『報復コネクション』"Retaliation Connection" 読了

報復コネクション (集英社): 1989|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

プラ・アキラ・アマロー師の小説。グーグル英訳タイトル。装丁 荒川じんぺい 写真 押原譲 

フィリピンを舞台にした『報復コネクション』小説すばる1989年5月ミステリー特集号掲載に、タイの邦人向け邦人ツアーガイドを主人公にした『メナムの恋歌』小説すばる1988年8月ミステリー特集号掲載と、タイの邦人日本語教師を主人公にした『天使の都』すばる1983年4月号掲載をあわせて、一冊の単行本にした本。カバー写真を撮影したカメラマンは、『東京難民事件』にも名前が見える、カンボジア難民を発端に、いろいろ追いかけてるアマロー師の知人と思います。

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最初の話は、アマロー師もバックパック業界では中堅になってきたということなのか、仁義を切らない横紙破りのぽっと出のええ家(し)のぼんの若手カメラマンが、寿がモデルと思われるハマの外国人労働者棲息地(当時)で、オーバーステイのフィリピン人コミュニティの中心的存在を撮ってデカデカ使ったので、入管がハッと来て強制送還で、いろいろライフプランが狂ったので、報復でころされるという話です。

ネタはよいと思うのですが、毎度のアマロー節の常で、①タイトルがあまりに淡泊で、余韻も空想も何も生まない。②梅沢富美男が「おとことおんな~、あやつりつられ~♫」と歌いだしそうなくらい、邦人なら誰でもフィリピーナの上玉とつきあえるという、円高バブリーな世界観に寸毫の疑いも抱いていないので、今読むと鼻白らむ。

不法就労ということばは、期限切れ滞在(オーヴァーステイ)と、労働出来ないたぐいのヴィザでの就労(観光査証とか学生とか)をいっしょくたにしていて、便利っちゃあ便利ですが、あまり響きはよろしくないです。オーヴァーステイと書きましたが、本来私は、「不法滞在」という言葉が好きでないので。密入国かオーヴァーステイか、どっちかしかないのが普通なので、別に不法滞在と言わなくてもいいだろうという。でもだんだんそういう感性も摩耗というか、人生と別の出来事ダカラーになっています。最近ひょいっと思い出したりした。

最近読んだ青峰社の岡庭昇編集長の『東京難民戦争』という1990年のブックレットで、毎日新聞萩尾信也という記者さんが、マスコミは、ヤクザやブローカーの肖像権には配慮するのに、難民や不法就労者の写真はそのまま使うことが多いと警鐘を鳴らしていた記述そのまんまの話で、覚えとけよワリャ、みたいな感じで、フィリピン人ネットワークを駆使してぬっころされるわけですが、その前に、若王子さん事件の記憶がなまなましいフィリピンで、ぼんやし誘拐されまんねやという展開にもなります。アイエスのように首ちょんぱになる前ですので、身代金で済みます。

最近、トラフィック・チルドレンとか、トラフィッカーということばをまたしても聞き、要するに児童の人身売買なのですが、室橋裕和というかつてのバンコクライターの本でも、カンボジアのそういうところに潜入した話を読み、どうもそれから、東南アジアのこどもの写真を見ること自体にためらったりしてます。本書に出て来る女性は成人女性か、「ょぅι゛ょ」としても自分の娘だったりするので、表紙等で少女の写真を使わなくてもいいかなと思ったり、成人女性を使った大人の東南アジア夜遊びガイドふうの表紙を使うよりは、まだマシなのかなと思ったり。マビニ通りというのでしょうか、現地繁華街のセイロクたちの写真がイチバンはまると思いますが、作者やカメラマンが報復されたらいやなのか、使われてません。台湾映画「青少年哪吒」みたいな感じで、もう少し年が上の、出稼ぎマイルドヤンキーの写真を使えればなあ。

 フィリピンがあぶないので、タイの話はヌルいです。『バンコク楽宮旅社』などに比べると、ヌルさが際立つ。たとえ小説中であっても、将来の不安や、生活のこころもとなさをリアルに描きたくなかったのか。どちらも、邦人が現地でどういう資格で働いてるのかナゾで、そのへんが、上の『東京難民戦争』の倉嶋晃「ロサンゼルスの皿洗いたち 日本人は“不法就労者”だった」の正しい系譜という気がして、海外で底辺労働をするバブル以前以降の日本人を描いたことは、この人の作品のプラスポイントなんだろうなと考えます。

たぶん海外でも、ただの不法就労ならそれほどマークされず、それが政治的な色彩を持つと、取り締まる側がとたんに目の色変える気がしますが、それは中国と日本、あと韓国くらいしか見てないからかな。本書では、フィリピンでは赤軍派も、海外逃亡のヤクザと同じくらいのびのび暮らしてるとあります。当時はそうだったんでしょうかね。

最近やっと、入管法改正とは無関係に主戦場のスリランカ人女性について、DVによる殺害予告(という被害妄想なのか事実なのか)が難民認定の要件たりうるか、という争点を知り、米国では2014年DVで難民認定パスしたとのことで、またアメリカが余計なことをして自由主義社会の同盟国にゆさぶりをカケター(日系米国人の財産没収や強制収用に対する米国政府の謝罪と賠償に引き続き)と過敏に反応して、ありの一穴によるブレイクスルー赦すまじと過剰防衛に走ったのかしらんとも勝手に思ってます。

アマロー師の小説の感想文なので、ひっかけて言うと、西洋の法治、人権理念には、たぶん神の愛、アガペーが根底にあるんじゃないでしょうか。対する東洋、特にわれわれの漢語仏典の仏教では、それは無常という観念でしめくくられてしまうのでないかと。衆度救済もまた、色即是空、空即是色。アガペーは愛ですが、愛憎というくらい愛と憎しみは表裏一体の感情ですので、そりゃやっぱりヒドいことをする時もありますが、無常とはちがう。アマロー師の小乗仏教、もといテラワーダ仏教や、原始仏教は知りませんが、なんとなく本書の、オッサンなにしてんねんという非生産的な日常の羅列を読んでると、そうした余計なことを考えるしかヒマつぶしのほうほがない気がします。前川健一はよくそんな時間のツブしかたを何十年もしたものです。えらいな~。以上