『ペルーから日本へのデカセギ30年史』「第1章 帰還ー栃木県真岡市でのデカセギ三〇年史」パート3 ハイメ・タカシ・タカハシ "Peruanos en Japón, pasado y presente" 'Capítulo 1 El retorno: Dekasegi en Moka' parte 3 by Jaime Takashi Takahashi 読了

https://impact-shuppankai.com/html/upload/save_image/0201153522_65bb3baaa7d78.jpg第一章を二つに切ったうちの二つ目で書き切れなかったので、三つ目。

6 コミュニケーションの技術 6. Tecnología de la comunicación

この段はすべて、「時代が変わって、すべてよくなった」というオチです。ラテンぽいなあと思う箇所もありました。

(1) 電話 Teléfono

デカセギ当初はテレカの公衆電話一択時代で、国際電話がかけられる公衆電話は市の中心部にしかなく、夜十一時以降でないと料金が安くならないので、毎週末夜、そこには長い行列が見られ、自分の番になるとみな最低でも30分は話したということです。

当然偽造テレカに関する記述も見られます。ヤクザが作ってイラン人やパキスタン人が流通させていたと書いてますが、イラン人は自分たちでも作ってたと思うし、私はイスラエル人が作ってるのを見たことがあるので、ことはそうたんじゅんでもないと思います。日本語版ではヤクザは説明なしに「ヤクザ」ですが、スペイン語版では"yakuza (mafia japonesa)"とカッコで注釈をつけてます。もう英語化した単語なので、スペイン語圏でも知られてるかと思うと、そうでもないのか、スペイン語圏が広すぎるのか。偽造テレカについても、日本語ではもう「偽造テレカ」という簡単な名称が一般化しているのですが、スペイン語ではそうでもなかったのか、あるいは日本語をそのまま借用して使っていて世界中のスペイン語圏に発信する本書ではそぐわないと判断したのか、"como las tarjetas pre pago fraudulentas"(詐欺的なプリペイドカードのようなもの:グーグル翻訳)と長く書いています。私はスペイン語が分からないので、助詞なども切らずに続けているので長いのかもしれませんが。

もうひとつ方法が紹介されていて、日本語では「クランキング」スペイン語では"pinchado"と、こちらはどちらも専門用語そのままを出してます。もちろん回線をショートさせるという具体的な内容も両言語で説明しています。そして、もちろん、現在ではそんなことは技術的に不可能なことも明記。

頁26

後にNTTはこの犯罪行為を防ぐために、ケーブルを金属製のチューブで覆った。

página 330(021)

Posteriormente la compañía telefónica NTT, con la finalidad de evitar este acto delincuencial recubrió el cable revestido de un tubo metálico.

ペルー料理店やブラジル料理店で食事していると、技術者、工場でのそれはもちろん、電気工事や水道配管など、さまざまな技術を学んで資格をとって、中には独立して一国一城のあるじとして自営でやってる人たちが、仲間との歓談にはスペイン語、仕事関係の電話がかかってくると即座に流暢な日本語に切り替えて納期や施主との会話を続ける様子を見ることもあります。そうなるまでには相応の苦労と辛酸があったでしょうし、語学面技術習得面でそうなれなかった人もまたいるわけですが、本書を読んで随所にその積み重ね、研鑽とそのプライドを感じることは出来ます。技術的タームは日西両言語でサクッと語ってくるここもその一部。

33年経って、今ではスマホやアプリによって、すべてが(ムーチャスつきで)よくなったとしています。

página 330(021)

Pasados 33 años desde nuestra primera llegada, muchas cosas han cambiado para bien; ahora tenemos internet, teléfonos inteligentes, aplicaciones que nos permiten hablar y transmitir datos, fotos, vídeos, hacer teleconferencia, ver telenovelas, películas, series y mucho más, y todo esto gratuitamente.

最後の一行、「すべてが無料なのだ」(頁27)"gratuitamente"は、えーギガでみんな苦労してるじゃんと思いました。

(2) ペルーのテレビへの郷愁 Nostalgia de la TV peruana

カズの父親がかつてブラジルで最初に始めた商売が日本のテレビ番組などをVHSテープにダビングして売ったり貸したりだったように、タイのバンコクでは日本のトレンディードラマが放送されるや否やそのVHSテープが空輸ダビングされ、ヤクザがスクーターで各地の駐在妻に宅配していたように、在日ペルー人社会でもペルーの番組に対する需要があり、ペルーからVHSテープを送ってもらってダビングレンタルする「オイシイ」副業が工場労働の傍ら行われていたとか。その後、各地にある南米人向けの商店もそのビジネスに乗り出し、VHSからVCD、DVDに代わってレンタルから販売へと形式も変遷し、インターネットの登場後、そのビジネスは月額サブスクの有料チャンネルにその座を譲り、ケーブルテレビもその座をスマホ等の「配信」に譲ったとあります。ストリーミングは「すべて完全に無料」"Todo esto totalmente gratuito"と言いながら、「必要であれば月額料金を払う」"si lo desea, pagando una cuota mensual para obtener exclusividades."とし、こうオトしてます。

頁28

(略)いくつかのテレビ番組やペルーの映画を見るだけなら、YouTubeを探すだけで十分だ。

página 329(022)

(omitido) Para ver algunos programas de la televisión y películas peruanas hoy en día, sólo basta buscarlos en YouTube.

(3) 紙の地図からナビへ De mapas en papel a los navegadores

ここは一見万国共通で、以前は道路マップの本を助手席やダッシュボードに置いて知らないところに移動したが、今はGPS搭載のカーナビでほんとうに簡単安全に目的地に行くことが出来るようになった、とあり、紙数の関係からか、あまり多くの行数を割いてないのですが、私としては、(a)マップルなどのロードマップは、英文併記でないと中国人以外の外国人には使えないはずなので、どこまでそういうものがあったのか、どこがよかったのか、知りたかったです。(b) 交通標識。国際免許持って運転してるわけなので、当然知ってるという前提なのでしょうが、日本の標識のここが分かりにくいとか、こう誤読して笑い話になるところが違反切符切られてトホホ案件であった、とかも知りたかった。(c) カーナビを褒めるのは自動車部品工場の多い栃木県ですので当然でありマストなのですが、最初にちょろっと「携帯電話のアプリ」”aplicaciones para teléfonos celulares”の名前を出しているのはいただけないと思いました。最近では研究が進んで、ゼンリンとの協業関係を解消してからグーグルマップにミスが多発するようになったとの検証もなされているようですので、アプリを出すなら日本の道路事情を反映していない(一通を逆走指示迄はしないと思うんですが、使ったことがないので分かりません。高架と下の道の判別が出来ない、自転車にも高速乗れと指示するなどは分かります)アプリのマイナス点も指摘したら、アホのごとくスマホを見ながら車を運転してる外国人にももっとカーナビが売れると思います。でもスペイン語版はGPSにわざわざ"Sistema de Posicionamiento Global"página 328(023))と注を付けてる位ですので、そこまで書くと字数オーバーなのかもしれません。

(4)「使い捨て」に残る私たちの最初の思い出 Las "tsukaisute" guardan nuestros primeros recuerdos

どきっとするタイトルですが、これは「写ルンです」などの話。それ以外のメーカに配慮して商品名を出さないのかと思いましたが、それ以外の製品やメーカが思いつかないので(検索するとAIがコダックとライカの製品を挙げてきましたが、覚えがありません)わざとこういう言い方をしてるのかもしれません。あるいは、ほんとうに在日ペルー人は「写ルンです」とは呼んでなかったのかも。

ja.wikipedia.org

es.wikipedia.org

外国人にもこれは大人気だったが、工場は厳しくてなかなか中の写真は撮れなかったとあり、そそそれは苛酷な労働現場を隠蔽するためデスカ? と思ったおっちょこちょいのために、産業スパイ"espionaje industrial"を警戒していたからと理由を書いてます。そして、〆は下記のようにcoolです。

頁29

そんな訳でその頃の仕事中の写真はそんなにない。

página 328(023)

Es la razón por la cual no abundan fotos de aquella época, dentro del centro de labores.

7 社会統合—経済危機後の真岡 7. Moka despurés de la crisis económica

リーマンショックで多くの外国人労働者が失職し、帰国するものと引き続き日本に住み続けるものにわかれ、後者には一定の覚悟を決めたものが多かった、という総括的記述は類例書を読むと必ず出て来ます。この章はおもに栃木県真岡について書かれてますので、真岡での具体的な事例ということになります。

(1) サンバチーム・絆 Bloco de samba "Kizuna"

ブラジル人のサンバ隊がいかにしてそれ以外の南米人の興味も引き、巻き込んで真岡に定着したかの記録。

(2)「アマウタ」スペイン語教室 "Amauta" Taller de Español

「アマウタ」という名前がケチュア語と聞いて、まず驚きました。以前アルゲダスの小説*1ケチュア語部分を愛川の日系ペルー人に見てもらったことがあるのですが、リマ生まれなのでケチュア語は分からないということで、そんなもんかと思っていたからです。アルゲダスを生んだ土地、アレキパ出身のペルー人のお店もあるのですが、ケチュア語が出来るか聞いたことはありません。

Amauta - Wikipedia, la enciclopedia libre

ただ、検索すると、「アマウタ」という単語はその単語だけ突出して南米では知られたことばになっているようですので(あたかも日本でアイヌ語の「コタン」や「カムイ」がそれだけ突出して知られているが如く)これひとつの例をもって、真岡のペルー人にはインカ帝国の子孫の先住民が多いのではなどと判断したら天下の暴論になるようです。

最初ここを読んだとき、子弟に日本語を教える教室かと早合点しましたが、タイトルを見てませんでした。日本育ちの子どもたち向けのスペイン語教室です。デカセギ向けの日本語教室は頁16にすでに出て来ていました。

頁16 (6)バブル経済の終焉

(略)当然、仕事が決まるまで派遣会社が住居と食事(一日二回の軽食)の責任を持った。毎日希望者に向けて送迎付きの日本語教室も開かれた。しかし、全員がこの機会を利用したわけではなく、勉強しない言い訳をする人は、いつもいた。

página 338(013)  Fin de la Burbuja Economia

(omitido) Como era lógico, la empresa se hacía responsable del alojamiento y la alimentación (2 refrigerios al día) hasta conseguirles trabajo. Mientras eso sucedía, se implementaron las clases diarias de idioma japonés, con movilidad a su disposición. Sin embargo, no todos aprovecharon estas clases, siempre había alguna excusa para no estudiar.

子どもたちの教育に話を戻すと、二言語話者は、どちらも中途半端にならないかという難しい問題を常に孕んでいて、補助教育は本来それを防ぐためにあるものですが、ウェブ上のレポートで中京圏のブラジル人についての現状、アジェンダに関する問題指摘を見たことがある人も少なくないと思います。要するにバイリンガルマンセー、同化イカンゴレンの理想論一辺倒で、居住国で学歴や技術取得によって高収入を狙うという地に足のついた個々の戦術がとれてない恐れがあるのではないかという指摘。真岡のそれは当初のスペイン語教育から発展し、教室主導で市の教育委員会宇都宮大学HANDSプロジェクトの支援で、夏休みのあいだ大学生による数回の補講、学習サポート活動が行われているとあります。この十年で883人の生徒と183人の大学生がこの教室に通ったとか。

página 327(024) 

Si bien es cierto que los alumnos extranjeros utilizan el japonés con sus compañeros de clase, su nivel de compresión del idioma no es igual que el de los estudiantes locales. puesto que ellos desde que nacieron han escuchado de sus padres el japonés y los ayudan con las tareas escolares. En cambio, los niños extranjeros no tienen esa ventaja y poco a poco se van retrasando a medida que progresan en su formación escolar. enar a un  Por esta razón, por iniciativa de Amauta Taller de español, el apoyo del Comité Educativo de Moka y la Universidad de Utsunomiya, durante las vacaciones de verano (agosto) se dictan entre 4 o 5 clases de nivelación, en donde los niños traen las tareas escolares que no comprenden y los estudiantes de la universidad, de la especialidad de Estudios Internacionales del Proyecto Hands los ayudan a resolverlos. En estos 10 años de actividad, han pasado por estas aulas 883 estudiantes y 183 alumnos universitarios.

この活動は私に、神奈川県でも行われていた同種の活動を思い起こさせます。神奈川県のそれは、80年代のインドシナ難民定住に端を発しており、いちょう団地やカラバオなどの名称が聞こえ、横国の学生や卒業生OBなどを巻き込んで進んでいき、残留孤児含む中国人、南米人と、その時々の外国人在住者子弟や、中津などほかの外国人居住工業団地にもその対象を広げ、拡大していったはずです。私が勝手に思うのは、大学生はヒマなんだからどんどんこういうところで手伝ってほしい、くらいかな。猫の手も借りたいところは借りたいだろうから。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

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(3) ペルーのフォルクローレ民族音楽・舞踊)Folclore Peruano

(1) のブラジルサンバへの参加だけでなく、ペルー固有の音楽やフォルクローレを広める団体が設立され、フードフェスなどで踊りを披露しているという記事。この箇所には特にないのですが、フライングで、第七章にあった興味深い記述を引用しておきます。

第七章 父と日本の夢 オチャンテ・カルロス

9  日本でペルーの音楽活動が始まる

頁176

 残念ながら、フォルクローレなどのアンデス音楽は、特に首都のリマでは度々見下されることもあり、その文化的価値が認識されるようになったのはつい最近のことである。

Capítulo 7 Mi Padre y el Suño Japones  Carlos Ochante

9  Música peruana en Japon

página 197(154) 

Lamentablemente la música andina siempre ha sido menospreciada en el Perú y en especial la capital, y no es sino hasta poco, que su valor cultural esta siendo reconocido. 

第五章と第七章の作者はともにオチャンテという姓で、きょうだいなのかな? たぶんアンデスの姓です。先住民の姓。

(4) 東日本大震災 Terremoto Higashi Nihon

確か午後三時前の発生から二時間くらい経った午後五時くらいの外電(BBCでしたか)では、「最も大きな規模の地震が最もよく準備された国民を襲った」という見出しで、首都東京などの整然とした対応ぶりを称賛する記事が書かれていたものです。ところが夜になるにしたがって、東北沿岸を襲った想像を超える規模の津波が動画で配信され始め、翌日か翌々日になると、電車が動かない中緊急出勤した職場で、ゼネラル・エレクトリックが建設して東芝が引き継いで管理している原子力発電所で、冷却用電源が失われたがゆえの炉心融解が始まり、刻一刻と、それを防ぐ効果的な手段が一切ない状況で進行し続けるさまがライブ映像で視聴出来るようになりました。参ったなとしか言いようがないのですが、真岡のペルー人社会を統括する真岡市国際交流協会でもこの時の記録を、いいも悪いも赤裸々に、下記のような真摯に編んでいます。

頁32

① 二〇一〇年九月、実践的な「外国籍市民対象救急法講習会」をスペイン語ポルトガル語の通訳付きで行った。
② 二〇一二年一月 災害時外国人サポートボランティア養成講座」を開催し、二〇名の通訳が参加した。そこで、神戸と新地質のさいの、ボランティア通訳の機能と役割が分析された。 
③ 二〇一一年二月には五ヶ国語の「ハザードマップ」が作られ、一八五一の外国人世帯に配布された。 
 読者諸氏がお分かりのように、私たちはしっかり備えていたと思っていた。ひとたび大きな驚きが収まると、市内の一二の避難所を即座に決めて、「災害対策センター」が設置された。そこに協会は「災害時マニュアル」のファイルを手に外国人住民を助けるために入った。ファイルには避難所に置くお知らせや標識があったが、そこには原本しかなく、実際には一二組が必要だった。しかし、コピー機、コンピュータ、プリンターは動かなかった。停電していたのだ! 電気が復旧するまでの二四時間、私たちは何もできなかった。許しがたい大失態だったが、私たちは学んだ! 一時的に手書きで貼り紙を作ったのである。

página 325(026) 

1) En el mes de setiembre del 2010 se dictó el curso práctico de "primeros auxilios y resucitación cardiopulmonar" con traducción en portugués y español. 
2) En el mes de enero 2011 se realizó el seminario "Asistencia a los extranjeros en caso de catástrofe" con la participación de 20 traductores. Se analizaron los terremotos de Kobe y Niigata, las funciones y el desempeño de los traductores voluntarios. 
3) Mas aún en febrero se confeccionó y distribuyó a 1851 hogares extranjeros el "Mapa de prevención de desastres" en 5 idiomas. 
Como verán amigo/a lector/a, estábamos bien preparados, (eso pensábamos). Una vez pasado el gran susto, se implementó el "Centro de operaciones contra desastres" designando inmediatamente 12 refugios en toda la ciudad. Y es allí donde la Asociación entraba en acción para asistir a los residentes extranjeros; tomamos el file de "procedimientos en caso de desastres", donde teníamos los avisos y señalizaciones para colocarlos en los centros de refugio, pero teníamos sólo las originales, necesitábamos 12 juegos, más la copiadora, las computadoras e impresoras no funcionaban, ¡no había fluido eléctrico! No pudimos hacer nada hasta 24 horas después en que regreso el fluido eléctrico. Una gran falla, ¡imperdonable!, pero ¡APRENDIMOS! Provisionalmente se confeccionaron carteles manualmente.

当初の混乱が収まったあと、外国人がボランティア業務に発揮した積極性は「市当局には嬉しい驚きだった」"sorprendiendo gratamente a las autoridades municipales"とか。

Imagen 9: Cartel improvisado de REFUGIO hecho a mano y el preparado con anterioridad Imagen 7: Vacaciones Útiles: Amauta taller de español & Proyecto HANDS de la Universidad de Utsunomiya

ところどころ上のように写真が挿入されており、タテ書きとヨコ書きのそれぞれに対応したレイアウトなので、日本語版とスペイン語版では、挿入個所も大きさも違います。でもキャプションはおんなし。日本語は「図9:間に合わせで作った避難所の案内」「図7:夏休み特別教室:アマウタスペイン語教室&宇都宮大学HANDSプロジェクト」です。

8 日系人は時代遅れ? 8. Los Nikkei ¿Pasados de moda?

(1) 移民と南米人の新しい法律 La nueva ley de inmigración y los latinos

何度かの法改正の内容が紹介されます。後発のニューカマーである東南アジアからの技能実習生との競争に南米人はさらされると。「技能実習生は日系人よりも給料が安い若者で、簡単に入れ替える事が出来る」"Para los dekasegi latinoamericanos esto podría ser nefasto, pues la competencia por un puesto de trabajo se les hace más defícil, ya que los praticantes laborales son jóvenes cuyo  salario es menor que el de los Nikkei y tranquilamente pueden ser reemplazados."その一方で、特定技能二号に移行出来れば、永住権が取れる可能性もあり、家族の帯同も可能。"incluso obtener la residencia permanente y llamar a su familia." (página 323(028) ⇒"llamar"は「電話」の意味だそうで、そうだとすると誤訳かも。「帯同する」をグーグル翻訳すると"acompañar"

手に職をつけた日系人の職人さんが、店内ではくだけた感じでスペイン語やポ語で話しもって、取引先や顧客との通話ではバリバリの流暢な日本語を使い分ける光景を何度も見てますので、そうなるまでの血のにじむような努力と、そうはなれなかった無数の人たちに思いを馳せると、以前も日記に書きました。

(2) それで、私たちはどうするのか ¿Entonces, qué hacemos?

頁35  página 323(028) 

 どこまで私たちは働き、貢献することが許されるのだろうか。(略)¿Trabajar y aportar hasta donde nos permitan? (omitido) 日本では少なくとも犯罪の心配をしなくてもいい。それに、家族たちは抵当権付き融資である「フラット三五」を利用して家を買えるほどの一定の確かな経済的安定を手に入れ、子どもたちは専門学校で勉強しているか、大学に入学した。Sin embargo, la delincuencia y la inestabilidad política son factores que desaniman a cualquier persona que está acostumbrada a vivir en Japón, en donde al menos no nos preocupamos de la delincuencia. De otro lado, las familias han alcanzado cierta esatbilidad económica, al punto de comprar un bien inmueble, aprovechando crédito hipotecario "Flat 35" y los hijos están estudiando una carreras técnicas o ingresaron a la universidad.

 三三年間で私たちはここまでたどり着いた。(略)llegados a este punto, 33 años después, (omitido) 定年(略)la edad de jubilación (omitido) 年金(略)pensión (omitido)

 残念なことだが、時間は戻せない。(略)Lamentablemente el tiempo no perdona. (omitido) そんな訳で私たちは日本に残っていた。Y así nos fuimos quedando.

外国人コミュニティが真岡市の経済発展に積極的に寄与し、近隣住民の行事に参加したいと願っていることは明らかだった。もう通りすがりの人間ではなく、社会に溶け込みたいと思っているが、日本人側にも外国人側にも機会がなかった。そこで(略)Quedó demostrado que la comunidad extranjera contribuye activamente al desarrollo económico de la ciudad y desea participar en las actividades vecinales, ya no es la persona que está de paso; quiere integrase a la sociedad, pero no ha habido oportunidad, tanto del lado de los japoneses como de los extranjeros. Es por eso que en la (omitido)

「私たちはここまで来た」みたいなスペイン語ではないかったので、訳者の河崎佳代サンのパワーだと思います。スペイン語だと、時間は戻せないでなく、「許してくれない」らしいし。訳してるうちに、感情が溢れたんだろうと思いました。"Y así nos fuimos quedando."(そうして私たちは留まりました←グーグル翻訳)という簡潔な文章が好き。

最後に、日本生まれもしくは日本育ちのニセイサンセイたちの未来に触れ、ラテンコミュニティ躍進の鍵は彼らが握っているみたく、〆てます。ここに2022年のミスユニバース日本代表と、「当選しなかったが、参議院候補になったペルー人の政治家」"Hay hasta un político de madre peruana que postuló al Senado, mas no fue elegido"がちろっと書かれます。在日ペルー人の有名人一覧は第2章で、フライングなのですが、気持ちは分かります。この政治家の人は、前回は何故か私の地元が選挙区で(今回はちがう)しかも前回はウイグル人のグリスタン・エズズサンも新党くにもりから同じ選挙区で出ていて、エズズ"Ezuzu(Eziz=ئەزىز)"とヘスス"Hesusu (Jesús)"が同じ選挙区とかどういう冗談だよと思ってました。今回は国民民主旋風のおかげで比例復活したわけで、これがホントの

Resurrección de Jesús

と巷の話題になっているとかいないとか。

es.wikipedia.org

www.asahi.com

¡Muchas felicidades!…で、いいのかな?以上

インパクト出版会 / ペルーから日本へのデカセギ30年史 Peruanos en Japón, pasado y presente