

横浜中華街160年の軌跡 この街が、ふるさとだから。
Yokohama Chinatown, 160 years history.
横浜ユーラシア文化館 Yokohama Museum of EurAsian Cultures
酒債尋常行處有 人生七十古来稀
上の横書きの扁額は読めませんでした。
終了前に滑り込み鑑賞。週刊痛快布マスク六月廿日発売号に載った記事で企画を知りました。そんな遅く記事になるとは。
要するに、店じまいやら終活やらで行き場のなくなった品々が寄贈され溢れたので企画展という。
円卓。回転テーブルですが、卓袱台タイプは見たことない人も多いかと。むかしは小上りというか、畳を好む人も多かったので、床の部屋にイスとテーブルだけでなく、大規模中華が座敷の個室にこのようなテーブルを置いたりもしてました。今は居酒屋の和室でも足が伸ばせる掘りごたつタイプがふつうですから、もしこの手のが生き延びてるとしても、やはり足がしびれないよう掘りごたつタイプと組み合わされてると思います。
箸の置き方が中華の縦でなく和風の横なのは、今後も保持される気がしますが、現場でセッティングする人が、みんなあちらのアルバイトばっかになって、監督も新華僑で、みたいな店がドラスティックに変わってゆき、気がついたら客のほうが縦置きに慣れてた、みたいな展開もありそうです。
また、上の円卓にはお銚子とおちょこがあります。これまた和風。清酒というより、これで紹興酒を燗つけて飲んだりしてたのであろうと。だから給仕は仲居さんチックな人たちであったろうと。きざらを入れますので、底にこびりつきますが、それはお湯につけておけばとれる。紹興酒にきざらを入れるのも日本だけですが、もう日本で初めてそれを見て目を丸くする華人も減りつつあるのかも。入れないし、ボトルのまま燗したりするから。
入口。どれが名店でどれが新興店か、私には分かりません。
撮影おkの個所とNGの個所に分かれています。細かく表示が出てるので、区分が分かりやすい。あえて平日を狙ったのに、けっこう人が来てました。若者が多いのは、なんだろう、社会見学なのか。入口に完全事前予約制とあって、QRコードが至るところにあって、そのコードから現場で予約するようになってるのですが、私はアンドロイド型ガラケーの通信料をほとんど払わないプランで、アハモより安くあげてるので(上がってませんが)、通信したくなくて、困ったなあと思っていると、館員の方が声をかけてくれて、連絡先など手書きで用紙に記入して、それで入館出来ました。よかった。
しかし、アンケートも展示品一覧のQRコードから入るWEBアンケートになっていて、コロナカの非接触型モデルとしてよく出来てると思ったのですが、同様の理由で、私はアンケート記入出来ません。公式からアンケート探しましたが、見つけられず。あくまで展示品一覧のQRコードから行かねばならないみたいです。
番傘とありますが、唐傘ということばがあるように、私が先祖から受け継いだ知識では、三把刀以外に、からかさの行商の仕事があったようです。1910年、明治43年の7月1日生まれの先祖が、少年時代よく辮髪の売り子を見ていたとか。辛亥革命が1912年ですから、革命そくざんぎり頭というわけでもなかったのでしょう。「し~なか~さ、やすい」(「やすい」は「や」にアクセントを置く)という売り声だったそうで、私の感触では、日清日露以降急速に「支那」という単語が普及(単語自体は漢訳仏典などでそれ以前からあったが、日本の市井に普及して皆が使いだすのは日清日露以降な感じ)したので、それは合致してます。
辛亥革命前なので、辮髪ばっかり。こんな写真があるんだなあと。


最初、日水を日本と空目ってました。店構えのいかつい大規模中華が、このようなくふうをする例はほかでも見たことあります。で、今はどうか知りませんが、横浜中華街の手書き看板で、「炒反」という字をやたら見た時代があって、なんぼなんでも食扁を省略するのは無茶でっせ、と思ったことがあります。簡体字の<饭>と書くか繁體字の「飯」と書くか逡巡してさらに当て字に走った、わけでもないだろうと(日本なので日本の当用漢字の「飯」と書けばよい)あれはなんでだったんだろう。別の地方の華人が、「そのほうがラクじゃん」と言ってましたが、大陸でもそこまで略してないのに、そこまでやるかな。
以前、湘南台の中華料理店でランチ食べていたら、ふらっと現場のおっちゃんが入ってきて、「今日の日替わりはチンジャオロースーです」「なんだそのチンジャオって」店員が説明出来ないので、私が「ピーマンと肉の細切りを炒めた料理ですよ」「なんでもいいから和食くれ」なぜ中華料理店に入ったのか。けっきょく、ラーメンとかを食べたかったが、今のラーメン屋は分からないのでその店に来た感じで。
決めうちのスタイルで色紙をしあげただけで、ワイングラスと骨付き肉がその日供されたわけでもないだろうと。
三把刀は、菜刀、剃刀、剪刀なので、上海香港など租界仕込みのテーラーが華僑の職業として紹介されています。今気が付きましたが、床屋の展示はなかったです。下は、2012年9月にオダサガと相模大野のあいだで撮った、チャリーチエンというテーラーの看板。
チャリーチエン テーラー - Stantsiya_Iriya
上の店は、撮影当時もうお店としては廃業されてた感じです。その数年前はやってたのですが… 看板自体、現在はすでにありません。米軍住宅の近くでしたから、かつてはそっちにも顧客がいたのかも。
青年会関係は撮影可でしたので撮りました。横浜中華街は、邱永漢が、広東人ばっかりなので、広東街と呼んだ方がいいのではないかと処女エッセー『食は広州にあり』で書いてたくらいですので、粤劇だろうと。一度だけ広州で粤劇見たことありますが、买票のオバチャンに、"你听懂吗?"と言われました。京劇だって听不懂なんだからそこは苦しゅうない、としか言えない。へたすりゃ歌舞伎だって聞き取れない時がある。
三周年紀念専刊
第一期 第一巻
Y.C.Y.C.
1949(民国38)年6月10日刷だとか。青天白日がまぶしい。Y.C.Y.C.が何の略か、何故か書いてあるものが見つけられず。ヨコハマチャイニーズユースクラブ、かなあ。目録みると、神戸中華青年会はKCYCでした。
教育関係は撮影不可でしたが、梁啓超か康有為か章炳麟かどれかがオリジンとして名前出てた気がします。宋教仁ではなかったと思う。制服は当時の漢民族のもので、現在のふたつある中華学校どちらも受け継いでいるとありました。が、女生徒の髪型が旗人のそれに見えて仕方なかった。違うんでしょうけれど、そう見えた。
また、コロナ関係の展示も撮影不許可でした(ヘイト絡みのものもあったので)
展示にはなかったのですが、休校時の対応で、大陸系のほうは、以前からサテライト授業を組み込んでいたからか、はたまた大陸でも一斉にリモート講義に移行していたからか、さほどの混乱もなくスマートにオンライン授業になってた感じで、それに比べ、台湾系というか民國系のほうが手こずってた感じに見えました。当時、日記には書いてませんが、私はときどき中華学校の公式ホームページを覗いてその辺の情報を見さしていただいてて、その辺の告知も日中両文でなされるのですが、苦戦されてた方の、ウェブ上の口上読むだけで、格調ある日本語に私はうならされてました。うまいだけでなく、なんというか、品格があった。
ガリ版刷だとか。
日本語の「謹賀新年」ということは、おひねりを出すお大尽たちは日本の人だったんですね。
包装紙アートの一部。この店と、ナンシー・チー・マー(馬遅伯昌)が三田に開いて皇族も御用達だったという華都(シャトー)飯店との関係はいまだに知りません。あっちこっちに支店というか暖簾分けはあったみたいですが、ここはシャトーと読ませてないので。
華都飯店 (カトハンテン) - 石川町/中華料理 [食べログ]
このトピックを書かないと、横浜中華街は語れないと思いますので、今回はこういうふうに紹介してるんだなと。火付けの真相については朝日文庫『日本の華僑』参照のこと。改訂版が刊行された1991年から三十年。以上