新井一二三サンの中文書籍《獨立 従一個人旅行開始 背包客的獨行告白》に、《我的世界音乐练武》というタイトルで紹介されている、ホザケン(Ⓒ松田洋子?)のオジサンが1961年、当時26歳で書いた青春エッセイ。私は勝手につけるこの読書感想の英題を、"samurai warrior's quest"(サムライ・ウォリアーズ・クエスト)やら"knight-errantry"(騎士道物語)にしなかったのですが、直感で置いたマーシャル・トレーニングと同じ意味合いで、一二三サンも〈練武〉と漢訳していてくれたので、よかったなと。
カバー イラスト 東 君平 デザイン 本信公久 解説は『お前はただの現在にすぎない』の萩元晴彦 1980年新潮文庫 読んだのは2002年の三十一刷改版
もとは1962年音楽之友社刊 あとがきに、編集の中曾根さん、水野さん、実弟の幹雄さん(ポン)への謝辞。
盟友による解説は「以後、小澤征爾はさまざまな辛酸をなめるのだが」のワンセンテンスで片づけてますが、そのへん(N響とのバトル)は、たっぷり、三島由紀夫の総括つきで、ウィキペディアで読めます。この本は、その前の部分、解説者曰くの「生涯つづく長距離レースの、ほんの最初の数キロを、まるで百メートルランナーのように疾走」で、かつ「比類のない、みずみずしい青春の書」辛酸なめ子五秒前。
テレビ時代をプロデュース 萩元 晴彦|安曇野市ゆかりの先人たち - 安曇野市公式ホームページ
同様に解説者は、本書で著者が自画自賛する、ブザンソン国際コンクール一位、クーセヴィツキー記念賞第八号の実績も、タングルウッドで他の参加者からコンクール荒らし呼ばわりされたことも、「国際的な基準で見るなら、何ほどのこともない」とにべもないです。そのかわり、1979~80年にかけてラジオ番組の取材でインタビューした関係者が口をそろえて、彼の国際的成功をうたぐっていなかったと明言していた点も、きっちり書いています。
私はこの人が大陸、満州生まれであることはなんとなく知っていましたが、あんまり知りませんでした。満州育ちの音楽家というと、朝比奈隆さんのほうを名前として覚えてました。
この本の続編が『棒振り旅がらす』だと勝手に思い込んでましたが、『棒振り旅がらす』は岩城宏之でした。
本書で、小学校低学年時はもう満州でなく、立川で過ごしていたとあり、一気に親近感を持ちました。空襲機銃掃射その他ひととおり三多摩の少年が経験するすべてはきっちりこなしていたそうで(頁15)そうすると、撃ち落されたB29やグラマンのジュラルミンは分厚くて小学生の力では折り曲げられないが、雷電等友軍機のそれはぺこぺこで小学生でも簡単に折り曲げられ、そんなところからも彼我の国力の差を感じていたとか、私が先祖から聞いたのと同じすべてを体験していたんだろうなあと。
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高雄駅の歴史 戦時中の銃撃痕 4番線31、33番柱(ホーム中程階段手前) - Stantsiya_Iriya
その後の成城学園時代は、あまり書いておらず、ウィキペディアで、なんで開成町から成城なんだよう、と思う感じで、父親が歯科医をやっていなかったことも、解説で知るありさまでした。ただ、本書に嬉々として書かれてる、ラグビーとピアノに夢中だったという時点で、文化資本どっから来てるのやろ、とは思いました。特異点としての怪物としか思われない。
頁67には、最初の奥さんになる江戸さんも写ってます。えらい美人やないかいという。ウィキペディアにはヨメの実家からの援助やら実弾射撃やらが書かれてますが、本書にはそんなことは書いてありません。小澤家のふたりの兄や両親へ、手紙で、最初は特に書いてないが、後ろのほうで、百ドル二百ドル送れとか、あれほしいこれほしいとか、たくさん書いているのがおかしくて、これが怪物だからよかったものの、そうでないその他大勢の音楽家きぼん青年だったら、ぜったい実家傾くなと思いました。
パリで最初、薩摩館というところに泊まることにどうのこうのという部分があり、バロン・サツマだろうかと、家業傾く人傾かない人、溶かす人溶かさない人、などなど思いながら読みました。その後、コルビジェが設計したブラジル館に住み、そこにはほかにも各界のユーボーな日本人が住んでるのですが、ブラジルとパリというと、人類教と関係あるのかなあと思いました。
日本と欧米の音楽界の違いについて、本書でもいろいろ若者の実感として比較されてますが、山口文憲サンが活動家としてタイーホ歴がついたので、音大進学をあきらめざるを得なかったという話を、シンクロさせて想起しました。ドイツやアメリカだったらどうだったんでしょう。タングルウッドで、宿泊施設の兄ちゃんが、当時にしてすでに墨が入ってた場面(頁129)なんか、どう考えましょうかという。
頁71。こんな青年。カネがないのに、チロルにスキーに行ったり、カネがないから、ホームシック治療も兼ねて、衣食住がタダの修道院で禁欲的肉体労働奉仕に従事してみたり、よくやるなあという。頁29では、日本の学生時代、試験当日、カンニングしようとして、やっぱり出来なかったという、21世紀の現代からは考えられないうぶい反応を書いてます。そのかわし、スコア読み込みの集中力とその耐久性は、とんでもないです。桐朋学園の恩師の教え方の長所、カラヤンの長所、バーンスタインの長所、ミュンシュという人の長所、よく書くなあすごいなあという。
私のように、クラシックどころかすべての音痴で、路上でパーカッション鳴らしていて、前でしばらく耳を澄ませていた人が、時間の無駄だったと確信するまでの表情の変化をくまなく観察出来るような体験を積んだ人間ですらカラヤンとバーンスタインの名前は知っているわけで、そのふたりに、コンクール一位を勝ち取った上で、どうどうと弟子になる権利を得て弟子になって奥儀を学ぶ?展開は、その辺のジャンプのサクセスまんがのようでした。よくまあ次々に勝つものだ。
指揮バトルというのは、指揮者が天才といっても、どう天才かですので、上のミュンシュという人の奇人ぶりはなんか例外な感じで、要するにオケを、スイミーみたく、聴衆の感動のために、どれだけ有機的機能的にひとつの何かにまとめあげて演奏という固まりをぶつけてこれるか、なのかなあという感じで、掌握力とでもいうべきものの天才が必要なのだと思いました。それまでバラバラの砂粒だった演奏家たちが、瞬時に結合してひとつの有機体となる。私は「オケ老人!」という、杏主演の、ボケ老人のだじゃれみたいな映画しかクラシック映画は見てませんが、東池袋ウエストゲストパークの主人公なら、クラシックマニアなので、もっといろいろ言えると思います。
ミュンシュという人は、力を抜け、力を抜けと、それしか言わなかったそうで、それと、桐朋学園の基礎の教え方、力の抜き方の実践は、小澤さんにおいて、じつに有効に機能したんだなと思います。魔法使いのような指揮(Ⓒホザケンのオジサン)カラヤンは偉大でコワそうでしたが、バーンスタインは、当時ウエストサイドが大ヒット中で、どこ行ってもトゥナイ、トゥナイ、が流れていたとかで、そんな人間の組うちにいるという(ニューヨークフィル)とんでもないと思いました。カラヤンバーンスタイン、カラヤンバーンスタイン。とんでもない。
著者には第二京浜国道が印象的らしく、ライン川を見てもアメリカの地方都市のメインストリートを見ても、第二京浜国道のようだと形容しています。頁124ほか。世界のオザワ物語をクラファンで低予算でてきとうに映画化する人は、米国の場面をぜんぶ第二京浜国道沿いの古い建物背景で撮るといいと思います。富士重工からスポンサードとしてラビット一台せしめて、通関等こなして、マルセイユからパリまでとパリ市内縦横無尽、ラビット乗り回しているようですが、あんまし書いてません。宣伝になると口説き落とされた富士重工かわいそう。
頁136
(略)そのナイーブで若々しい音の美しさがひたひたとぼくの心にとけ込んで、まるで今までのぼく自身がどこかに消えてなくなるようだった。その瞬間、劇場の中には、ぼくもモーツァルトもミュンシュも何もなく、ただ美しさだけが充満していた。ぼくはその後も時々その時の感動を思い出しては楽しんだものだ。
感動を思いだして楽しむとか、胃が何個もあって反芻するみたいなウルトラC、やれるものなのかなあ。そういう人が26歳で書いた本です。読書中、私の頭の中には、ホザケンのほうの、「愛し愛されて生きるのさ」とか、「ラブリラブリデイ、息を切らすぅ」とかがAKB48の歌のタイトルのようにヘビーローテーションで流れてました。オジサン生き方そのまんまですね。とんでもない。以上