『アメリカの中国人』"CHINA MEN" 読了(とちゅうまで)

 四月のことです。神保町の中国書専門書店に台湾映画巨匠ナントカの前売りを買いに行ったら、<村上柴田翻訳堂>の下記があり、帰宅後図書館を検索してみると晶文社の改題前の版が蔵書であり、特に内容的には異同もないようでしたので(新訳というわけでもなさそう)それを借りて読み始めました。

チャイナ・メン (新潮文庫)

チャイナ・メン (新潮文庫)

 

www.shinchosha.co.jp

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村上柴田翻訳堂は、前者の名前を借りて、かつての翻訳のよい仕事のうち、今の情報量過多の時代で薄くなっているものを、もう少し人目に触れさせようとする試みだと思います。シリーズ中、「宇宙バンパイア」は、先日の諸星大二郎の漫画にも出てきましたし、B級SF映画が今大量にDVDで入手しやすくなってるので、これを買いている途中にも、アンド検索で出て来ました、連環。

バンパイアの惑星 [DVD]

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 本書の邦題が、1983年の晶文社版では、『アメリカの中国人』であったのが、21世紀の村上柴田翻訳堂では原題"CHINA MEN"そのままの『チャイナ・メン』になってることについて、インパクトは後者にありますので、翻訳者が同意してるのであれば、売るためには絶対こっちだと思いますが、何故最初に抑えた題名をつけたか、じっくり考えるのであれば、前者のそっけない邦題も捨て難いと思います。でもまず手に取ってもらうか、クリックしてもらうかしないとだからなー。私は、世界のハルキ・ムラカミの名前だけで、相当数斯界の実存人たちが手に取ってくれるとも思うのですが。

頁456 「沈黙に声を拾うー訳者あとがき」

 さて、チャイナ・マン(メン)とチャイナマン(メン)の表記はすべて原作通りであるが、読んでゆくうちに、使い分けの基準はおのずと明らかになるだろう。中国人の華僑が自らを称する時にはチャイナ・マンであるし、作者が彼らの物語を語る時の主語としての彼らはチャイナ・マンである。それに対して、白人のアメリカが中国人を呼ぶ時のいいかたはチャイナマンと切れ目なく表記されるし、白人の頭の中にある中国人を描写する時もチャイナマンである。大別すると、こういうことだが、(以下略)

訳者も指摘してるように、作者がこの言葉を書名に冠した本を書こうとしたのは、ハワイの「チャイナマンズ・ハット」という岩の名前が、身体に染み入って、浸透してからです。

頁127「檀香山の曾祖父」

(前略)「モコリイ島」だが、誰もその名では呼ばぬ。それはまた「チャイナマンの帽子」と呼ばれてもいると聞いた時には衝撃を受けた。それまでには、そのぞんざいに切れ目なく発音される言葉に出会ったのは、人種差別主義者たちとすれ違った時に限られていた。

オアフ島の海を存分に泳ぎ、夜は窪みに風を避けてキャンプして自然の中に包まれ、作者は回心、コペルニクス的転回をします。

頁130「檀香山の曾祖父」

 生きている島に彼らの労働の帽子の名前をつけることは、開拓者に対する手向けである。

そこで初めて彼女は本書を書こうとするわけです。蛇足になりますが、私は長年ハワイ人が中国人のことを"pake"「パーケー」と呼ぶその語源が分からなかったのですが、本書頁127に、伯父を指す広東語の方言、バクァを現地の人が転用してそう呼ぶと記載があり、やっとわかって嬉しいです。

Pākē - Wiktionary

ハワイはラーメンに似たラーメンでない料理もあるし、深いです。

サイミン - Wikipedia

訳者あとがきによると、作者のことばは、広東語の四邑せいや語、四邑方言となっていて、これはマカオの西の江門市という行政区画のあたりでした。百度で、ぐわんどん省新会県、と書いてあるのが分かりやすく、しっくりくる気がします。

en.wikipedia.org

baike.baidu.com

江門市 - Wikipedia

www.google.com

台山も同じ地方なんですね。ブックデザイン 平野甲賀

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表紙にある印章「金山勇士」が本書の漢語タイトルかと思ったのですが、百度を見ると、"中国佬"という、在外華人をぱっと分かるようにあらわした、しかしこれも抑えた表現を使っていて、デビュー作『チャイナタウンの女武者』の中文名が"女勇士"なので重複を避けたのかもなと思いました。これのエイゴタイトルは"The Woman Warrior: Memoirs of a Girlhood among Ghosts"で、訳者はあとがきで、作者は「鬼」の英文訳について、前書ではゴースト、本書ではデーモン"Demon"、と変更していると付記しています。さいしょから"中国佬"だったかどうかは、1983年の訳者あとがき時点で作者からアドヴァイスを受けて参考にした台湾の海賊版(本当に往時をしのぶというか、当時のアジア翻訳版権事情)は題名が書かれていないので、なんともいえんです。作者はむろんのこと、科挙の落第生だった父親も、方言の音波の世界を汲み取ってアルファベットの羅列にした単語のつらなりを中文に復元するに際して、どうしても外部を参考にしてちょ、と言わざると得ない部分があったと。

頁455に書かれているこぼれ話として、故事の登場人物名が、邦訳の確認作業の途中で間違っていると両親から作者に指摘があり、英語版はマチガイのまま、邦訳版は修正済み、という事態が発生しています。訳者は相当詩文や成語やらについて、作者の英語から日本語へではなく、漢文原典をそのままだーっとかいちめえ、との誘惑と戦った旨あとがきで述懐しています。でも新会人の音波のものがたり、えらそうにゆうと口承文学でもあるだから、やっぱりやめた、とのことでした。というか、それが作者の希望だったそうです。生きている人がその時代の感性で改変した部分を尊重したい。

China Men (Vintage International) (English Edition)

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 もうここまででだいぶ書いたのですが、まだ本文には1㍉も触れてません。たいした本です。もっとアジるようなルポかと、ハルキ版の表紙の写真見た時は思ったのですが、ぜんぜんちがう。沈思黙考のお手本みたいな静かなエッセーです。散文。リービ英雄は、『我的中国』を書いた時、本書も念頭に置いてたのではないかしらと。焚き火の部分とか、照らされる顔とか。

…と、ここまで、2019年5月21日に下書きを書きまして、その後、本書の読み込みが、まったく進みませんでした。返しては借り、また返しては借り、の繰り返し。いい加減なんとかせなならんので、とりいそぎ、ここまでをあげておきます。