フィリピン短編小説珠玉選(1)寺見元恵編訳(フィリピン双書7)(東南アジアブックス)"Isang seleksyon ng mga maikling kwentong Filipino. " (1) Inedit at isinalin ni Terami Motoe (Philippine serye 7) (Southeast Asia Books) 読了

フィリピンの小説を読もうかと思って図書館で検索して、1978年11月の初版と刊行は古いんですが、例の井村文化事業社発行勁草書房発売の東南アジアブックスの中のこれが出ましたので、読んでみました。グーグル翻訳でタガログ語と英語に題名を訳しましたが、両方つけると字数制限を越えるので、英語は下に置いておきます。

"Selection of the best Philippine short stories." (1) (translated and edited by Motoe Terami) (Philippines Series 7) (Southeast Asia Books)

訳者の人はすごいんですよ。日本語とタガログ語両方であとがきを書いてる。異文化交流がらみでいろんな言語の邦訳を読みましたが、邦人で相手国のことばであとがきまで書く人はなかなかいない。平勢隆郎サンみたいに、中国の中国史と真っ向から違う説を官話で論文書いて発表するような話はまた別で。

Pagkilala May mga kaibigan at kakilala akong Pilipino na nagsabing bago ako pumunta sa Pilipinas na hindi ko na raw dapat matutuhan ang Tagalog. Mas maiintindihan daw ako ng mga Pilipino sa wikang Ingles. Ngunit ang paniwala nilang iyong at naging paniwala ko rin ay napabulaanan nang dumating ako sa Pilipinas. Mapa- tunayan kong ilang porsiyento lamang ng mamamayang Pilipino ang nakaintindi ng Ingles ang elite o pribi- lehiyadong iilan lamang. Nag-aral ako ng Tagalog o Pilpino at binuksan ng wikang iyon ang isang bagong daigdig sa akin ang higit na pagkaunawa sa mga tao at sistemang Pilipino. Limang taon na akong naninirahan dito at hanggang ngayon ay patuloy at patuloy ko pang natutuklasan ang tila walang-pagkasaid na yaman ng kuluturang Pilipino. Ipinasiya kong ipunin at isalin ang labintatlong maikling kuwentong nasa katipunang ito upang ipakita sa mam- babasang Hapones kahit bahagya nga lamang-ang larawan ng bansang ito sa paningin ng mga manunulat na Pilipino. Hindi lubhang naging mahirap ang pagpili at Pagsasalin dahil sa napakalaking tulong na ipinagkaloob sa akin ng mga kaibigang Pilipino, gaya nina Prop. Lilia Antonio, Prop. Patricia M. Cruz, Dr. Bienvenido Lum- bera, Prop. Nicanor Tiongson, Prop. Soledad Reyes, G. Valerio Nofuente at marami pang iba. Higit sa lahat, gusto kong pasalamatan ang mga manunulat na walang- damot na nagkaloob ng karapatan upang magamit ang

mga akda nilang nasa kasipunang ito. Taos-puso ring pasasalamat kay Gng. Atang de la Rama, maybahay ng yumaong si Ka Amado Hernandez at kay G. Jose Lacaba (kapatid) at Gng. E. Lacaba, (balo ni G. F. Lacaba). Inaabot ko rin ang pasasalamat kay G. Juji Imura, tagapaglathala ng aklat na ito. Motoe Terami-Wada Setyembre 1978 Maynila

訳者さんは、タガログ語では、邦人同士で私が初めて見るダブルネーム(クルム伊達公子とか蒋宋美齢とか、そういうの)を使ってるんですが、日本語のほうでは寺見オンリーです。で、それはともかく、人名などの固有名詞の位置などから、日本語とタガログ語で同じことは言っていまいと思った通り、21世紀文明のツール、グーグル翻訳にかけると、日本語にあるタガログ文学概論をタガログ語では削って(削らなくてもいいのに)タガログ語では、英語でいいのになんでタガログ語なんか学ぶんだといわれたが、五年マニラに住み続けて、改めてタガログ語を学んでよかったと日々うれしい、というオベッカを書いてました。なんというか、それを邦人読者に向けて発信するのでなく、タガログ語識字者に向けて発信するあたり、複雑だなあとチョット思います。

(あとがきタガログ語のグーグル翻訳日本語)

了承
 私がフィリピンに来る前に、タガログ語を学ぶべきではないと言っていたフィリピン人の友人や知人がいます。彼は、フィリピン人は英語の方が私のことを理解できると言いました。しかし、それが私の信念であるという彼らの信念は、私がフィリピンに来たときに反証されました。英語を理解できるのはフィリピン国民の数パーセントだけ、エリートか特権階級だけであることは確認できます。私はタガログ語かフィリピン語を勉強しましたが、その言語によってフィリピンの人々とその制度をより深く理解するための新しい世界が開かれました。
 私はここに 5 年間住んでいますが、今までフィリピン文化の計り知れない豊かさを発見し続けています。私は、日本の読者にフィリピン人作家の目から見たこの国の姿を少なくとも部分的に示すために、この小説集にある 13 の短編小説を集めて翻訳することにしました。 Prop さんなどのフィリピン人の友人たちが多大な協力をしてくれたおかげで、選択と翻訳はそれほど難しくありませんでした。リリア・アントニオ、プロップ。パトリシア・M・クルーズ博士。ビアンヴェニド・ルンベラ、Prop.ニカノール・ティオンソン、プロップ。ソレダッド・レイエス氏、ヴァレリオ・ノフエンテ氏、その他多数。何よりも、このコレクションに 224 点の作品を使用する権利を寛大に与えてくださった作家の皆様に感謝したいと思います。夫人に心から感謝します。故カ・アマド・ヘルナンデス氏の妻、アタン・デ・ラ・ラマ氏とホセ・ラカバ氏(弟)夫妻。 E.ラカバ氏(F.ラカバ氏の未亡人)。また、本書の発行者である井村重二氏に感謝いたします。
寺見和田基恵

1978年9月
マニラ

せっかくなので、日本語版あとがきもグーグルでタガログ語に翻訳してみました。

Afterword
Ang mga taong kasalukuyang nakikibahagi sa mga malikhaing aktibidad gamit ang Tagalog (mas tiyak, Filipino) ay maaaring hatiin sa tatlong grupo. Mula bago ang digmaan hanggang sa panahon ng digmaan, nagawa ni Groove na mapanatili ang pagmamalaki sa kanyang katutubong wika kahit na ito ay tinuturuan ng Ingles, at pagkatapos ng digmaan ay muli itong tinangay ng kulturang Amerikano, na nakaligtas sa panahon kung saan ang tanging lugar na ito ay inilathala ay nasa mga pahina ng mga nobela sa mga sikat na magasin B. Batongbakar, H. Okambo, M. Bineda, E. Matotte et al.). Ang grupong ito (E. Reyes, R. Seacut, D. Mirasol, atbp.) ay nagpalaganap ng mga gawaing pampanitikan na nagbigay-liwanag sa mga suliraning kinakaharap ng lipunang Pilipino bilang bahagi ng nasyonalismo na kalaunan ay umusbong mula sa anti-Amerikano. Noong 1970s, may mga grupo (tulad ng R. Lee, W. Virtusio, at E. LaCava) na nagpilit na baguhin ang status quo na naisip ng mga nabanggit na grupo.

Ang unang pangkat ay kasama sa Mga Nobelang Tagalog (1886-1948), na isinalin nina Teodoro Agoncillo at Michiko Yamashita (bagama't binalak itong isama sa seryeng ito, hindi pa ito nailalathala), kaya hindi ito tatalakayin dito. Ang koleksyong ito ay pangunahing nakatuon sa natitirang dalawang grupo, ngunit dahil ito rin ay nagsisilbing panimula sa lipunang Pilipino sa pamamagitan ng panitikan sa mga mambabasang Hapones, kabilang dito ang mga akda ng mga taong hindi kabilang sa alinmang grupo (L. Gonzalez, D. Hilbero). kasama ang mga gawa ni Sa proseso ng pag-edit, nakatanggap kami ng mahalagang payo mula sa mga propesor ng Faculty of Letters at kanilang mga eksperto sa Unibersidad ng Pilipinas at Ateneo University. Nais kong ipahayag ang aking taos-pusong pasasalamat sa mga propesor na sina Lilia Antonio, Patritzya Cruz, Pienpenido Lumpera, Nicanor Chongson, at Soledad Reyes, at kay G. Valerio Nofuente sa paghihirap na ipakilala ang may-akda. Nais ko ring pasalamatan ang mga may-akda at ang kanilang mga pamilya na naglaan ng oras sa kanilang abalang mga iskedyul upang sagutin ang mga panayam, at si Mr. Ryoichi Kikutoshi, na nagbasa ng mga salin sa Hapon at tumulong sa akin na mapabuti ang aking mahihirap na Hapon pagkakataon upang ipahayag ang aking pasasalamat. Sa wakas, nais kong muling ipahayag ang aking paggalang at pasasalamat kay G. Juji Imura, na nagpakita ng malalim na interes at pag-unawa sa kultura ng Pilipinas at nagplanong maglathala ng mga salin ng panitikang Tagalog.

Bilang editor, mas magiging masaya ako kung ang antolohiyang ito ay hindi lamang makatutulong sa pag-unawa sa lipunan ng Pilipinas, kundi maging isang pagkakataon para sa pagpapalitan ng mga literary figure ng Hapon at Filipino. Umaasa din ako na sa malapit na hinaharap, mas marami pang panitikan sa Pilipinas ang ipakikilala ng mga iskolar sa panitikan ng Hapon.
Setyembre 1978 Motoe Terami

なみなみならぬ熱意だと思います。おそろしいことに、寺見サンは、初出一覧をキッチリ巻末に記載しています。

で、自ら各作品の解説するのみならず、各作家に音波や書簡でインタビュー(故人の場合は未亡人に)して、それを一挙邦文掲載しているのです。本書所収の小説一篇しか小説を書いていない人もいて、言われるまで自分がそれを書いたことを忘れてた、なんて直球で返されることもあるのですが、それにしてもすごい熱量です。あちらの人に序文を書いてもらうのはふつうですが、各話扉絵のイラストがあり、それもエドアラゴンという、たぶんあちらの人が描いてます。がんばった。

そんなにがんばったのですが、地元の図書館本は、少なくともバーコード貸し出しが始まるまで、一度も貸し出されてませんでした。

さすがに私が貸し出し第一号ということはないと思うんですが、不憫なことで。しかし、よくその状況で放出しないでいてくれたと、歴代司書の方々に感謝します。

どうもそうなってる理由の一つには、東南アジアブックスのフィリピン双書の敷居の高さがあると私は思ってます。タイのほうは、こむずかしい本も邦訳するいっぽう、『東北タイの子』やら『タイからの手紙』やら『中国じいさんと生きる』やら『田舎の教師』やら『妖魔』『蝶と花』『生みすてられた子どもたち』『妻喰い男』等々、肩のこらない文学がこれでもかと邦訳されてるんですよね。しかしフィリピンのほうは、なんだろうなあ、頭でっかちというか、やーらかい文学を読みたいのに、まず孫文三民主義毛沢東選集読みなはれと押し付けられる感じで、そりゃ読まないよ、です。魯迅の故郷を読ませろよ、ルントウやチャーを読みたいんだよ、という人に、まあまあ、つって康有為読ませても仕方ない。押しつけたい人があちらのヘッドを牛耳ってるのかもしれませんが、そんなのなあ。鶴見良行の名前があっても、それはそれ、これはこれです。

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いちおう版は重ねてるようで、版元公式によると本書は定価税込¥2,531(但し品切再版未定)で、図書館の初版本は定価¥980です。

上の訳者あとがきにある、<テオドロ・アゴンシリョ、山下美知子訳の「タガログ小説集(一八八六-一九四八年)」(本叢書に収録の予定なるも未刊)>は珠玉選(2)で後で(1979年10月)出ますが、本書のような各話の扉絵や著者インタビューまではないです。初出一覧はあります。これはけっこうすごいことです… でも、先に邦訳が完了していたほうの、あちらの人がセレクトチョイスしたアンソロジーの刊行時期が未定といわれると、やっぱあれかなあ、おぜぜの面で折り合いがついてないのかなあ、なんて思います。むかし、中国が今のようにGDP世界二位になる前のことですが、ある邦書の学術書の出版で、中国の、文物出版社だったかの本の、青銅器の図版をひとつ使用したいということで中方に申し入れをしたら、三十万日元を要求されたので、日方の著者の人が、文物出版社のその本の著者の人がそんなこと言うかなあなんて言いながら、即座に拒否って、その図版を使わないことにしましたが、その手の話があって出版が遅れてもそれはおかしくないこと。

なぜ読まれないかの理由のふたつめは、まあなんつーか、実態としての日菲交流史が、本書の1970年代から、誰もがよく知る方向に舵を切られたので、それでこういうお上品なものを必要とする階層がフィリピン以外に行っちゃったんじゃないですかね。タイでも今世紀初頭には同じ潮流が追い付いて、前川健一サンみたいな路上考現学タイバージョンみたいなお上品なことやってる人は、すべてはカネと色の二本立て的「Gダイアリー」の猛威にあっけなく駆逐された。フィリピンはタレントビザでも覚せい剤でもヤクザとの付き合いが多い国というイメージになりましたし、ほかの東南アジアに比べると、拳銃などの凶悪犯罪も比較的多い。アテンドがあるか、英語ぺらぺらとかでないと行かないよと。コラソン・アキノ夫人のパートナーで暗殺されたベニグノ・アキノサンなんて石原慎太郎サンのマブダチだったわけですが(ただし参議院一回生の石原サンにアキノサンのほうから近づいた)スペインやアメリカ、日本へつぎつぎレコンキスタした時代が終わり、じゃぱゆきさんの時代が始まった頃に、価値の転換があり、紹介を望まれる文化も変わったのでしょうという。

下は寺見サンが1981年に訳しためこんの本。

本の紹介 マニラ 光る爪

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マニラ・光る爪 - Wikipedia

下は寺見サンが1990年に段々社のアジア女性作家シリーズで訳した本。

レイナ川の家

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フィリピンの小説の邦訳はそんな多くないのか、めこんからはニック・ホアキンという作家さんとシオニル・ホセという作家さんのが出てますが、いずれも英語作家です。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

上記は私も読みましたが、政情不安な故国を離れて香港で暮らす上流社会人を描いた小説でした。おもしろいのは、香港のカソリック修道院に、フィリピン人と同じくらいベトナム人がいて、中国人がそんないないところ。

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大同文化国際基金から出てるフィリピンの本も一冊だけ。スリランカの三冊もそうとう少ないと思うのですが、これだけ交流がある国(在日外国人数では中韓に続くくらいたくさん来てますよね、米軍除いた話で)なのに一冊しかないというのは、さらにふしぎな話。原書はタガログ語

鰐の涙|アジアの現代文芸の翻訳出版|翻訳出版|事業紹介 | 公益財団法人大同生命国際文化基金

フィリピンは、過去においてスペイン、アメリカ、日本といった外国の支配を受けた結果、アジアの諸国のなかでも、特異の文化を持つといわれています。

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以下、各短編の感想。

かまどの煙』"Umuusok na ang Kalanan"

アルフォンソ・スヘコ Alfonso Sujeco(ウィキペディアなし)

初出⇒ Liwayway Hunyo 25, 1962

全国高校生用国語教科書採用。

フィリピン文学が読まれない三つ目の理由は、アルゲダスのいないペルー文学だからだと思います。私が本書の短編を次々読んで感じたこと。ラティフンディウム(大土地所有制)のコンキスタドーレス(征服者)たちに対し、蹂躙され性的なもの含めた暴力を振るわれ続ける被支配階級に対するまなざしが、おかしい。アルゲダスのように支配される階級に本来属すはずが被支配階級に共感しエンパシーの中で自殺するような存在が、いない。ペルーのスペイン系はケチュア語に対しアルゲダスがいたが、フィリピンのスペイン系にはタガログ語に対し誰がいる。あるいはかつていたそうした存在が、スペイン語から英語へパラダイムシフトするとともに、忘れ去られて消えていったのか。

山上憶良貧窮問答歌の逆で、この話は、収穫期を迎えてやっとかまどに煙がのぼったよ、コメを炊いて食べれるよ、ヤッター! てな話。解説によると、ルソン中部が舞台で、小作農は二、三ヘクタールを耕して、地主に三割から四割をおさめ、前借分を返済するといくらも余剰が残らない苦しい生活を送っているが、「地主に対して同情まで示している」し「汗と労働の結晶である米を四割近く差し出すことに何の疑問も感じていない」のだとか。さすが教科書に載る小説。フィリピンは一貫して西側ですが、わりと検閲とか自主規制があるみたいで、思うように書けない社会ではあるようです。でもそれに抵抗して撃ち殺される文人の話も聞かないしな。

頁200 解説 訳者による著者インタビュー

(略)朝日の出る前、だいたい四時頃には起き出し、生姜茶サラバットか米を煎って黒くし煮だしたものをコーヒがわりに飲みます。それから昨夜の夕食の残りがあればそれで腹ごしらえし、田に水牛カラバオを連れてゆきます。田でたにしや淡水魚を探したり鳥を捕って、だいたい八時頃家に帰り、とれたもので朝食を済ませ、再び田に戻り草をとったりして手入をします。さてお昼どきになりますと、家の遠い人は家人がお弁当をもってきてくれますが、それをとり午後三時頃迄休憩します。何しろ午後はうだるような暑さでまったくホセ・リサールが言うように「シベリアの厳冬の寒さより苛酷なフィリピンの夏の暑さ」で、木陰で休む以外手がないですよ。ところが昼さがり休んでいる農民を見て怠け者だなんてきめつけるのは、彼らの生活を知らない人の言うことです。しかし一生県命に働いても、災害や増える一方の借金をかかえては、主人公イペのように充分に食べられない農民が、ヌエバ・エシハやパンパンガには多勢いますよ。政府は目下農地改革に力を入れているようですが、その効果はまだのようです。小作の生活は以前(戒厳令以前)とほとんど変りないですよ。これはあまり大きな声じゃ言えませんが(笑)……。

パンパンガは『フィリピンパブ嬢の社会学』登場人物の故郷ですね。

バンタヤンの村祭りフィエス』"Nagpista aa Bantayan"

デメトリオ・ヒルベロ Demetrio Hilbero(ウイキペディアなし)

初出⇒Liwayway, Marso 25, 1962

1962年度リワイワイ短編小説賞第一位。

そんなカツカツ暮らしの農民なのに、フィエスタではすべてを燃やし尽くす感じで浪費三昧蕩尽三昧で、翌日我に返ってもゴハンのおかずも何もないという。ポトラッチさいこう!みたいな話。

作者はライター兼弁護士として活躍した人で、小説はインタビュー時点でこれ一篇しか書かなかったとか。1956年、ホセ・リサール*1の著作をすべての学校で学習することを義務付けた法が施行されたとき、カトリック教会は猛反発したそうで、それに対し、ホセ・リサールとカソリック教会のありかたには何ら矛盾点はないと主張した小冊子をヒルベロサンは配布したとか。

例の孵化前のアヒルの卵が出ますが、寺見サンはバロットと訳さずバルートと訳しています。発音に地方差があるということなのか。

農民セロ』"Tata Selo" ロヘリオ・シーカット Rogelio Sikat*2

初出⇒Quezonian, Hulyo 1962. 1962年度バランカ賞第二位。

借金のカタに田畑を地主にとられ、奉公に差し出した娘までやられた小作農セロが地主を殺害し、地元警察でボコボコにされる話。

頁203 解説 訳者による作者インタビュー

「農夫セロ」の方は、それまで書かれてきた農村をテーマにした作品に対抗する意味で書きました。つまりそれらのほとんどが、田園調の、のどかな生活として、農村風景が描かれてきた。マカリオ・ピネダの作品を御覧なさい。あれは一九三〇年代に書かれたのだが、当時ルソン島中部を中心に農民暴動が盛んに勃発していた頃だ。それなのに、彼の話には平和で楽しい農村が描かれている。私がまだ高校生の時ですが、田舎で農民が一人、地主との衝突で殺された事件がありました。彼の死体--ふしくれだった手、日に焼けて真黒くなった傷だらけの足--が私の心に焼きつきました。

ドミニコ会経営大学の文学コンテストに応募して、暴力的で救いがないという理由で落選、リワイワイにも掲載を見送られ、ケソン大学の文学雑誌でやっと日の目を見た作品。バランカ賞二位になったことを知ったリワイワイから、どうしてうちに持ってこなかったのかと電話があったとか。

ミルクの中のはえ』"Langaw sa Isang Basong Gatas" アマド・ヘルナンデス Amado V. Hernandez(大同生命『鰐の涙』と同じ作者)

初出⇒mula sa aklat na Panata sa Kalayaan ni ka Amado, Pinamatnugutan ni A. C. Cruz 1970.

 これがいちばん私の感性に合った話でした。中野重治『待ってろ極道地主めら』に似た味わい、というか、研ぐのが鎌かボロ刀*3かの違いだけ。ギシギシギシ。アギナルドに敗北したボニファシオ*4とともにカティプナン*5として戦った誇り高き一族の末裔が、法知識の無知ゆえに先祖代々の土地を追われ、復讐を誓う(誓うところまででおしまい)

フィリピンの古典文学の名前がいろいろ出ます。主人公が家族に朗読して聞かせる。

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下はホセ・リサールの著作。勁草書房から邦訳が出てます。これも主人公が家族に朗読して聞かせる。

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寺見サンのフィリピン華人に向けられるまなざしは複雑なようで、この話の「中国人」には「昔と違って今では中国人といえば即金持ちという印象がある」という注がついていて、その意味はこの後の話まで追って行かないと分かりません。しかし眠くなったのでここで寝ます。

おやすみなさい。

【後報】

レチョンの頭』"Isang Ulo ng Litson"

アマド・ヘルナンデス Amado V. Hernandez
mula sa nobelang Luha ng Buwaya ni A. V. Hernandez, inilahala sa Taliba mula noong Hulyo 4 hang-gang hulyo 27, 1972. 

びんぼうで要領の悪い主人公(若夫婦の男のほう)が、ほかの村の青年に連れられてお屋敷のパーティーに手伝いのふりして入り込み、仲間はお目当てのタダメシをガツガツくってスコッチやら手にして悠々と引き上げようというその時ガードマンに見つかって追いかけられ、森の中に逃げた仲間は追いかけるのがめんどいわけですが、要領の悪い主人公はスクォーター(スラムが形成される「溝」)からその辺の小屋に逃げ込んだのでわけなく見つけられ、窃盗罪で警察につかまる。警察官も、捕まえたくないんだけどと言い訳しながら捕まえる。

読んでいて、フィリピンがぐずでうすのろがウケる社会とも思えず、はしこくうまいことやる人物に喝采を送る小説にもなっておらず、教訓と正直者が馬鹿を見る悲哀への共感しかないのはなんでだとはなはだ不満でした。こういうふうに書かないと検閲に引っかかる強権政治の開発独裁だったのでしょうか。民主主義の国なのに。あるいは、カトリシズムというのはこういうふうに民衆の牙を抜くのかしらとも思いました。

貧乏世帯なので新芽をゆがいたものばっかりオカズになるとあり、新芽はさつまいもの葉のことが多いが、カンコン、ニガウリ、サヨテ・トマトなどの若葉も食べると訳注にあり、カンコンはたしか空芯菜、エンサイだったなと思い出しました。庄野護サンの本のインドネシアの箇所でカンクンと書いてあった。こんなところにもインドネシアとフィリピンの両マレー世界の接点が。サヨテははやと瓜で、トマトとのあいだがナカグロでつながってるのは誤植かも。

大同生命からゆいいつフィリピンの翻訳が出てるアマド・ヘルナンデスサンはすでに逝去されており、未亡人へのインタビューが解説に載ってます。ワイフの人は歌手で自分の仕事が忙しく、生前はそんなハズの書き物を読んだり感心したりしてなかったとか。戦中は夫妻ふたりとも抗日運動に関与し、彼女はスマンというちまきのような餅菓子を売って歩いて生活費にあてていたそうですが、その中に米軍レイテ上陸情報などを書いた紙をひそませてゲリラ同士の通信の仲立ちをするクーリエの役も務めていたそうです。憲兵隊に見とがめられて全身調べられた時も、スマンだけは調べられず解放され、ぶじ情報を届けることが出来たとか。

en.wikipedia.org

そういう話をする前段に、戦前、日本に行ったこともあって、当時日本に亡命していた反スペイン革命の闘士アルテミオ・リカルテ将軍に歌を聴かせたこともあると懐かしく話す。

ja.wikipedia.org

この将軍のウィキペディアの日本語版は日の丸といっしょに写った写真を使ってますが、英語版もタガログ語版も別の写真を使ってます。スペイン語版はありません。

スズコ・オガワ』"Suzuko Ogawa"

レオニラ・ゴンザレス Leonila Gonzalesウィキペディアなし
Liwayway, Agosto 7, 1961.

これだけ作者が女性。解説では、男性作家全員の紹介のあと紹介されてます。なんでかは分かりません。

戦後、戦勝国フィリピンから日本に行ったインテリ青年の息子が邦人と結ばれて帰ってくるのを、複雑な思いで受け止める母の話です。扉絵のイラストは、義母の手に口づけのあいさつする息子の嫁、スズコ。一生懸命タガログ語を勉強して、タガログ語でコミュニケートしようとしてます。これ、あるのかなあと思いました。英語ぺらぺらが交際前提だったりするのが実情じゃないかしらと。いいモチーフ、いいテーマのはずなのに、どうも描写のいちいちが「ありえない」と感じられてしまうのが、それほど私が感情移入出来ない理由のひとつかもしれません。このイラストじたいが、「アジア人同士がアッパッパで欧米人みたいに手の甲にキスしたってしかたないだろう」との思いに自分をいざなう。十字架をバックに、けっこうな嫁いびりをしそうなオバサン像。スズコサンは「スー」と呼ばれます。

ニグロのインペン』"Si Impeng Negro"

ロヘリオ・シーカット Rogelio Sikat
Liwayway, Mayo 7 1962.
1961年バランカ賞第二位
黒人の血を引いた子どもがガキ大将に目をつけられ、執拗にいじめられる。のみならずなりわいにしている共同水道場からの水汲み仕事の代行も邪魔され水を何度もこぼされぶちまけられ、仏の顔も三度までデスヨ~と猛反撃、したら勝ってしまって、自分の実力に気づく、という話。

これも教養小説の域を出てないというか、地位が逆転してからのストーリーがだいじと思いますし、拳闘の世界に生きてみたらどうかと思わせる描写もあるのに、なぜそこまでえがかないのかと。外国人の血統の子がブチ切れて制圧して仕切れるようになるなんて話は、米軍軍属の子でも中国残留孤児二世でもあったので、世にあまねく話(かなしいかもしれませんが)で、ダルビッシュの弟はワルビッシュだし、最近読んだフィフィサンの本でも、実姉がアラブ人の外見であるがゆえにいじめられブチ切れて反撃して地域で恐れられる存在になった旨書いてあった(中学生のフィフィサンはその姉に「ヤソキーなんてだせえんだよ、はじくせえことして恥かく妹の気持ちにもなれ」と回し蹴りして決死のタイマンを挑む、らしい)これがタイだと、『生みすてられた子どもたち』という、白人混血の姉と黒人混血の妹の待遇格差をこれでもかこれでもかと上下巻えんえんと描くとんでもないのが邦訳されてますので、どうしても比較してしまう。フィリピンでそこまで書けないのは、やはり大土地所有階級のスペイン層が解体されず、隠然とした勢力を保っていて、彼らに遠慮してるからではないかとかんぐってしまいます。そういう意味で、この国にはアルゲダスがいない。

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勁草書房の内容紹介もえげつない『生みすてられた子どもたち』 ほんと、えげつない。

この話の水汲みといい、『レチョンの頭』に出てくる、洗濯物を外干しすると毛虫がつくので、それを取る仕事とか、どうしてこんな何のスキルも磨けない仕事が社会的に認知されてしまうのかと読んでいて不思議でした。貨幣経済の使い方が間違っている。フィリピンて仏教遺跡もないし、明朝の頃にはすでにムスリム国家が朝貢してたらしいのでスペイン征服以前にはそれなりにイスラムが浸透してたのでしょうが、ひょっとしたら回教の前はヒンディーで、カースト的な階層区分が社会文化の底流に流れているのかしらなんて、てきとうな妄想すら抱いてしまいました。

注を見ると、白人との混血はアメリカーノの略の「カノ」と呼ばれるとあります。スペイン人混血はメスティーソと呼んでいるそうで、呼び分けていると。ジャピーノ。

頁184 注68 臭い中国人=Intsik na beho ベホは「臭い」というバホという言葉から来た。中国人は汚い、臭いという定評がある。子供らに中国人経営の店に使いにやる時、「そこのベホの所に行っておいで」という。

こういう注があるのがすごい。ハングルで中国人をさす、テノムみたいな呼び名。シンクロニシティー。袋井浜松の中国系高校中退水死事件を思い出してしまいました。

浜名湖高校生遺体 容疑者の母「息子は絶対にやらない」|日テレNEWS NNN

17岁中国籍高中生在日本遇害破案,五名嫌犯被捕,一名来自菲律宾(18岁)和一名巴西青少年(17岁)……

この話にハロハロが出てきて、ウベを「芋の一種」としてます。

ja.wikipedia.org

ダイジョと言われても分からない。ムサラキイモ、ベニイモというと、何となく合ってるのか、サツマイモの同種と混同してしまうからよくないのか。

』"Bigas"

アンドレス・C・クルス Andres C. Cruz ⇒ウィキペディアなし
Liwayway, Octubre 2, 1961.

ユーモラスな扉絵なのでユーモラスな話かと思うと(日々食べるコメがなくて借りて炊く話ばっかりですし)倉庫にくず米を拾いに行ってガードマンに射殺されるパートナーと、その寡婦の話。

そんなことで警告発砲でなくすぐ射殺までされる社会というイメージがあんまりないのですが、そうなんでしょうか。さっぱりさっぱり。ジーザス・クライスト!という時のフィリピンの言い方が、スース・マリヤ・セップという、イエスとマリアとヨセフの三人並べて言う言い方で、そこでヨセフの名も出すのが土着化ということなのかと思いました。父権がするっと入る。

『フィリピンパブ嬢の社会学』など読んでると、フィリピンの親戚にさいげんもなくたかられる描写があり、では現地の分限者はどうやってびんぼうな縁戚を切るのかと思ってましたら、自分は助けないけど「神のお恵みがきっとあるよ」とか「神様がお恵みをほどこしてくださるよ」とか「マリアさまのご加護があなたにあるように、私も祈ってる」みたいな切り方をすると本書のどこかにあって、それがこの話と思いましたが、読み返してもそんな描写はなかった。こういう時神さまを持ち出すと、有効なのかなあ。どうだろう。

「溝」スクォーターというスラムの表現があまりピンとこないので、画像検索しましたが、クォーターばかり出てくるので、ちょっと困ったです。

Squatting in the Philippines - Wikipedia

英語と中文しかウィキペディアがなく、タガログ語がないのが、見栄というかメンツというか。反意語は「奥の方」を意味する「ロオバン」”looban”というそうで、中国語の老板から来てるのかといっしゅん思いましたが、なんのエビデンスも見つけられず。

フィリピンは洗濯物を洗濯業の人に渡すときリストをつけて出して、返却時照らし合わせて照合するとか。照らし合わせて照合するって、同語反復か。

無邪気』"Di-Maabot ng Kawalang Malay"

エドガルド・M・レイエス Edgardo M. Reyes
Quezonian, Mayo 30, 1960.
1959年度バランカ賞第三位
作者は『マニラ 光る爪』を書いた人。ウィキペディアあり(タガログ語はなし)

Edgardo M. Reyes - Wikipedia

訳者解説によると、この作家の小説にはよくパンシット・ビーフンが出てくるそうで、庶民にとってはごちそうだからとしています。死刑囚が執行を控えて最後の晩餐で食べたいと希望する料理には、レチョンと並んで必ずパンシット・ビーフンが入っているそうです。私も食べてみたいのですが、フィリピン料理屋では二人前からのオーダーなので、まだ食べれてません。

扉絵で手づかみでパンシットを食べている娘が、夫をなくした母親がからだを売って自分と病気のきょうだいをやしなっていることに気づかないのが「むじゃき」という話。身も蓋もない。

tl.wikipedia.org

この絵ではバナナの葉にパンシットを載せていて、そういうものかと思いました。近所の子どもにみせびらかそうと娘はパンシットを持って表を走り出すのですが、すぐこけてパンシットはぜんぶスラムのどろどろの路上でだめになります。ひどい話。『はじめてのおつかい』でコケる場面とはだいぶちがう。

作者インタビューでは、なぜか全然関係ない、『マニラ 光る爪』で中国人を悪役に仕立てたことで「レイエスは反中」とのレッテルを張られたことに対する弁明を載せてます。

頁210 解説 レイエスインタビュー

「マニラ」を見た人達によって「レイエスは反中国人だ」とレッテルを貼られてしまいました。それはどんでもない誤解で私の妻は中国人です。あの話で中国人を悪人に仕立てたのは、私達フィリピン人が長い間抱いている外国人植民者に対する反感の現われを、中国人を通して表わしたまでです。フィリピンにいる外国人で一番多いのが中国人、そこでつい彼らを悪玉にしてしまうのです。ほかのタガログ語小説を御覧なさい、中国人を悪い奴にしたのが多いでしょう。戦後十年ほどは日本人が小説の悪役を一手に引き受けていた感がありましたが、最近の経済進出にともなってリバイバルになるかもしれませんよ(笑)

賄賂由来などで社会インフラが整備されなかったので工場進出とかがなく、タレント輸出中心になったので、リバイバルがどうなったか分かりません。

製材所の犬たち』"Mga Aso sa Lagarian"

ドミナドール・ミラソール Dominador Mirasol
Quezonian, Pebrero 15, 1963.
1963年バランカ賞第一位
製材所で働く者たちが野良犬をとって精がつくと食べる話。と、並行して、無理して働いてた老人が倒れる話。監督官がリム・パックという名前の中国人で、「シコトヤメテモラヨ」「オマエモウムリタ」「ヨル、ハタラクノレモ、イイカイ?」「オマエ、ヨクハタラクヤツタカラナァ」などと言います。

寺見サンは解説で「タガログ文学には、中国人が貪欲な容赦のない商人としてよく登場する」「無一文の移民から身を起し、「臭い、汚い中国人」と見下げられながらも、その商才と団結力により今日のフィリピン経済界に進出してきた彼らを、フィリピン人は決して好意的な目では見ていない」と書いてます。好意的に見なくてもいいので一目置かないといけないと私は思うのですが、どうでしょうか。感情的に見下すだけでなく、ストロングポイントをきちんと分析しないと。敵を知り己を知れば百戦して危うからずと言いますが、タガログ語にも入ってほしい。ボクシング強いんだから、感覚としては分かってるんだと思うんですが。

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この話は手配師というか労務というかの中抜き、ピンハネが描かれていると訳者解説にありますが、港湾労働者に現存してるとその時点でいわれても、小泉家発祥としか。沖仲仕

マリア』"Maria, Ang Inyong Anak"

ウィルフレッド・ヴィルトゥシオ Wilfredo Virtusio ⇒ウィキペディアなし
Dawn, Mayo 7 at 14, 1971.
1970年度バランカ賞(この年に限りランクなし)
夫を労働争議で暗殺された寡婦が、反マルコスを警戒する当局に密告者として雇われるが、そうまでして手塩にかけて育てた一人息子が学生運動に走って、というありがちロマン。

頁121

「お前の父さんはねえ、立派な人だったよ。(略)中国人の工場主っていうのは、父さんたち労働者をまるで奴隷のように取り扱ってねえ。そこでとうとうみんなストライキに立ち上がったんだよ。私たち家族まで飢えに苦しんだけど、それにも負けず、ほら『労働者のケンリ』とかいうのかい、それを勝ちとるため父さんらは頑張った。ところがある日、その中国人は父さんをこっそり呼び出し、車にのせると高級レストランに連れて行った。テーブルをさしはさんで坐り、しばらくすると中国人は札束をひとつとり出し渡そうとした。それで父さんの人格を買収しようってわけだ。父さんは怒って立ち上がると、別れの挨拶もせず出て行ってしまった。父さんは自分一人だけのことを考えるような人じゃない。いつも仲間に思いやりのある人でねえ。しばらくたったある日、例の中国人が今度は暴力を使っておどしに出た。ストライキ中にピケライン破りを送りこんだ。その直後だよ、溝川に浮んでいる父さんの死体が発見されたのは……」

こういう小説なのですが、作者インタビューで執筆の動機を聞かれた作家は、カトリック教会に対する不満が執筆の動機だったと熱く語り出します。主人公がマリアで息子の名前がヘスース(ジーザス)なので、そっちに行くのも分かるのですが、私は読んでてめんくらいました。作家の妹さんが尼僧で、教団がネグロス島の砂糖農園で働く季節労働者(サカダ)の支援をしているが、そのやり方に賛同出来ず、教団を出たとか。たぶん解放の神学とかそういうものに、フィリピンも洗礼を受けたと思うので、それかと思うのですが、はっきりおもてには書かれてない気がします。

インタビューで作家は、終戦後処刑された日本軍人の墓地の掃除や、墓参に訪れる邦人を案内するのが、隣接した刑務所の模範囚や刑の軽い囚人だったというエピソードを小説に書こうと思ってるが、まだ時期でないので寝かせているとしています。寺見さんによれば、それのひとつが"Bilango"という作品で、山下美知子訳『囚人』1977年アジアレビュー掲載、だそうです。

タタン、フレディ、セニョン爺さん その他の登場人物』"Si Tatang, si Freddie, si Tandang Snyong at iba pang mga Tauhan ng Aking Kywento"

リカルド・リー Recardo Lee
Asia Leader Magazine, October. 8, 1971.

作家は、名前で分かるように父親が中国人移民(福建)ビコール出身。

独立党結社(ラピアン・マラヤ)虐殺事件を描いた小説。反マルコスの旗手として、土俗的な信仰を背景に勢力を伸ばした指導者が弾圧の後精神病院に収容され、そこでほかの患者の手にかかって殺されるという、フィリピン版スーパーシチズンのような人物を、喫茶店でうだうだしながら学生運動というか小説を書かない作家志望青年たちがゴドーを待ちながらみたいにだらだら会話する話。

Valentin de los Santos - Wikipedia

Lapiang Malaya - Wikipedia, ang malayang ensiklopedya

こういう、マラヤの名前を冠した運動というか新興宗教みたいなものが戦後フィリピンにあって、マルコスに弾圧されたんだなと。

Valentin de los Santos - Wikipedia

Lapiang Malaya - Wikipedia, ang malayang ensiklopedya

www.youtube.com

tl.wikipedia.org

父親は彼の誕生前に死亡、母親も出産で死亡。彼は母の姉にあたる伯母に育てられ、幼いころから伯母の雑貨店で店番をして、酒を買いに来る連中を見ていたそうです。

頁216 解説 著者インタビュー

「中国人が、英文学を勉強して、タガログ語で物を書く」なんてよく友人にからかわれます。と言ってもそれは単なる冗談で、父親似の中国人的風貌にもかかわらず友人らは僕をフィリピン人として受け入れてくれています。多分僕が金持ちの中国人でないからでしょう(笑)。

すべての森から"Sa Bawat Gubat
エマヌエル・ラカバ Emmanuel Lacaba
Sagisag Disyembre, 1975.

最後は日本軍の拷問の話。

なぜその時代を選んだかについて、作家はインタビューで特に理由はない、日本軍の拷問は有名だったからとしています。発表当時のフィリピンでは、警察のことを「ポンジャップ」とか「ハポン」という、日本を指すことばを隠語にして呼んでいたとか。

主人公が口を割らないので、妊娠中の新妻もメチャクチャな目に遭います。

解説で寺見サンは本作を「単に日本軍人及び親日家の残忍性と反日ゲリラの不屈の精神を描いたものではない」としており、作家が1974年新人民軍兵士としてミンダナオ島で戦死したこととの関連に触れています。それはちょっとうがった見方かなと思うのですが、作家さんがインタビューでは、当局の監視下で発言を監視されているので、その件はノーコメントなどと言ったりしているので、説得力はそれなりにあります。フィリピンは西側で、ビートルズがコンサートやるような国ですが、開発独裁たいへんだ。

寺見さんは生前に作家にインタビューし、没後に夫人に再度インタビューしています。ほんとに本書は埋もれた労作だと思います。

Emmanuel Lacaba - Wikipedia

フクハラバップならぬ、戦中のフィリピン日本協力組織はマカピリというそうで、ウィキペディアはありますが、タガログ語のそれはありません。

ja.wikipedia.org

マカピリは正式名称が"Makabayang katipunan ng mga Pilipino"で、カティプナンの名を受け継いでいるので、それで「K」の字を冠しているようです。

tl.wikipedia.org

カティプナンは正式名称を"Kataas-taasang, Kagalang-galangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan"というそうで、なので略称や徽章がケーケーケーです。まぎらわしい。秘密結社という点以外クー・クラックス・クランとは何の共通点もない。クー・クラックス・クランはオモテの組織デスヨ、公認されてると言われたら、さいごの一点すら共通点はない。

やっと書き終えます。たいして書くことはないのに。以上

(翌日)