タダ券が八月末までなので、とにかく何かみようということで、見た映画。なんだか監督のなかで、ムスリム移民の整理がついてないのか、あるいは直前でシナリオ変更が相次いだのか、詰めて作ってない気がします。一時間半だから、それでいいといえばいいのですが、都会の一時間半は、ぶらりと立ち寄って潰す時間としてはちょうどよく、田舎の一時間半は、それがために汗を流して服を着かえて運転して駐車場に入れて、という時間のあとの一時間半なので、どうしても小劇場はシネコンに負けるかなという。このオチのために、その時間を割くだろうかという。
寫しませんでしたが、シート消毒チェックシートとアルコール噴霧器も見ました。毎回拭いて、拭き残しがないことを記録としてのこしてるのだと思います。でも私がコンフィデンスマンジェーピー見たシネコンは、全観客の非接触型検温を実施していて、そこでアウトの客は入場させてない(それ以前に、熱あるなら出歩くなという…)そこまでは難しいんでしょうか。客が協力しないのか何なのか分かりませんが(「ほとんど無症状じゃない」と言われたら返せないのか)、検温が出来ないのが、けっきょく国をあげての対策の水漏れと同根だと思います。もう死なないからいいんですけど。志村けんや、愛知県のフィリピンパブの男の時代じゃないので。市内の複数の病院や小学校でクラスタ感染が起こった自治体の図書館なんか、手を消毒しないと入館出来ないよう、入口で監視役の係員をひとり配置して、その人は座ってチェックしてきつめに声かけしてるんですが、そこまでの覚悟って、その地域で拡大してないと、なかなかないんじゃいかな。
クラウドファンデングとかもやってたと貼紙にありました。大型サーキュレーターを置く金もスペースもない小劇場は、幕間に非常口を開けて換気。これが、外に面してない小劇場はどうしてるのか。
「俺はまだ本気出してないだけ」みたいな髪形で、狂信者にイカレてると言われても。形から入るなら、髪切れ、髭伸ばせ、白い帽子かぶれ(ときたま家の前を自転車でとおる少年たちのひとりはかぶってますよ)と思いました。ベルギーといってもフラ語圏のようで、みんなフラ語が日常会話で、しかしアラビア語を学ぼうということで地域でコミュニティスクールをやってるのですが、その教師がヘジャブを被らない女性なので、そこがミソのはずで、師岡カリーム・エルサマニーのような、開明的な世俗主義者のジャスミン革命支持者とかだったら、話は一気に移民間の信仰対決になりますので、非常に盛り上がったはずなのですが(エルサマニーの本でも、いかに原理主義者が、教義を都合よく捻じ曲げているか、ウソを取り混ぜているかが書かれていた)描写しない。
少年院から実習に通う農場の欧州人少女もまた、ヘンな子で、「天国も地獄も実在しない」なんて平気で云う。前川健一がコラムで書いていた、欧米人相手に、自分は無宗教だと名乗ると、シンジラレナイ、とあきれられ、憐れまれ、如何に信仰が人生にとって大切かこんこんと説教されるので、めんどくさいから、欧米人には仏教徒だと答えることにしている、というのは私も共感出来て(ただし、仏教も欧米ではカルト扱いされることも折りこんで生きてゆく)それで行くと、この少女はなんというか、ベルギーで農場なんてやってる人たちだから、変わり者とか、独自の何か自己啓発でもやってるのかしらと思いました。ブレイディみかこの本に出てくる、イギリスの高福祉の恩恵を受けながらアナーキストやってる連中みたいな。少年院の矯正に協力したりして補助金もらって、牧畜と農業だけでは経営してゆかれないのをなんとかしてる、みたいな。
在ベルギーのムスリムたちがフラ語で集会してる場面も、ショックでした。アラビア語で話せばいいのに。中国の回族が漢語で話したり、マレーシアやインドネシアの回教徒がマレー語やジャワ語で話すのは、そりゃアラビア語が母語じゃないからですが、見たとこトルコ人もイラン人もパキスタン人もいなさそうな、マグレブと、セネガル、コートジボワール、マリなどのサハラ以南仏語圏からの回教徒のコミュニティに見えるので、モロッコ人とアルジェリア人とチュニジア人が会ったら、アラビア語でなくフラ語の会話になるんだろうか、長いこと植民地だったし、でもなあ、そこにシリア人とエジプト人が入ったら、アラビア語でないとつらんちゃうかな、どやさ、と思いながら見ました。ジッドが一粒の麦もし死なずばで買った少年の時代とか、今日ママンが死んだのカミュの時代とかも、フラ語とアラビア語が共存してたわけなので、ベルギーのコミュニティがそんな感じでも、ぜんぜんおかしくないのかなあという。
いろんな意味でもっと掘り下げて、よりそってもよかったけど、一時間半でとりあえず終わらせて、ほってしまったという。そんな映画と思いました。どっとはらい。
【後報】
原題は上のフラ語トレーラーに併記された英語「イャング110番アーメド」そのまんまの意味です。邦題は、オチを見ると、はーん、なる、となるネタバレタイトルで、かつ、設定で、回教原理主義で女性に触れたり触れられたりすることを禁ずる思考に、思春期のもやもやからの救いを求めてしまう(ように観客に思えるように原理主義をある程度デフォルメして作ったシナリオに依る)若さを題名化してるのですが、それはそれとして、原題に則して考えるなら、邦題は、「アーメド、青い」かなあと後で思いました。朝ドラのパクリタイトルになるは必定なので、ボツ案でしょうけれど。
以前新教の教会で聴いた橋爪大三郎の講演で、キリスト教がさかんでない国として、世襲宗教としての倦怠感が蔓延してるフランスがあげられてました。そういう文化圏の一員であることを理由に、この映画に登場する少女の「天国も地獄も存在しない」発言を理解してもよいかと、一晩寝てから思いました。サルトルとボーボワールの文化圏、理念による共同体、EUの「首都」設置国、バルジム(バルジウム) そう考える方が、へんな脱宗教的コミューンの農場と色眼鏡で見るより、穏当な気がします。以上
stantsiya-iriya.hatenablog.com
(2020/8/31)