『奇抜の人 埴谷雄高のことを27人はこう語った』読了

奇抜の人―埴谷雄高のことを27人はこう語った

奇抜の人―埴谷雄高のことを27人はこう語った

装丁:南伸坊 

文庫本では下記タイトルに変更されています。

変人 埴谷雄高の肖像 (文春文庫)

変人 埴谷雄高の肖像 (文春文庫)

これも洋酒天国とその時代で紹介されていた本。
立花隆が東大教養学部で前世紀末やってたゼミ生が、
黎明期のネットにうpしてた埴生雄高関連インタビューを、
さらに何回も何回も書き直して脱稿した本。
これがあれば、ハニゃーの本を読まなくてもはんにゃゆたか(本名)が分かる、
と絶賛されたのかな。と思いました。
サイトもゼミも現在はバニッシュしてるそうです。

作者 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E4%BF%8A%E4%BB%8B

巻頭で立花隆がホメ殺してたので、将来どんな大人になったのだろうか、
と気がかりでしたが、この道に特化した人生を送っているように見えます。
Wikipediaには書いてませんが、愛知県生まれで、義務教育は町田で受け、
駒場付属から東大文Ⅱ(なつかしい分類!)というエリートコースを歩んだ青年を、
立花隆がホメ殺してこの道に歩ませたわけでもないでしょうが…
ただそうなっただけとも思いますが、白紙はなんにでものめりこめたであろうから、
こんなスルドい人がこれだけの草鞋だったら、もったいない気もします。

頁120 秋山駿
あなたも馬鹿なことをやったほうがいいよ。社会でちゃんとした仕事についたとしても、二重生活で馬鹿なことを続けたほうがいい。

作者もあとがきで、インタビュー中忘れられない言葉のひとつとして、
上を挙げてますが、後半は省略しています。二重生活出来る程器用でない、
キャパ大きくないと自分で自分の限界を決めたのかもしれませんが、
だとしたら、もったいない。相当出来る人間に見えますので。
愛知のような教育県で生まれた人間が神奈川で学童期を送ったわけなので、
プロフに書いてないだけで、固い仕事にもべっとついてるのかもしれないですが。

私ははにゅうゆうこうはにやゆたかさんは、
ハンガリーのトカイワインを飲む人という以外に、何の知識もありませんでしたが、
野菜を食べないとか、昼食はウナギばかり食べていたとか、
子どもを作らない、けれども避妊というより、女性にバイアスのかかる方法で、
そうしていたということなど、いろいろこの本で知ることが出来ました。
はっきり言って、今でも、神聖喜劇と死霊の違いが分かっていませんし、
吉本隆明鶴見俊輔の違いも分かっていません。死霊読むかなあ。

頁16 埴生家の向かいの家の住人談
「僕は台湾育ちですから」というのが口癖でした。椅子にきちんと座らないで、足を椅子の上にのせて膝を立てて座るんですよね。これも台湾育ちのせ(笑)。台湾育ちはわかるけど、日本に帰ってきてからもう何十年経ってるのってよくききました。

その座り方がデフォとは思わないですが、どうなんだろう。

頁172 中村真一郎
大学生たちは興奮して党派を作って殺しあいにまで至ったが、それによって国家予算が変わったことはない。あれだけ情熱を傾けながら、彼等はほとんど影響を及ぼさなかった。韓国やシンガポールの運動は現実に影響するが、日本の学生運動は抽象的なものに過ぎなかった。これは埴谷が学生に与えた影響に責任があるかもしれない(笑)。学生たちは抽象的に喋るのが政治だと思いこんでいたのだろうが、現実政治は自民党を中心に具体的に動いていた。

頁366で吉本隆明がさらに具体的に特定のセクト名を出して、
このあたりクリティークしてますが、これは知りませんでしたし、
リューメーさんのお考えも分かって、よかったです。
下はそのばななのお父さんについて、小島信夫が語った部分。

頁313 小島信夫
例えば吉本隆明さんは戦争中右翼的、戦後左翼的、それからの変遷でも、更に最近ならオウム真理教への対応でも時々に変化する。しかしその変化は世の中の移り変わりとともに起こる、きわめてありうることなんです。

下は、インタビュー後、℡で補足した部分。

頁320 小島信夫
 僕が三月の時点で話をしたことをあなたは整理して下さった。整理自体には間違いがないけれど、ただ常に曖昧なところがないといけないような気がします。筋が通り過ぎているのは、ある人について語る態度ではないと思うのです。吉本さんにしても戦前はこうで戦後はこう、と僕はくくってしまったが、まとめ過ぎてしまったような気がして、それでしばらく時をおいたほうがいいのではないかと思っていました。整理それ自体に間違いはないと思うけれど、しかし整理し過ぎると、それ以外の部分を忘れがちになるんです。吉本さんは病気もされたし、現代詩も書いている。僕にとって吉本さんの現代詩はなじみがないものなので、僕の視点から整理をしてしまうと、その部分を切り捨てることになってしまいます。整理された以外の曖昧なところがあったり、横にはみでたり、そういうものが加わっていないと駄目だと思います。

このあと、具体的にどうすれば曖昧さが出るかサジェスチョンがあります。
作者の、目から鼻に抜ける利発さの危うさ、ゼロサム思考にブレーキをかけたのでしょうが、
それが杞憂に終わったかどうかは分かりません。
小林よしのりがあるタイプの若者に対し当時ゆっていた、
「純粋まっすぐ君」のレッテルとは、著者は違うと思います。

頁283 山口泉
 いや、例えば文学者として「十五年戦争」にあれほどまでに公然と加担した小林秀雄を、戦後ついに「文壇」の誰も批判していないことに象徴されるような、もっと根本的なものです。小林秀雄を批判できるか否かは、日本文学が本当の文学になるかどうかのわかれ目だと思うんです。文学における歴史性の問題として、彼が断罪されなければならないことは明白なのに、戦争責任論をはじめとする戦後の論争を見ると、その戦争責任を曖昧にするため、黒を白と言いくるめるテクニックのような議論のみが延々と続いています。

小林秀雄の、その日が来たら自分は大義のために、国体に殉じるだろうな、
的な文章は、天山を越えての短編が入ってるアンソロジーで読みましたが、
それくらいしか読んでません。個人としての変節は生きるためだからアレですが、
ラーメンズのいうことを信じて「俺も(赤紙が来たら)従容と運命を受け入れるぜ」
みたいなわかものがたくさんいた、という前提で、
アジテーターとしての扇動責任を問うているのかしら、と思いました。

この人の頭を押さえつけられるとすれば、むうちゃんの人のヒモの、
じいちゃんの人だと思いましたが、青山さんが戦中何をしていたか記憶になく、
Wikipediaにも書いていませんでした。古物ブローカー、疎開、食糧調達以外、
何もしてなかったと思いますが… 

青山二郎 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E4%BA%8C%E9%83%8E

立花隆の、インタビュアーとしての属性、執拗な下調べへの絶賛、
商業ベースでそれが出来るか、やるべきなのかについて目をつむった箇所について、
秋山駿みたいな意見も上にありましたが、それ以外に、真っ向真逆に、
下調べなんかしなくても興味があればインタビューは成功する、
勉強不足に怒るほうが人間のキャパがちいさい、という意見もあり、
下記はその続きです。

頁304 島尾伸三
人間は自分の体系に矛盾を含んでいたり、解決不能な無能力さがあると騒ぐものなので、その人が怒っているのは「俺はわからない、助けてくれ」というサインなんです。ですから私はそういう場面に出くわすと、むしろなだめ役にまわります。怒られてるとは思わずに(笑)。生意気だけどね。

個人的にここはとても参考になりました。

この人がこの道を歩んだのは、こういうつながりもあったでしょうが、
東大ということで考えから外しがちですが、失われた十年だったり、
就職氷河期だったことも影響してるんだろうか、どうなんだろうか、と思いました。
どっとはらい