの絵があるから写真屋だーと書いてあります。そこでピンときて、ケダーは〈柯达〉で、コダックだろと思いました。ここは何か、資料の整理がうまくいってないと思います。

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下巻頁268、おはなしの核心のひとつである、カンボジア仏教美術品出土地を地図上でチェックする場面なのですが、英国駐マレーシア軍の武官が、シエムレアプやらシソボンといったカンボジアの都市名を語りだし、山脈名を言ってからタイのイサーンの、プラコンチャイ、スリン、コラート、そこを越えるとラオス、といった具合にすらすら語る場面は面白かったです。マレーシア駐在であっても、東南アジアに精通しなければならない駐在武官はこれくらい朝飯前という。

本書は遺骨収集団も登場し、残留日本兵ネタバレでメインなのですが、キャメロンハイランドに広がる静岡茶の茶畑は、清張センセイの脳内妄想なのか、現実にそういうことがあったのか、さっぱり分かりませんでした。誰か教えてほしいです。以上