道浦母都子>須賀敦子『ユルスナールの靴』と読んで、何かひとつ、マルグリット・ユルスナールの本を読もうと思い、長編はながいのでかなん、さくっと読める短編にしようと思ってこれを借りました。
現在でも版元在庫ありで入手可能だそうですが、表紙が変わっているようで、私が読んだのは、ブックデザイン=田中一光、カバーデッサン=パブロ・ピカソ、Pablo PICASSO:《FAUNSKOPF》Ⓒby S.P.A.D.E.M. Paris, 1984 の表紙。だいたい私も含む多くの年配者がこの表紙は覚えていて、それはキャッチャー・イン・ザ・ライ、ライ麦畑でつかまえてのホールデンくんをこれで読んでるからのはずです。
1984年初版で、読んだのは1985年の二刷。邦訳した多田智満子(「ちまこ」とお呼びすればいいんでしょうか)サンの「解題」によると、原著は1938年初版ですが、1976年改訂版上梓のさいにかなり手が加えられ、一篇出来がよくないとのことで削除されてるそうです。ちまこサンは削除された作品のタイトルを『クレムリンの囚人』と書いていて、しかしウィキペディア等で見ると、"La Fin de Marko Kraliévitch"『マルコ・クラリエヴィッチの最期』 という題名なので、なんで違うねんと思いました。
ちまこサンは、漢帝国を題材にした冒頭作品に感銘を受けてこの短編集の邦訳を決意したそうですが、その作品のタイトルも意訳していて、原題が "Comment Wang-Fô fut sauvé" ちまこサン自身による直訳『ワン・フォーの救われたる次第』ではなく、『老絵師の行方』という邦題をつけています。漢王朝時代に材を採った作品であるなら、漢字の発音は中古音でしかるべきなので、元代くらいからと推定されるマンダリン・チャイニーズ、北京官話の発音「ワン・フォー」では確かに鼻白みますので、老絵師でぜんぜんいいのですが、なら、文中の「汪仏」、否「汪佛」にわざわざ「ワン・フォー」とルビを振らないでほしいと思いました。興ざめすることおびただしい。
「解題」には、中国文学の専門家に教示を仰ぎ、"Wang" は「王」または「汪」、"Fo" は「仏 / 佛」一択しかないと言われたとあり、後者は確かにそうなのですが、
オーさんは、「王」なら二声、「汪」なら四声と、声調、アクセントがまるで違うので、もう少し選択的に「汪」を選んだ理由を作ってほしかった気もしました。「汪佛」と書いて「おうふつ」とルビを振らなかったのは、そう振ってしまうと、みな、宋代の画家、米芾(べいふつ)を連想してしまい、べいふつはmifuなので
混乱するからだろうかとも妄想しました。真是迷糊了,と書いてから、〈迷糊〉はmifuじゃないよん、mihuだよんと自分で自分に突っ込む年の暮れの夕べ。それでいうと、ワン・フォーは "one for all, all for one" 否、〈彷佛〉 fangfo とかけてるのかしらとも思いますが、まさかまさかです。そんなバナナ。
訳者はまた、『老絵師の行方』と小泉八雲『果心居士』(『日本雑録』所収)が似ていることを指摘していて、共通の下敷き、巷間よく知られた故事があったのではと推測してますが、それがなんだったか探り当てられないでいます。ウィキペディアを見ても、特にその点の遡及はナシ。
Comment Wang-Fô fut sauvé — Wikipédia
そんなことを思いながら、オリエント急行建設期にまで民衆に語り継がれた、オスマントルコ膨張期のバルカン人マルコ・クラリエヴィッチの最後の物語『マルコの微笑』"Le Sourire de Marko"(これがありながら削除された作品も『マルコ・クラリエヴィッチの最後』だとすると、同じ素材を二つの物語に仕立てたとしか)これもトルコに蹂躙された時代のセルビアを舞台にした『死者の乳』"Le Lait de la mort" と読み進み、『源氏の君の最後の恋』"Le Dernier Amour du prince Genghi" の注釈に、「大和の国の七位の貴族スカズ」の意味が分からないので仮に「国司菅津」とした、とか、「長夜の君」というキャラは原典にはいないはず、とかいろいろ書かれていて、それで出だしが「アジアに名をとどろかせた最大の誘惑者たる源氏の君」(頁67)とあるので、日本をテーマにした作品が日本人から見るとこんなんなのだから、セルビアを舞台にした作品も支那を舞台にした作品も本地人から見ると、こんなわけないやんありえへんやんなのではないだろうかと思いました。
『ネーレイデスに恋した男』"L'Homme qui a aimé les Néréides" と『燕の聖母』"Notre-Dame-des-Hirondelles" はともにギリシャの、若い男性を誘惑するエロティック?な女性のゆうれい、ニンフの話。ゆうれいに恋した世間知らずというか、村の分限者の息子のボンボンがやつれて… みたいな定番話と、どんどんニンフを調伏して消滅させてゆく魔界ハンター退魔師の修道士の話。「たち麝香草」と書いて「タイム」とルビを振っています。頁104。ニンフはヒトと共存を許されないが、つばめさんなら… それで、どうくつなどにツバメが巣を作るようになったのね、という因縁説話。『寡婦アフロディシア』 "La Veuve Aphrodissia" もギリシャの話。訳者は解題で、人名はギリシャ語の発音でなくユルスナールの表記に依ったと書いてます。ギリシャ語にしてしまうとアフロディシアはアフロディーテで、不倫の愛欲におぼれて、生まれる子どもも間引いてしまう烈婦にふさわしくナイデスヨということらしいです。
『斬首されたカーリ女神』 "Kâli décapitée" はインドの話で、DIOがジョナサンの体を乗っ取ったのと五十歩百歩、飛んでもハップン歩いて十五分、その手は桑名の焼き蛤でい、みたいな話ですが、ちまこサンによると、1976年の改版で結末が変わっているそうです。邦訳がどちらの結末に沿っているかは書いてないのですが、1976年版で削除された作品は入れてないので、1976年版にそったのではないかと。これも、ウィキペディア読んでも1938年版1976年版で結末が違うことは書かれてません。
さいごの『コルネリウス・ベルクの悲しみ』 "La Tristesse de Cornélius Berg" はスーパーとは何の関係もなく、近世オランダの話です。ちまこサンによると、ガンホー、否、神話時代のワンフォーの話と対をなす、ルネサンス以降のジンブン、人文教養時代の画家の話になるんだとか。神は人物画をヒトに描かせるべきではなかったという後悔がキーワードで、作者がそんなこと考えたのは、回教の神であるアッラーなら人物画、イコンはNGで偶像破壊の対象になることを踏まえてだと思いました。