『農民哀史から六十年』 (岩波新書 黄版 340)読了

農民哀史から六十年 (岩波新書 黄版 340)

農民哀史から六十年 (岩波新書 黄版 340)

近所の古本屋の百円均一本でしたが、めっぽう面白かった。
いきおいあまって、舞台となった鶴瀬まで行ってしまいました。

うだつの凄く上がったビルがありました。

詳細は後報にて。眠いです。

【後報】
1960年代の新書かと思ったら、1986年出版。
亡くなられる三年前、東西冷戦は崩壊していませんが、
ゴルバチョフグラスノスチが始まった頃かな?
自伝ではないと書いておられますが、
間違いなく自伝、かつ後世に書き遺しておきたかったことの一部でしょう。
セクトとかから一線を画していたんでしょうかね、
Wikipediaに項目のない方です。

埼玉ゆかりの偉人/検索結果(詳細)/渋谷 定輔
http://www.pref.saitama.lg.jp/site/ijindatabase/syosai-352.html

ベレー帽の人はなぜ絶滅したんでしょうかね。
鳥打帽と山高帽ばかり。
http://cogolo_faces.s3.amazonaws.com/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%AE%9A%E8%BC%94/main.200.jpg
図書館に飾ってある写真だと、もう少しふっくらしています。
http://www.lib.fujimi.saitama.jp/l_images/sibzenke.jpg
許可とって図書館で写真撮らしてもらえばよかったかな。
でもこんなブログアップが目的じゃねえ。


南畑近くの田園。既に田植えが始まっていましたが、ここは水を入れてならしているところ。

なぜかネギ坊主が大量に。種でも取るんでしょうかね。
(2013/5/19)
【後報】

頁33
今は「俺たちは土百姓小作人だ!」と叫ぶわけにはいかない。そうでしょ、現に私のかつての同志だった小作人たちは、東京近郊の地所持ちになって「土地が札束に見える」と言っている。もちろん、農業経営の前途に不安を抱きながらですが。要するに彼は昔の彼ならず、そういう私も変わった。このなまなましい現実に目をつぶって、過去の苦労だけを語るのは全くいやなんです。

蛭や肥かつぎなどの苦労話のなかで、適切に現状も語ることが出来る。
このへんの冷静なバランス感覚が素晴らしいと思いましたね。
工場でボール盤に指をやられた『女工哀史』の作者を見舞う場面もそうです。

頁127
「俺は、わが家の痩せ牛をムチ打つとき、人間として耐えられない気がする。機械を使った方がいいと思っていた。でも、機械がそんな魔物なら、俺の機械に対する考え方を変えなくちゃいけないかな」
「いや、それは資本家や地主制度のもとでの機械や動物にたいする考え方じゃないかな。われわれ直接働くものが主人公になれば、われわれの機械観や動物観は変わってくると思う」
 細井君は当時そう言い切ったんです。半世紀たった現在、この問題はどう解決されたんだろうか。

解決されてないですよね。
『農作業事故は〝なぜ”どうして起きるのか −事故を防ぐノウハウと補償対策−』*1
広告でも、農作業事故死の件数が建設業事故死を上回った、とあるのが現代、二十一世紀。
下は、高校生の作文紹介。

頁228
 今までの僕は、農民はいつも土臭くて汚く泥まみれになって働くから、ばかにしていた。ところが一年生の劇のシナリオの中で、農民達の叫び声みたいなものを感じ、“農地を耕す者がいなければ人々は生きていけない。農民とは誇るべき人々だ”と気づいた。でも、今の農家の人達を見て不思議に思うことがある。昔の南畑の農民は銅く光る太い腕を誇っていた。なのに、機械化し、大きな家と車を持ち、一見裕福そうにみえる今の農民は、そのための借金に苦しみ、さらに昔の小作争議を“恥ずかしいことだ”と隠したがる。(『歴史地理教育』一九八四年十一月号)

こまっしゃくれた適当な作文ですが、まあ、なんで小作争議隠すんすかね。

頁191
俺は田んぼの泥から生まれた人間で、ひたすら生きようとして農民運動にはいっていった。そこに何んの虚飾もなかった。ところが戦後はどうか?厳しく問い詰めてみると、ウソや妥協を合理化する方便がサビのように身に付いてしまって、自分を「何ものである」かのように思っていないか。……

頁26
 あれは一九二五(大正十四)年の九月だったと思うが、東京でコレラが発生した。その屎尿が毎日こっちへ送られてくるんだからたまらない。近くの村にコレラ患者が出て、屎尿が原因じゃないかと大騒ぎになって、一日つぶして予防注射をしましたよ。私の村のような都市近郊型農村というものは、都市と農村の矛盾が端的に噴き出すんだ、その条件は今でも同じです。

頁73
 私が会合に出掛けて活動するのがおやじの気にいらないのには参ったよ。
――たとい小作米をまけて貰ったって、得をするのは自分一人じゃあんめいし、そんなことでひまを欠いたり、心配するよりゃあ、縄の一房でもよけいに綯った方がよっぽどましだ
なんて始終いわれた。二斗引きが決まれば、どうせ誰でも一斉にまけて貰えるという計算がおやじにはあるんだ。

頁83
 大正後期から昭和初期にかけての埼玉県の農民運動の場合、自然発生的な小作争議が多いんですが、地主や警察の挑発に乗らぬ限りほとんど暴力化したことはなかった。ところが、いわゆる「近代的」な農民組合運動になって、その中へ思想的な意識(短絡的な意味での目的意識)を持って経験のないインテリや青年が指導する場合、率直に言って頭の方が粘りより先に進んで、「やっつけてしまえ」という傾向があった。

頁85
 さて、私は一九二四(大正十三)年に日農関東同盟にはいったものの、その中心部をなす早稲田の建設者同盟や東京帝大の新人会の一部の人たちには必ずしも馴染めなかった。一部の人びとに政治屋風の臭みがあったり、大先生みたいで俺たち小作人なんか対等に見ない指導者意識を感じたんですよ。彼らも若くて気負っていたからでしょうが、正直にいえば、人間的対等性や文化的香りが乏しくて、肌ざわりからして、この人たちとはとても一緒にやっていけないと思った、当時の渋谷定輔青年としてはですよ――。

頁89
 思い返すと、南畑争議のときも、日農関東同盟の指導は参考にはしたが、それに引回されなかった。農民自身の主体的条件を大切にする姿勢を貫いたんです。それでなくちゃあ、村長、郡長、警察署長まで引っぱり込んで地域闘争の形でねばり抜くなんてできませんよ。これは今の住民運動や公害反対運動にも参考になりはしませんか。

頁90
 村会議員の選挙がありましてね、小作人組合の幹部が立候補して当選した。ところが、今度の争議の最大の功労者である柳下弥三郎さんは落選した、これはショックでしたねえ。落選の原因の一つは柳下さんが余りに清廉潔白だったからだ。というのはつまり、小作争議の資金を柳下組合長ら幹部の名で信用組合から借りていて、その返済をめぐって議論が起こって、柳下さんは孤立したんです。彼はこの金は組合幹部が一切責任を負って返すべきだと主張したのに対し、他の幹部たちは、西武から小作人全部に出た金から返せばよいという立場です。その人たちから、「柳下さんは正直一方すぎる。金鵄勲章の年金があるからだ」という風な嫉妬とデマが出て、結局、落選してしまった。大衆のもつ二面性の現われですね。そして争議に勝ったとなると小作人組合の会費の負担を渋るようになった。勝ってから小作人の団結は弱化してしまった。こんなバカなことがあるか、

徴兵検査に紋付羽織で行く村の習慣に対し、金銭的負担を鑑み、普段着で行った著者。
叱りつけられるかと思ったら司令官に称賛される。
それを左翼は、宥めるための方便と解釈したが、今考えるとそれだけではないと推測する。

頁111
これは果たしてそれだけのものでしょうかねえ――。まじめな農本主義者、まともな軍人というものがやはりいたので、その人たちを巻き込む思想的な力量を左翼は持っていなかったのじゃないかと思うんです。

面白い人だったのだと思います。

頁17
ところで、私は「考え人」だった。これは俺の渾名で、自家と仕事を手伝いし合うもやい(催合)仲間のおっかあが付けたんだ。
「定輔さんはよけいな事を考える人間だ、考え人なんだよ……」
と、言うんですね。そんなことを考えずに、若い衆らしく謡でもうたっている方が気晴らしになるべえと言う。それも尤もなことだ。そのころ村の人たちは言っていた。生きてたってしょうがねえけど、病気になったって簡単に死ねるわけじゃあんめいし……とか。高い小作料、ひどい労働、農業恐慌、そんな状況になまじ気づいたってどうにもならねえのなら考えない方がましだ――、そう言うのも無理ないわけですよ。

二十一世紀のステレオタイプだと思います。多数派。
前世紀をかけぬけたベレー帽の田舎の人、合掌。