『中国古代人の夢と死』(平凡社選書 89)読了

積ん読シリーズ 

吉川忠夫先生の本は、昨年再版されたという『侯景の乱始末記』も、昨年酷薄国博顔真卿特別展にあわせて法蔵館から出て、花を添えたというか、おおいにその筋に祝福された『顔真卿伝』も、このブログでちゃんと感想を書き終えていないので、これも二の舞三の舞になるかと思うと気が気ではないです。といっても、そんなに書くことはないんですが… 

表紙

よほどの明達の士でもないかぎり、死はやはりおそろしい。「骨を地に還す」というリアリズムが、一方で「精を天に帰す」という一種のロマンチックな幻想をともなわなければならなかったのは、そのためではなかったか。この幻想はおそろしいリアリズムを慰藉してくれる鎮静剤のはたらきをもったはずである。

 表紙でもういきなり「慰藉」が読めないという… 

kotobank.jp

イシャはどこだ!

中国古代人の夢と死 - 平凡社

そのへんの古本屋で五百円プラス税金もしくは税込五百円で買いました。古書店主はそのへん、消費税をとるほうにこだわるのか、オマケするほうにこだわるのか、いろいろで、覚えてません。どこで買ったんだか。昔の行動半径から推定するに、今はなき、町田の、ウタリというヤキトリ居酒屋の隣の店がクサいですが、確証はありません。

 全五章構成。第一章「魂気の如きはゆかざるなし」筑摩書房「展望」1976年6月号掲載。1975年12月19日~翌1月8日までの「中国研究者友好参観団」訪問記を兼ねた散文。出だしで、上海発成都行RW50647で南京を出発して洛陽に到着、というくだりで、そうかこの当時鉄道はまだ漢口や宜昌経由で成都に行ってなかったんだな、いったん蚌埠徐州鄭州と北上して、宝鶏あたりでまた南下するんだっけ、いや、それは今でもそうだっけか? 鉄オタでないので分からんちんと思いました。グーグルの経路検索は律儀に中国の封鎖状況を反映しており、「都市間の移動も出来ますよ」とスポークスマンが言う割りには、今日現在、鉄道も飛行機も選択出来ません。自動車一択。「グーグルはウソばっかりデスヨ」

http://cnrail.geogv.org/jajp/about

上記のサイトでは、上海成都は直通の高速鉄道がなく、在来線は今でも上記、鄭州まわりのルートでした。

頁7

成都までには、これからさきなお潼関をこえ、秦嶺を南下する一昼夜の旅を要するのであろう。

 一行が使用したのはもちろん軟臥。洛陽の潤水、龍門の伊水、龍門往復に通過した洛水、いずれも手にすくいとってみたくなるほどに清冽だったとあり、しかしあとがきで、1979年「中国文学研究者訪華団」として洛陽を再訪したおりには、いずれも黒く濁ったヘドロ状の水になっていたそうです。清冽だった旅行は文革終焉前夜(帰国した日に周恩来逝去を知ったとか)で、ヘドロの旅行は鄧小平前夜、華国鋒の要を摘んでの時期ではないかと思います。四年でもう濁るのか。コロナロックダウンでロサンジェルスからロッキー山脈が見えるとか、北京で明最後の皇帝崇敬帝が首吊った松の木の景山公園が見えるとか、そういうのもすぐもとに戻るんでしょう。セカオワ(笑)にならなければ。

基本的に日本は、中華民國を「華」中華人民共和国を「中」と略してますので(日中国交回復は同時に日華国交断絶)訪中団なのに「訪華団」を名乗る文学研究者集団もたいがいだと思います。わざとでしょうけれど。堅持ひとつの中國。憂歌団。1975年の、このエッセーの旅行は洛陽の漢墓を視察していて、案内は洛陽博物館の蒋若是という人。

baike.baidu.com

随行員は中国国際旅行社の陳平暉(老陳)と陳艶桃(小陳)作者はこれに「ラオチェヌ」「シャオチェヌ」とルビを振っていて、"陈"のピンインは前鼻音"chen"で、後鼻音"cheng"ではありませんので、それで「ン」でなく「ヌ」とルビ振ってるんだなと分かります。同じページには潼関渭水の吊橋というところで1959年に発掘された漢墓のことが書いてあり、そこでも、碑に「楊」姓が書かれ、副葬品に「煬」と書かれていて、どちらも"yang"の同音なので、楊氏の墓で間違いないであろう、と書いています。中古音で"yang"と読むかはともかく、研究者も意欲的にピンインを取り入れてたんだなと思います。同じページに、例の解放軍ドテラと思われる、「綿大衣」に官話音「ミエンダアイ」とルビを振っていて、"miandayi"をちゃんと読んでるのも当たり前。ミアンとは読まない。ハングルでミアンはメンゴ。

頁32

ちかごろの中国でこそ秦の始皇にたいする評価はまことにたかく、孔子をイデオローグとする奴隷主貴族階級を打倒し、中国さいしょの中央集権的統一国家を樹立した封建地主階級のチャンピオン、となっているが、伝統的な評価のおちつくところは、比類なき暴虐の帝王、ということであったのであり、(後略) 

 ここは、あとがきで、わざわざ再度引用して、「儒法闘争のさなかにあった当時の中国史学界の情況にもとづく発言である」とことわりを入れています。ちゃんと従来の評価も書いてるんだから、バカ文革に同調してないことは文脈から読み取れると思うのですが、読解力のない人もいるんだろうか。とまれ、この時の旅行を、作者は、緊張した中での旅であったことが、むしろなつかしい思い出として蘇るとしています。

第二章「寒食散と仙薬」は平凡社「月刊百科」223号、1981年5月掲載。魏晋南北朝時代から唐まで爆発的に流行した「寒食散」なるハイになるスリクについての考察。魯迅も1927年広東の夏期学術講演会で「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」と題してこれを講じていて、その筆記が残っているので、ご存じも向きも多いと思う、の出だしで始まります。

魏晋风度及文章与药及酒之关系 - 维基文库,自由的图书馆

寒食散は食べ合わせなど注意事項があり、なるべく薄着で、ほてってくるので、そうしたらそれを発散させるため"行散""行薬"と呼ばれる徘徊散歩をせねばならないとか、つめたい食べ物しか口にしてはいけないとか、しかし酒は燗酒でなければいけないとかあります。

頁50

西晋末の永嘉の乱にさいして、羯けつ族の石勒せきろくに捕えられた鄧攸とうゆうが、失火の罪をなすりつけられたとき、「弟の婦よめが散発のため酒を温めましたばっかりに……」といいわけしてるのは、右のような事情を背景にしてはじめて理解できよう。 

 "攸"の字がIMEパッドでも出なくて困りました。東晋の桓温の息子桓玄のところに王忱が五石散を飲んでヨッパラって訊ねてきて、サケモッテコイになり、冷やでは飲めないので、"温酒来wenjiulai"とやって、あいての父の名を呼び捨てにする礼法のタブー犯しなのに、ヨッパライなもんだからおかまいなしで、桓玄くんは泣いちゃった、という話が「世説新語」任誕篇に載ってるそうです。当時酒は冷やで飲むものだったのに、このドラッグと併用する際は燗酒でないといけないのでこうなったのだとか。ウィキペディアで見ても王忱という人は晩年酒が切れず、ハダカで外出歩いたりしたそうです。

桓温 - Wikipedia

桓玄 - Wikipedia

王忱 (東晋) - Wikipedia

魏晋南北朝時代 - Wikipedia

六朝 - Wikipedia

吉川忠夫 - Wikipedia

【後報】

第三章「夢の記録」は、作者お得意の梁の時代の神おろし、シャーマンのものがたり。佛も降りてきます。頁92に付箋をつけてたのですが、時間が経った後で読み返すと、何をトピックと思ったのかぜんぜん思い出せません。夢で現れる仙界の官吏に、オマエの仙界の勤め先はもう決まったが、ハンコがまだだからもう少し待て、といわれる箇所かな。こんな記述が遣唐使前の大陸には既に。

第四章「仏は心に在り」は、次第に伸長する六朝時代の仏教について。これも頁161にしおりを入れてましたが、なんでかもう思い出せず。天国を天堂と書いてる箇所でしょうか。

第五章「道教の旅」は、1983年の訪問記。第三章の陶弘景ゆかりの茅山だけ許可が下りず行けなかったとか。ほかは北京と武漢と、西安郊外と…上海と…

Google マップ

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おどろおどろしい政治と死のはざまにあった漢代知識人の魂気遊散の幻想、恍惚たる道の世界の逍遥のイメージを解く〈魂気の如きはゆかざるなし〉,幽冥界の神霊との感通の記録を残して仙界へ旅立った周子良の夢の世界の文責を通じて茅山派道教の成立ちを考えた〈夢の記録〉,仏は外にあらず、これを心に求む、と主張する姚崇の遺令を綿密に考察して、士大夫の仏教信仰の態度を,政治と社会の動態のなかに浮彫りにした〈仏は心に在り〉など,中国の古代人の夢と死にかかわる想念を社会という現実の舞台と緊密に連環させながら,その精神のありようをみずみずしい筆致で描いて,従来の儒教道教・仏教の煩瑣な研究からはうかがいえない社会精神史へ我々を誘う。 いずれの宗教にとっても、神霊との感通,神霊からあたえられる啓示はきわめて重要な意味をもっている。よく知られているように,親鸞が六角堂において得た聖徳太子の夢告げは回心の契機となった。 『周氏冥通記』は,その書名からもおよその内容が察せられるように,周氏,すなわち周子良と幽冥界の神霊たちとの感通の記録である。 茅山の隠居先生陶弘景の弟子である周子良のもとに神霊がはじめて降臨したのは、梁の天藍十四年(515)五月二十三日,あたかも夏至の日の正午すこし前のことであった。そして,子良は自殺をとげる。それはたしかに,世間で自殺とよぶところの形式にかなった行為ではあったけれども,その日,周子良は保晨司なる位を約束されて仙界に召されたのである。つまり,周子良の自殺は,この世における生に区切りをつけて仙界における永遠の生を得るための一つの儀式であったというべきであり,天藍十四年夏五月から天藍十五年冬十月までのおよそ一年半は,仙界に召されるまでの準備の期間にほかならなかった。

装幀者未記載。上記の文は平凡社編集岸本武士という人の手になるのかなあという。わが国にも親鸞聖徳太子の夢のお告げがあるじゃないかという、いい文章。既刊紹介を見ると、若き日の藤井省三北東や、アリラン峠の旅人たちが見え、ひたすら懐かしい人は懐かしいだろうと。以上

(2020/7/17)