社の福利厚生ポイントをアマゾン図書券に変換し、東條サチ子サンのスリランカゲストハウス開業顛末記の出品を購入した後、残りをどうすべえということで「ペルー」で検索して、出てきたこの本を買いました。ペルーに関する本って、出ませんね。観光案内以外は、スリランカより全然出ない。遠い国だ。
(1)
英題はてきとうにつけました。「ブラジルから来た少年」が"The boy from Brazil"なので、こんなんでいいのかなと。その後、ふと、マイドーター、ペルーで画像検索したら、出たのは下記と、観光写真でした。
(a)
"Lori: My Daughter, Wrongfully Imprisoned in Peru." by RHODA BERENSON Foreword by Noam Chomsky Afterword by Ramsey Clark 女子大生だかジャーナリストだかの娘が、ペルーで不当タイーホされてムショにブチこまれちゃっただよ、という北米女性の怒りの書。2000年刊。
(b)
エクアドルから逃れて高速道路沿いにとほで移動中初潮を迎えた少女をユニセフがこれでもかと伝える2018年の記事。コロンビアからベネズエラ、そしてペルーに逃れようとしてるんだそうで、最終的にはメキシコからトランプの壁を乗り越えて北米入りを目指してるんです、なんてことは一行も書いてないので、そういうことじゃないんでしょう。知りませんが、无所谓。我到底有什么关系。
(2)
帯。
帯裏。
カバー折のあらすじ。装画 後藤美月 装丁 名久井直子
カバーを取った表紙のもよう。
(3)
ここまで書いておきながら、ヤエルは生後一ヶ月の描写しか出ません。養子としてもらい受けにペルーに行った、そのエッセーが載ってるだけ。「アメリカの小さな町」「移り住んだアメリカのさまざまな町」「町から町へ」四季の移り変わりとともに、どうヤエルが育ってゆくのか、成長の記録がまるでないです。ひょっとしたら、旧巻の十年後に書かれたエッセー『イリノイ遠景近景』(ちくまから2022年文庫化)にその後の娘の成長が書かれるのかもしれませんが、分からない。すくなくともブレイディみかこサンや最近読んだ在日ルーマニア人サンの本*1のようには子どもは出ない。ぼくはブラックでブラウンでチョコレートで、ちょっとブルー。酔って吐く前、青ざめた黒人の顔はほんとうに青いです。
あとがきによると、ヤエルのくだりは1978年から1980年までのあいだに、ニューヨーク州イサカで書いたとか。その後東京に一年足らず滞在、その後カンサス州ローレンスに移り、さらにその後イリノイ州シャンペン。で、1984年本書刊行。ヤエルサンも4歳か6歳くらいまでには大きくなったと思うんですが、本書には書かれません。
(4)
私は「ペルー」の文字に引っかかってこの本を買っただけですが、どうも藤本和子サンは再評価の動きでもあるのか、近年、ちくまから二冊、岩波現代文庫から一冊文庫化され、河出の文藝で特集が組まれています。
筑摩書房 ブルースだってただの唄 ─黒人女性の仕事と生活 / 藤本 和子 著
◎特集・WE LOVE 藤本和子
【座談会】
岸本佐知子×くぼたのぞみ×斎藤真理子×八巻美恵
「片隅の声に耳を澄ませる 藤本和子と、同時代の女たちの闘い」
【エッセイ】
柴田元幸「お寿司を食べる人 」
井戸川射子「塩は喉を、叫びが喉を」
本書解説で榎本俊二、否空サンは河出文藝の藤本サン特集に触れていて、ブローティガンをはじめとする彼女の訳業と、黒人女性への聞き取り作業とのあいだには断絶があり、両者は相互に触れあったり交流したり行き来したりということがない、という指摘があるそうです。で、本書が、両者をつなぐ役割になるのではないかと書いてた、かな。
私にしてみると、藤本サンはブローティガンというよりはマキシーン・ホン・キングストンサン『アメリカの中国人』*2『チャイナタウンの女武者』(未読)の翻訳者ですので、両者がつながってることは自明のような気もするのですが、ひとはそれぞれちがうから。
今週のお題「名作」
藤本和子サンの文庫化もいいんですが、ヒサエ・ヤマモトサン『十七文字』*3とエリック・サラッチャンドラサン『亡き人』*4の邦訳は現在でも入手出来るようになってないとおかしいと思います。
あと、ついでに名作をいうのなら、入手可能なものとして、ラットのタウンボーイ。
そこからヤスミン・アフマドの映画を一気見すると、マレーシアのマレー人(回教に忠実な人たちと上流の英語話者)、廣東系と福建系と国語使いの華人三種、ムスリムとヒンディーのタミル人くらいはなんとなく分かります。タミルに宗教の違いがあることが分かるのとサローン姿に見馴れると、スリランカにもちょっとは応用が利くかと。南方華人のちがいが分かっても、ガチ中華のザリガニとは関係ないですけどね。
(5)
『ペルーからきた私の娘』"My Daughter from Peru." 頁29、夫妻はリマにしか滞在しないのですが、せっかくだからということで、今でいうフェミ、当時でいうと女性解放運動の指導者に会いに行ったりします。
この人。アナ・マリア・ポルトガル"Ana Mariá Portugal"。上のサイト時点の情報ではアレキパに住んでるそうで。チリで有名を馳せたのかな。軍政ピノチェトのチリにはおれんかったでしょう。
で、藤本さんもパートナーのユダヤ系米国人のしともスペイン語がさべれず、アナ・マリアサンも英語はろくろくなので、事務所というかたまり場の書店に出入りしてる米国人女性が通訳します。ひとりはローズ・ティモシー"Rose Timothy"という尼僧の方で、たぶん下記。
https://maryknollmissionarchives.org/deceased-sisters/sister-rose-timothy-galvin-mm/
もうひとりが南カリフォルニア大助教授ベス・ミラー"Beth Miller"サン。この人が藤本さん的にはだめだめで、訳さないわ、はしょるわ、自分で勝手に答えるわ、さいていの最低だったそうです。検索したところ、終身准教授ですが、サウスカリフォルニア大で自身が女性であるがゆえに不利益を受けていたと訴訟を起こしてて、その記事が見つかりました。
でも南カリフォルニア大のベス・ミラーで画像検索しても出てくる人が多いので、どれが本人か分かりません。アメリカ人て平気で写真載せますね。電話番号もあった。
アン・ミカみたいなベス・ミラーサンもいますが、総じて年配の人ばかりなのは、デジタル社会に対する警戒心が、高齢者は強くないのかなあと思ったり。若い女性はさすがに画像出さないのかも。
溜まり場の書店は、チラシやパンフが多いところが「模索舎のよう」と形容されており、模索舎を知らなかったので検索しました。
アンド検索ワードが「公安」だったり「腹腹時計」だったりで、そうなんかなあ、どうなんかなあと思ったり。二丁目は行かないので分かりません。
頁43、北京歳時記なみにリマの物売りのスケッチが描かれます。ペルーのアイスクリーム屋のチャルメラは日本の豆腐屋と同じ音だそうで、ほんとに同じ音なのか検索しましたが、見つからず。ドノフリヨという製品というかギルドだそうで。
ジュリオと書いてフリオと読ませるのかと思ったら、最初から〈F〉だった。下記は日本の豆腐屋のチャルメラ(京都だからかちょっとちがうし、私は京都で豆腐の移動販売見たことないですが)
(6)
ペルー編はこれくらいで、あとは北米の随筆。
「ウィラード盲目病棟」『白樺病棟の「高砂」』は、身寄りのない日系イッセイの視覚障害者老人が、ほとんど言葉を発さずもくもくと暮らしている話。ソーシャル・ワーカーのはからいで、藤本さんがボランティアとして様子伺いに訪れ、母国語で話しかけてあげようというもの。「高砂」とあるので、実は彼は台湾原住民だったので、戦後の日本語で話しかけてもそれほど返事をしなかったのかと思っていると、それはうがったものの見方で、能の高砂のテープを聴かせてあげるという話でした。
関係ないですが、日系沖縄系以外に、半島系と中国系ひっくるめて異大陸のオリエンタルカテゴリーになると思うのですが、華人はともかく、戦後移住より前のコリアン移民てどうだったんでしょう。北米南米への移住は制限されてたのかどうか。川崎あたりで調べて展示してないかなあと。
次の『かげりもない、パネイの夜ふけに』は上記老人オキヤマサンの同室者のフィリピン人の話。その次の『ボランティアたちの晩餐会』は、その施設のボランティアたちが、親睦も兼ねてホテルディナーする話。その次の『スパゲティかぼちゃ』『夢』『オムライス』『ヘンリーの運勢判断せんべい』は「ステイツ、旅の雑学ノート」的味わい。そうめんかぼちゃ*5みたいな北米在来種を知らなかった話。夢の話。日本人が食材の味つけにケチャップなんて使うわけがないと信じてる、日本で基地勤務経験がある白人のオッサンが「もう一度、あのオムライスが食べたい」と夢見る話。まだチャイナタウインのニューカマーが香港台湾経由ばかりだった(大陸系がほとんどいなかった)時代、インテリホールスタッフがフォーチュンクッキーの文言作成係をまかされ、かなりクセ強の文章を書き出す話『ヘンリーの運勢判断せんべい』
その後はブローティガン絡みの話と黒人女性聞き取り絡みの話。と、藤本サン自身が、マキシーン・ホン・キングストンの邦訳だけでなく、在米華人について語ったり、取材する箇所。
頁154
ある日曜日の午後、わたしは東京からやってきた妹を連れて、ギアリー大通りの劇場へ行った。なんだかその日は、その辺りの感じがいやにゴタゴタとしていた。
と、とつぜん、歩道を歩いているわたしを、だれかが怒鳴りつけているではないか!
見ればおしめの布のように白茶けた顔色の初老の男だ。
「オイ、おまえはばかか、トンマか! 歩道というのは右側通行だ。おまえは野蛮なシナジンだな。文明を知らない、野蛮のシナジンは、シナへ帰れ!」
その口調やさえない服装からいうと、(略)なにもかも、一切合財ひっくるめて中途半端のかたまりみたいな、夢心地の初老の男だ。失意の匂いのする男だ。
わたしは咄嗟に怒鳴り返した。
(以下略)
支那は悪い言葉ではありませんが、なんでカタカナにしてるのか。旧版からなのか。今回の新装版で改訂したのか。石原都知事(当時)と中国人留学生の会話あたりからの風潮(カタカナならいいが漢字表記はダメ)でこうしてるのか。そもそも英語では何と言ってたのか。
頁155
それから二週間たった。あれもやはり日曜日だった。こんどは、東京からやってきた妹といっしょではなく、夫とユニオン通りを歩いていた。もう町には夏が来ていたので、日増しにうそ寒くて、空がどんよりと重くなりはじめていた。
またしても。
(略)
こんどは女だった。ネッカチーフをギューギューと顔を締めつけるようにかぶった、初老の女。こんどもなぜか、顔はおしめのように白茶けた感じで、全体が、こうボワーッとしている。そして、ふしあわせと憎悪が、悪い体臭のように匂いをたてる。
「あんたっ! 非米的悪の者ども、シナジン、シナジン! 地獄へおちろ。この、非米的アカ」
そう、怒鳴るのだ。指さして。中国人をもっとも卑しめていう呼びかた、チンクということばまで使っていた。
(略)わたしは、なるほど、非米的アカかもしれない。だが、中国人かな。けれども、中国人と見まちがわれたということは、全くどうでもよかった。中国人がののしられていたのだ。そして、わたしがののしられていたのだ。
この時初めてチンクと言われたのなら、その前はチャインマンだったのだろうか。女性二人で歩いていたのに? そしてチンクと言われたのなら、フラットな言い方の支那人でなく、贬义词的チャンコロと訳すべきだと思います。ここは分からない。あと、作者が「中国人」と訳す時は原文がチャイニーズなんだと思いますが、それでいいような悪いような。何も"Zhongguonese"チュンクオニーズと云えと言ってるわけではないですが。
そしてこのようにオリエンタルをいっしょくたに罵倒する人間がいる一方、ソニーニホンジンをもちあげて中国人をクサす人もいますし、その逆に、「日本はなんで南京はじめ中国で悪逆非道の限りを尽くしたのか?」と邦人を糾弾するアメリカ白人もいて(黒人もいそうに思いますが、会ったことナシ)、そういう人に「あんたらだってヒロシマ・ナガサキで非戦闘民の頭上にアトミック・ボムを落として無辜の市民を多数虐殺したジャイカ」と言うと、白人の場合97%の確率で殴り合いになります。まちがいない。人は正論を言われると激昂する。上の模索舎的な人だったら、さらにイスラエル非難、それを支援するステイツ非難までおっぱじめて、そしたら逆に矛先が日本からそれるかもしれません。
その後、藤本サン自身による舊金山桑港のチャイナメンリポートが挟まります。当局の福祉手当金で暮らす老人たちは、古くても手入れのいきとどいたダークカラーの背広を着て、広場で中国将棋をさしている。下宿には何の設備もなく、一日二食食べるのがせいいっぱい。一旗揚げて妻子を呼び寄せたり写真花嫁を娶ろうとしても、1924年、中国からの女性移民を一切禁止する法律が施行され、じゃー他民族と通婚しようにも、1947年までカリフォルニア州法には「異種族混淆結婚禁止法」があり、単身出稼ぎ労働者男性の華人は、戦火の国に帰るカネもなく。チョンガーのまま老いてゆくしかなかったという。ブローティガン『アメリカの鱒釣り』表紙のワシントン広場ではイタリア系老人たちがゆっくりと死んでいき、五分離れたポーツマス広場では中国系老人たちがゆっくりと死んでゆく(頁158)
ヤエルのその後が知りたいです。『イリノイ遠景近景』読むかな。といいつつ、『砂漠の教室:イスラエル通信』を読んで、イスラエル側に寄り添ってみたりして。以上