『やってみなはれ みとくんなはれ』 (新潮文庫)読了

やってみなはれ みとくんなはれ (新潮文庫)

やってみなはれ みとくんなはれ (新潮文庫)

これも、人間ドックの食事券で買った本。
サントリーの創業者鳥井信治郎を中心に、寿屋商店の黎明期を綴った本です。
赤玉ポートワインの鳥井だから[赤丸+鳥]でサントリーとは、知りませんでした。
佐治敬三が創業者の次男であることも知りませんでした。
養子に出されたから苗字違うが、住む家は一緒やった、とか普通知らん。
作者二人ともそこの社員だったわけなので、
自身の体験ともクロスさせて書いており、二人の待遇は、日給月給だったと書いています。
執筆その他で出勤しない分は当然天引き、飲酒は自腹。個人的な接待は自腹。
大阪の始末だから、当たり前といえば当たり前ですが…
この本には『その後の「やってみなはれ」』があり、その部分は、
やはり社員であるライアン北杜夫の娘、窓際のウフフな朝子さん、
斎藤由香が書いてますが、この人も日給月給なんでしょうか。
その、オホホだかウフフだかの箇所に、

 ある朝、出社すると、まだ九時前なのに電話が鳴った。
「はい、サントリーでございます」
「哀れな哀れな茅ヶ崎の開高や。モテまっちゃん、いますか?」
(ハッ!? 一体、これは誰?)
 何と、その電話の主が開高健先生だった。初めて聞く大作家の声は気さくで大きな声だった。モテまっちゃんというのは、Tさんのことで、女の子にモテるからと、先生がつけたあだ名だった。

 そんな日々の中、山口瞳先生からも電話がかかってきた。
「国立の山口です。T君、いますか?」
 開高先生と対照的に落ち着いて物静かな声だった。

とあり、ここが一番よかったです。チガサキのカイコウと名乗ったはるのが、よかった。
解説は常盤新平。そこでも引用されてるのですが、創業者の嗜好として、

開高健「やってみなはれ」 頁208
 毎朝、彼は雲雀ケ丘の邸からパンひときれ持って大阪市内の社長室に向う。社長室に入ると、そのパンを焼き、バターも何もつけず、いささか妙な趣味だが、戸棚からヨーカンをだしてこまかく切り、パンのうえにのせてむしゃむしゃと食べた。ウィスキーの鑑定では空前の天才的な鋭覚を死ぬまで発揮して衰えることのなかった人物だが、パンにヨーカンとか、コロッケに砂糖とか、ビフテキマーマレードとか、彼のその方面の趣味はちょっとヘンコツなところがあった。

…寝落ちしていました。寝ます。
【後報】
初代社長には上記のような味の好みがあったということです。で、下記のような面もあった。

山口瞳「青雲の志について」 頁122
 信治郎が、この世でもっとも嫌ったのは「酔っぱらい」だった。酒を飲んで態度の変る人間は、すべて「酒乱」ときめつけた。酒のうえでの商談は、ぜったいに禁じた。猥談ならばいい。この方面の信治郎の口癖は「淫して洩らさず」である。「接して洩らさず」ではない。それと、前に書いた「遊んでも外泊するな」である。
 もうひとつ、つけ加えるならば、信治郎は、三十歳のときから二十五年間、禁酒禁煙しているのである。これは私の勝手な解釈であるが、信治郎が死にいたるまで最高のブレンダーであり得たのは、このためではないか。信治郎の鼻と舌は、いつでもシャープだった。つまり、いい酒をつくるために、自分は酒をやめ煙草を断ったのである。快食、快便、快眠を健康法としたということもある。

独学で、よい香りにはほんの少しうんこのにおいがまざっている、
というケミストリーに辿り着いたり、糟糠の妻が逝ったあと、
常に十人は女性がいたが、決して外泊しなかったとか、
そういうケッタイさの基盤土台の話ですが、でもこの人は調べてみると享年八十三歳なので、
二十五年の禁酒禁煙を解いた五十五歳の時に何があったのか、逆に知りたいと思いました。
五十五歳は1934〜5年で、前年に奥さんが亡くなっているのですが、本は黙して語らずです。

鳥井信治郎 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E4%BA%95%E4%BF%A1%E6%B2%BB%E9%83%8E

山口瞳「青雲の志について」 頁123
 しかし、鳥井信治郎は、絶対に女子社員を叱らなかった。
 また、工員を叱るということもなかった。叱られるのは営業部員であり事務員であり技術者であり、男の社員だけである。
 信治郎が酔っぱらいのほかに、極度に嫌ったのは博奕である。酒という、いわばミズモノを扱っていながら、信治郎は賭を好まなかった。僥倖を願わなかった。
「商人は博奕したらあかん」
 彼は固く信じこんでいたようである。

ところでこの人がマッサンでいうと堤真一の役なんでしょうか。
片腕だった常務の作田耕三については、筋金入りの共産主義者として語られ、
(のちにハンガリー動乱などで愛想を尽かす)こんな感じです。

山口瞳「青雲の志について」 頁125
 やはり戦後のことになるが、この作田が二十三日間、警察に留置される事件が起きた。むろん、会社の責任を一人で背負ってのことである。
 作田は自殺するのではないかと思われていた。
 差し入れとして、作田は睡眠薬を頼んだ。信治郎は、毎日一粒ずつしか渡さなかった。
「これには弱った」
 作田はそう言って笑う。純粋マルキストである作田は留置場なんか屁とも思っていなかった。寝苦しいというだけが辛かったのである。余人ならば耐えかねて、あるいは死を選ぶかもしれないような事件だった。なぜならば、進駐軍によって指された事件だから、追及がきびしかった。
「わては、会社のためには死なへんで。わてが死をえらぶとしたら、そら日本人民のためや。日本のためになるのやったら、わてはいつでも死んだるで。会社のためなんかで、わてが死ねるもんかいな。大将にはそれがわかってへん」

山口瞳「青雲の志について」 頁127
寿屋には、ずっと、組合はあってもストライキなどというものがなかった。大番頭がこれだから、組合員が押しかけても歯が立たないのである。頭があがらない。
「あいつは偏屈や」
 信治郎はそういうだけである。
「あいつは酒乱や」
 作田が酒を飲んで、世界観をぶつときに信治郎が言った。
 名を捨てて実を取るといっても、まさに極まれりという感がある。大阪商人の真骨頂である。

頁74を見ると、そもそも鳥井信治郎が実家の寿屋で洋酒を販売しだしたのは、
明治三十三年、父の死で家業を継いだ時と日清戦争終了が重なり、
大阪の清国商人相手に葡萄酒の製造販売に乗り出したのが最初とあります。
これは、当時、銀本位制の清国と金本位制の世界との間のレート差を利用し、
右から左に移すだけで莫大な利益が発生し、それに携わる華人商人が船場などに
たくさんいたからだと思います。本書はそこまで書いてませんが、たぶんそう。

神戸と華僑―この150年の歩み (のじぎく文庫)

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伝統中国商業秩序の崩壊―不平等条約体制と「英語を話す中国人」

伝統中国商業秩序の崩壊―不平等条約体制と「英語を話す中国人」

『神戸の華僑』はほんとうによい本で、特に、一時消滅した大阪の船場華僑や、
黄檗山の華僑墓地を基盤に営々脈々と存続してきた京都華僑について、
きちんとまとまった文章を書いているのがこれだけと思うので、
再版したらいいんじゃいか、と思います。

マッサンに出てくるのか知りませんが、頁146山口瞳

 ウイスキーの製造を発表すると、寿屋の全役員が反対した。
 東洋製罐社長で、後の通産大臣高碕達之助が反対した。「イカリソース」をつくっていた山城屋の木村幸次郎が反対した。味の素の鈴木三郎助も反対した。

後年のLT貿易の人がいきなりここに顔を出すので、面白いと思いました。

LT貿易 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/LT%E8%B2%BF%E6%98%93

LT貿易で私が面白いと思うのは、周鴻慶と吉田書簡の時に、
吉田茂は麻生ママを伴って訪台するのですが、ケニチ先生はこの時何をしていて、
なぜ関わらないのかは漠然と分かりますが、どう思ったかを知りたいかな、
ということです。
これもマッサンに出てくるか知りませんが、山崎工場はこう呼ばれていたそうです。

頁153 山口瞳
近所の農家の人は、あれは「ウスケ」という怪物をつくる工場だと噂した。

麻井宇介の由来がやっとなんとなく分かりました。メルシャンの人でサントリーでないですが。

あと、そういえば、引用問題について触れた箇所があるので、
引用しておきます。

頁15 山口瞳
 失敗といっても、悪意があったわけではないし、怠けたのでもないし、過失とも言えないようなものだった。
雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」という詩を製薬会社が広告に利用することがある。それと似たようなことで、開高が、ある詩の一部をウイスキーの新聞広告に使用したのである。それが著作権法にふれた。開高とすれば、その詩人(故人)を敬愛するあまりに、きわめて自然に口をついてでるという感じで使用したのだけれど、先方の代理人はきわめて強硬であった。結局、二十万円だか三十万円だかの使用料を取られることになる。
 その広告は、いまでも開高の傑作のひとつだと私は考えている。軽快でスマートで清潔で格調が高い。その証拠に、その年の広告賞を得ているのである。
 しかし、ふつうのサラリーマンの感覚からするならば、やはり失策は失策である。進退伺いを提出すべき性質のものである。

開高は逆境をものともせずますます張りきった、という話です。

この本にはマッサンもニッカも出てきません。以上。あと蛇足。

この本も、戦中の苦労や灰燼、戦後焼跡からの復興にも癒されない怨嗟が顔を出しますが、
全然関係ないですが、最近テレビを観ていたらマニラ市街戦70周年の報道がかなり向う寄りで、
これまでこのネタに関しては向う寄りの主張を報道は結構スルーしていたのに珍しい、
(マニラ軍事裁判で結着がついているから*1
と思いました。フィリピンも従来の、
スペイン系の姓名を名乗っているので見えない華僑だけでなく、
(例の、街全部死者のための家の一画を作ったりした人たち)
新移民の、そういう基礎教育を受けていない、
北京語などが達者なフィリピン人が増えていたりするので、
そういうこともあるのかな、と思っています。

NHK マニラ市街戦から70年を伝える催し 2月4日 4時42分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150204/k10015197041000.html
NHK 証言 フィリピン 絶望の市街戦
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/list.cgi?cat=heishi&value=%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%80%80%E7%B5%B6%E6%9C%9B%E3%81%AE%E5%B8%82%E8%A1%97%E6%88%A6
(2015/2/5)
【後報】
佐治敬三については、サントリーのビール事業への参入のあたりで〆てますが、
サントリーのビールというと、モルツというブランドを確立しながら、
5.5度のドライに偏重しようとしたり、小売店を振り回した時期に立ち会ったので、
私としては心中複雑です。
(同日)