『タテ社会の人間関係』 (講談社現代新書)読了

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

サン・アドの『ウイスキーとの対話 『サントリーオールド』とその世界』*1で、
本田靖春が名著として紹介してた本。確かに名著でした。
最初ハウツー自己啓発本かと警戒してましたが…ちがった。
著者の学術論文を今北産業にした本です。

頁20
しかし、本書はいうまでもなく、純学術研究というより、一般知識人を対象としたものであるため、著者の本領の一端を示すものにすぎない。 より精緻な日本社会の研究としては、筆者のKinship and Economic Organization in Rural Japan 1967, London, Athlone Press を参照されたい。この書は、本書で展開する理論の母体となっているものである。

タテ社会、ヨコ社会という造語は作者が定義して、ここから始まったとか。
原典読まないと、作者の主張する通り、そも日本にはヨコ社会がロクにないので、
ヨコ社会というものが(想像上であれ)漠然とも把握しかね、ヨコ社会について、
作者の定義したヨコ社会とその敷衍とちがった、社会通念プラス自分なりの理解、
しかしていないことに気づかないと思いました。読んで気づいて、愕然としました。

中根千枝 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
本書の英語版は、巻末では、米国ではペリカンナントカの一環として加州大学から、
英国ではペンギンブックスの一冊として出版されたとの由で、現在では、
よっぽど在日ガイジンの需要があるのか、タトル出版から出てるみたいです。

タテ社会の人間関係 - Japanese Society

タテ社会の人間関係 - Japanese Society

巻末付記によると仏語版は
LA SOCIÉTÉ JAPONAISE (tr. L. RAtier), 1974, Paris : Armand Colin.
読んだのは1990年の八四刷ですが、
Wikipediaによると、2015年(平成27年)現在までに124刷116万部超とか。

まず人間の集団の要因は「資格」と「場」に定義出来、前者はギルドとかカースト、性差、学閥、
後者は住む地域とか所属帰属する会社団体とかなんだそうです。

頁27
産業界を例にとれば、旋盤工というのは資格であり、P会社の社員というのは場による設定である。同様に、教授・事務員・学生というのは、それぞれ資格であり、R大学というのは場である。

「資格」集団がヨコ社会、「場」集団がタテ社会で、日本には、
タテ社会という第4の壁を透過するヨコ社会がほとんど存在しえず、
タテ社会のワク内に収まるヨコ社会しかない、というのが作者の考察結果です。
世界は大なり小なりそうなんちゃうん、と井の中の蛙としては思ってしまいますが、
世界はそうでないそうです。欧米比較だけだと、欧米を基軸とするか、
アンチとするかだけの凡百の社会評論にしかならずムニャムニャと作者も書いてますが、
ここで作者が東大東洋史学科卒で東大東洋文研所長まで上り詰める凄みを見せ、
欧米のみならず、インドでも中国でもチベットでもタテ社会を無力化した人間のヨコ関係はある、
日本だけタテ社会のワクが鉄壁なんだ、と大断定します。
チベットがいちばん日本に近いそうですが、それでもインドから来た佛教関連が、ヨコだとか。
(韓国については記載なし。1973年にフィールドワークの本出してますが、???)

頁39 対照的な日本の嫁とインドの嫁
他村から嫁入りして来た嫁さん同士の助け合いはまったく日本の女性にとっては想像もつかないもので羨ましいものである。
 こんなことにもいわゆる資格(嫁さんという)を同じくする者の社会的機能が発揮され、家という枠に交錯して機能しているのである。

まずここにうならされました。イエがタテで、嫁さんのきょうだい、隣家の嫁さんがヨコ。
姑がひどくても、嫁のきょうだいはなかなか他家の内部に立ち入って介入出来ないもので、
それは隣家の嫁も同様。自分の親や自分の舅姑に怒られる、というのが日本の常識ですが、
それはインドでは違うみたいで、同じ人間同士の争いに、自分と同じ嫁職能の仲間や、
兄弟姉妹が同じ親等として介入するのは当たり前という感覚に、気づいたという、
これは著者が女性だからだと思います。日本にも農協婦人部とか共同購入とか
回覧板の立ち話とか子どもの学校のPTAとか、農村地域女性の横つながりはありますが、
タテの家社会と同等に交錯する程のチカラは持ちえないし、そんな空想もしないです。

頁56
 因みに、近年増加したといわれる転職のケースをみると、その大部分が入社してまもなく、たとえば二〜三年の若年層に集中している。彼らの場合は、まだ社会的資本の蓄積が低く、転職による損失が少ないためである。また、転職のケースが中小企業の従業員により多くみられるのは、経済的・社会的安定度が大企業の場合より低いために、個人にとって相対的に社会的資本蓄積の価値が低くなるからである。

これが、21世紀の文章でなく、1967年の文章であることが凄い。
ここは、ヨコ社会が日本で普及しないのは、要するにメリットがないから、
それで得するように思えないから、という説明の一部分です。
欧米じゃ石工の横のつながりがフリーメーソンにまでなったのにね、と思いますが、
ロータリークラブとかライオンズクラブとかもあるのかな。
日本は貸し借りの考え方も中韓とは違いますし、それもあるのかなあ。
もっと、ヨコ社会だとこんなウハウハがある(と思われてる)から、
他の世界ではヨコがタテを凌駕したりするんだよ、という例をガツンとかましてほしかったです。
どうしても、ヨコがタテの第四の壁を自在にスルー出来る社会、というのが、
想像しづらくて… 関係ありませんが、このくだりの大企業描写読んで、
揺り籠から墓場まで、という言葉を思い出しました。この言葉は、あとの部分で、
総合白物家電メーカなどを指した「ワン・セット主義」という呼称の個所でも、
もう一度想起しました。頁110。
派遣の分際で、「結局この会社は親方日の丸だから」と失言して、
フロア全体が、パーティションの向こうまでシーンとなったことがあったなあ。

頁97
 あらゆる組合は、まず同一職場において形成されている。産業界でいえば、まず企業別組合であり、それの集合体として産業別組合が構成されている。一つの企業体を横に切って、異なる企業の同一職種によってできるクラフト・ユニオン的な職業別組合というものはできにくい。個々の企業から独立した、たとえば旋盤工組合というものはできず、反対に一つの企業体のなかで、旋盤工も事務系職員も高級エンジニアもいっしょになった企業単位の組合というのが、日本の特色ある組合構成である。
 すなわち、私の理論でいう枠によってできる組合であって、同一資格者によってできるものではない。こうした組合構成というものは、世界的にも珍しいものといえよう。
 このような組合の構成では、組合は企業体としての団結に貢献することはあっても、異なる企業に散在している同じ職種についている者たちの間には、真の連帯感(この連帯感こそが諸外国における組合活動の最も重要な推進力となるのであるが)というものは育たない。全国的な組合運動において、しばしば足並みの乱れが起こるのは、こうした組合構成をもつ以上、当然のことといわなければならない。

非正規ユニオンとか名前だけ知ってましたが、正社員の人の組合の上の上から、
連合推薦で以前は社民党、その後民主党から誰それが神奈川何区で出るから、
とか、そんな話は正社員どまりでしたね。そりゃ連合弱体化するわね。
派遣も請負も取り込めないのじゃ。その理由が社会学から容易に考察されるとわ。
頭のいい人が派遣法改正したんだろうなあ。社会基盤を政治的に強固にするために。
経済的には知らんけど。
頁66、複数に帰属所属する(農村と「近郊」)というのは、まったく私にも違和感がなく、
幼少期は辛いこともありましたが、この年になっても生きてます。
頁54の直接接触的(tangible)も興味深かったですが、
これは握手やハグなどのフィジカルな接触と混同して、私の中でうまく咀嚼出来ませんでした。
で、日本がヨコでなくタテなのは、階層の流動性、社会全体の経済の上向きが持続、
頁102分限者が三代続かず穀潰し数寄もの与太公が出てツブれる、などの歴史的説明もあり、

頁77 
 伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。

ここにはっとしました。つい先日、苛酷な一次産業フィジカルワークノルマ上等社会を描いた、
映画『牡蠣工場』を観たばかりだったので…*2
私が思うに、これは、特に異民族を征服して奴隷にすることもなく、
延々と稲作やってきたからじゃないかな〜と思います。
地平線までとか、一日何反とか、出来る出来ないじゃなく、
やらなきゃ終わらないのが田植えとか稲刈りじゃないですか。
ゴタクはいらないんですよ、やるしかない。やっても出来ない人はおみそ。
楢山節考はフィクションですけどね。そいで、よく言われるように、
日本には騎馬遊牧民族の大事な要素、「去勢」が文化として輸入されなかった。
間引きはあったと思うんですが、まあ、仏教だからかなんだからか、
「やればできる」ひとだけを対象にした価値観が延々あるとは思います。
で、「みんなやればできる」

頁100
 これは、すでに指摘した「能力差」を認めようとしない性向に密接に関係している。日本人は、たとえば、貧乏人でも、成功しない者でも、教育のない者でも(同等の能力をもっているということを前提としているから)、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じこんでいる。そういう悪い状態にある者は、たまたま運が悪くても、恵まれなかったので、そうあるのであって、決して、自分の能力がないゆえではないと自他ともに認めなければいけないことになっている。
 しかし、実際の社会生活では、そうした人々は損な立場にたたされている。ところが「貧乏人は麦を食え」などとは、決して口に出すべきことではない。弱き者、貧しきものをそれ相応に遇することを口に出していうことは日本社会ではタブーである。実際に、そうした人々のために本当に働くか、尽力するかは別で、口ではそうするべきだということ自体が美徳とされている。
 日本には、何とこうした口だけのエセ同情者(あるいは言行不一致の者)が多いことか。特に左翼的言辞を弄する人々の大部分が、こうした種類の特権的ムード派であるところに、平等主義から派生するところのぬるま湯的道徳がみられるのである。

インターネットはこれを変えたのか、あるいは思想を強固に補強したのか、どっちか。
ふと、誰でも、自分が無力であると認める、ことは出来る、と思ってるってのも、
それを無条件で信じられるのは日本人だからなのかと考えてしまいました。
諸外国では、無力と認めてない人を、絶えず冷静なまなざしで、
観察してる人間もいるってことなのか、と思いました。
まあこういうことを書いている作者なので、頁176とかで、論理的な論争がなく、
感情的な人格攻撃しか出来ない日本人、書評も、人間関係の好悪に由来するため、
客観的なものとして読むことが難しい、とどんどん書いてます。叩かれたんだろうなあ。
頁106の、並立競争の長所とその国家的損失とか、新書の例は色褪せませんが、
輸入全盛期の今世紀、どう変わったかの考察も知りたいところです。
で、リーダー論ナンバーツー論組織論にまで話が行く。

頁124
 かつての日本軍の実戦における弱点は、実戦の単位である小隊の小隊長が戦死した時であるといわれる。小隊長の戦死によって組織の要を失った小隊は烏合の衆になりやすく、戦力・士気のソソウがはなはだしい。これがイギリス軍やアメリカ軍の場合は、すぐ小隊の中から次の小隊長となる者が出され、最後の一兵となるまで小隊の統制が乱れないとのことである。

契約、コントラクトを前提とした組織だから、ということみたいですが、
人を超越した神への信仰とかは考慮せんでいいんかなあ、とも思いました。
まあちょっとそういうことで、ちゃんとした書評になってるか、不安です。以上