『極光のかげに ―シベリア俘虜記―』 (岩波文庫) 読了

極光のかげに―シベリア俘虜記 (岩波文庫)

極光のかげに―シベリア俘虜記 (岩波文庫)

関川夏央の下記著書に出てきて、読もうと思った本です。奥付には副題が記されていませんが、表紙や中表紙には明記されてますし、とりあえずこの読書感想にはつけました。

2018-09-22
『「世界」とはいやなものである 〜極東発、世紀をまたぐ視点』読了
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20180922/1537618066

読んだのは同年11月の三刷。もともとは1950年目黒書店刊。あとがきと文庫版あとがき有。

作者 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E4%B8%80%E9%83%8E
スメドレーとトムは真夜中の庭でが同一訳者のわざになるとは、今の今まで知りませんでした。

シベリア抑留は胡桃沢の黒パン俘虜記しか読んだことはなく、あれはあれでたいそう面白いのですが(そういうと不謹慎ですか)こちらは、作者がロシア語が出来るので(あとがきで、ペラペラツーカー立て板に水では無論ないので、そこは斟酌してほしいとしています)、収容する側徴用する側及びオブザーバーの、街の歩道で立ち話しただけのロシア人やポーランド人、バルト三国コーカサス人ヴォルガドイツ自治州人についての記述が漏れなく続き、そこが、貴重だと思います。作者は自分でも、ジッドほかのソ連訪問記と比べ、捕虜として労働した人間の記録として特色あるのではないかと書いていたような。さらに言うと、数十万人単位で俘虜として共産主義の洗礼をフィジカルレベルで受けた人間たちが帰国すると、日本社会にも変革を促さないだろうか、どうだろうかと考察しています。この考察は非常に鋭くて、学習レベルの進んだ連中がリーダーになって自主的に運営される帰還梯団が、三度の食事のさい、

頁343
ソヴィエトの同志よ さようなら
同志スターリン ありがとう
いただきます

と唱和してから食べるという場面なんかで、象徴的に、その後が分かります。最初のふたことはロシア語で、その後は日本語だとか。ロシア人が聞いたらアホか神格化の方向が違うやんけと突っ込まれるから、日本語なのかと。で、その学習の達者な連中が、リンチのマトを見つけては階級意識が遅れただなんだと言いがかりをつけて批判と自己批判を行う場面で、そこに見知らぬ老人が大佐の肩章をつけて収容所所長とともに現われ、学習が進んでもロシア語の説明がぜんぜんダメなので、作者が登場してロシア語で説明し、大佐が、そんな些末なこと(旧将校のいじめられっこが軍刀のツリガネを外し忘れていて、これはブルジョワ意識をいまだに保持している反動の証左であって帰国対象としてふさわしくない)に拘泥する日本人俘虜が分からない、帰国後の自由主義社会でどのような仕事をするか、またその多種多様な思想が混在する社会で、どのような政治信条を持ち続けるか、ナニ党に入党するのか、そういう自己の人生の重要な問題について討論しなければならないのに、槍玉を見つけては言葉によるリンチとはアホか。それは批判と自己批判ではない。大佐と収容所所長とは毎日相互批判と自己批判を行っているが、それがためますます親密にこそなれ、仲たがいするようなことは全くないと(頁346)ホントかどうか知りませんが、翻訳不可能な習慣や行動様式を作り上げてる時点で、ドメスのイドラじゃいかと(そんなイドラはないでしょうが)。以下後報。
【後報】
上記のようにりっぱなコミュニストを出してしまうと、賛否両論即勃発すると思いますが、頁191でも、例によって腕時計とか身体検査で巻き上げる横暴な収容所所長だかなんかに対し、護衛の軍曹が徹底サボタージュで対応し、あとで作者に対し、自分がそこまで口を出して踏み込むことは出来ないが、あの場は、コレクトな対応として、政治局員を呼んで、所長に腕時計や万年筆をとる権利はないことをはっきりさせるべきだった。でなければ少なくとも奴に事実証明書(アクト)を書かせるべきだった、と。まあこういうりっぱなコミュニストが粛清されずその後も生き残れたかどうかは確認しようがないわけですが。
別にソ連のほうが日本よりちゃんとしてるわけではむろんなく、頁69には、ノモンハン時の俘虜で、市民権も居住の自由もない日本人が、終戦後の旧関東軍俘虜たちの日本語を聞きに来たり、さようならを「左様奈良」と書くような故郷への手紙を託す場面があります。本人に落ち度はなくとも、書類の不備や紛失が一生祟る。同じページに、ドイツの俘虜になった後、たとえその後解放されて帰国してももうダメだろうと、ドイツ軍旗下にロシア人部隊を編成し「ロシアのためにスターリンと戦え」とのスローガンのもと祖国に銃を向けたヴラーソフ将軍というかつてのモスクワ防衛の英雄、党員司令官が登場します。戦後絞首刑になり、部下は銃殺もしくはシベリア二十五年の刑だとか。

頁122 密林の旅
 いつの間にか、私は子供たちの一団を従えて歩いていた。この町では、よほど日本人が珍しいにちがいない。
 女の子も全部頭髪を短く剃っているところを見ると、「子供の家ジェット・ドーム」の子供たちであろう。
(略)
 「常に備えあり!ガトフ・フセグダー
と彼らの合言葉を私が叫ぶと、
 「おじさんはコムニストかい?」
と言って見上げる。少し茶目ぶりを発揮して、私が、
 「同志スターリン万歳!」
と叫ぶと、ひとりの少年が、
 「スターリンはよくないよ」
と抗議した。赤いネクタイをした子供たちの集団からこういう言葉を期待しなかった私が驚いて、
 「なぜ?」
と尋ねると、
 「パンが少しだからさ」
と平然と答えた。
 ここは流刑囚の町かもしれない。あるいは田舎町の「子供の家」のこととて政治教育がなにひとつ行われていないのかもしれない。
 「この子は、日本人だよ」
 「ほんとだよ、この子の親爺は、日本人のブリキ屋だったんだ」
みんなが指さす少年を見ると、たしかに似ている。しかしこんなところに日本人がはいっているはずもないから、おそらくブリャート・モンゴールか朝鮮人だろうと思っていると、その少年は急に泣き出して群れから離れて行った。その泣声を耳にすると、私はひょっとすると、あの少年はほんとうに日本人かも知れないと思ったりした。他民族の子供は、こんな場合には泣かないのが常だし、たとえ泣いたにしても、あんなに悲しげではない。

散歩する自由は素晴らしくて、ほかのある町で、筆者は、とおりすがりに会話したロシア人から二十ルーブルを渡されます。文藝について会話した後、プーシキンのために、それでタバコでも買ってくれと。滅多にない現金を手に、作者が向かったのは書店で、自分の語学力におあつらえむきの薄いパンフレット(抜き刷りのようなものか?)を一冊買います。下記はその後語学コーナーを眺める個所。

頁255 イルクーツク
(略)それらの教科書をめくっているあいだに、私はその編集方法が日本の外国語教科書と全くちがっているのに気がついた。
 日本の教科書が、どちらかといえば、英語やドイツ語を通して、それぞれの国の風俗や習慣、伝説や文学を学ばせることを主眼としており、そこに登場する少年少女の名前もトムやジョージ、ハンスやクララであるのに反して、ソヴィエトの教科書は、それらの外国語で自分の国の生活を伝え、思想を述べることを目的としているようで、登場人物もピョートルやニーナといった具合である。
 たとえば、レーニンスターリンの簡単な伝記、スターリンの科学に関する演説、ピオニェールの活動、「赤の広場」の話、大祖国防衛戦争で活躍したパルチザンカの物語などが教材となっている。ソヴィエト同盟の新しい聖歌ギムンまで、それぞれの国語に翻訳されている。

これは中国でも全く一緒で、大陸国家ならでの国威発揚を四海に轟かせようと試みなのか、社会主義にとって語学という工具はこうした位置づけなのか、どうだろうと思います。日本の語学教育もある程度こうしないと、いつまでたっても内弁慶というか、ドメスと国際社会の二枚舌から抜け出せない氣瓦斯(もうやってるのかな?)中国で英語弁論大会覗いたとき、秋だったので、ウォーマーマズオダユエビンチェマダーダ、を翻訳しただけの、マイマダーメイドソウビッグムーンケイク、パティケイク$、みたいなのばっかりで、フルムーンセレモニーとかムーンケイク(=月餅)について詳しくなってしまう自分をそこに発見しておりました。
頁267、チトー批判にさいして、ポーランド共産党書記長兼副首相のゴムルカが追放され、ハンガリーの古参党員で外相だったライクがソ連兵の略奪に対する厳格な処罰を要求してそれが「ブルジョワ民族主義」になって殺される記述。ここで描かれる「スターリン崇拝クルト」を見ると、金親子崇拝、金孫崇拝は、あながち日本の宮城遥拝を模しただけでもないのだなと分かります。
頁231、窪川稲子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%A4%9A%E7%A8%B2%E5%AD%90
プロ文学から出発した彼女が陸軍報道部あたりの後援で南方慰問に行ったり、戦後はマッカーサー司令部を訪問するなど、どういうことだとインテリ捕虜同士の会話で、日本新聞という抑留者向け日本語新聞で情報を得てワーワー話して、女給は新客にはその都度笑顔、と辛らつに批判する仲間に対し、作者が、なんじらの中罪なき者先ず石を投げうて、と反駁する場面があります。人間は弱いものだと。

頁198 密林のはてに
 道連れを忘れて、私たちは高笑いした。その高笑いに反撥したのか、クットニイ少佐の妻が私たちを顧みると、意地悪く言った。
 「日本語って、きたないね」
 私はむっとした。少佐に対する反感も手伝って、すぐ反撃に出た。
 「あなたはまるで文盲者のように話しますね。ロシア語はきれいな言葉で、日本語はきたない言葉だとでも言いたいんでしょう。あなたにとってロシア語が美しいように、僕たちには日本語にまさるものはないんだ」
 「とにかく私は日本語がきらいだわ」
 「いまはじめて、あなたは正しく話しましたよ。あなたが日本語がきらいなように、僕はあなたがきらいです」

頁278、絵画芸術に興味があると劇團のカキワリ担当者に話したら、何故か政治画や戦争の絵ばかり並べた場所に特別に閲覧を許され、満州派遣ソ連軍司令官マリノフスキー元帥が幕僚とともに旅順港を見下ろす絵を見る場面。

頁278 イルクーツク
 その絵を眺めていると、一九四五年の夏に満州で経験したすべての記憶がよみがえり、私の胸は屈辱感でいっぱいになるのだった。
 「明朝六時までにこの町を退去しない日本将兵はことごとく俘虜と見なす」
という意味のマリノフスキイ元帥署名の布告が、ロシア語と中国語の両方で電柱という電柱に貼りつけてあったハルビンの町、大隊本部の窓際にいつまでも聞えていたタイピストの嗚咽、豪雨の中で武装解除を受けた香坊、時計を奪われ防雨外套を奪われながら幾日も幾日も雨のなかを足をひきずって歩いた行軍、夫を連れ去られた開拓団の女たちが毎夜の悪魔から救い出していっしょに連れて行ってくれと泣き叫ぶのに耳をふさいで通りすぎた横道河子、朝鮮人たちが手に手に紙の小旗をもって「ソヴィエト軍万歳!」を叫んでいるなかを行進させられた海林、海林へおちついてから穿いていた長靴をソヴィエト兵に要求されたのを拒否したために即座に射殺された日本の下士官
 堪えがたくなって、私は画家をうながした。
 「帰りましょう」
 会場を出ると、画家がたずねた。
 「どうだった?」
 「たいへんよかったです」
と私は答えた。


この本の最終章は「帰還」ですが、その前の章は、「ホルスト・ヴェッセルの歌」です。頁335、吉野源三郎君たちはどう生きるか』そのままに、作者は親しくしていた谷本という男が、公然とスターリン批判を口にしていたため、反動として公開吊し上げ、公開批判されるさいに、ひとり前に出て谷本を擁護することなぞ出来ず、集会のなか、ほかと同調して革命歌を歌ったりする場面があります。
そして夜、自分の卑劣を恥じ、猛烈な自己嫌悪のなかで、人に見られないよう気を配りながら谷本に謝罪に行き、許しを乞うて、谷本から慰められる場面があります。冒頭で、ナチスドイツ制作の反米映画が、吹き替えられてソ連の反米映画(ボーア戦争を扱っている)として収容所で上映される場面があり、ここでまた、スタインベック原作の怒りの葡萄がロシア語に吹き替えられて上映される場面があります。作者はアプトン・シンクレアを想起、少なくとも自国の至らぬ点を批判出来る、「わずかでもより多く自由な世界がどこかにあるはずだ」と思うです。そしてある不寝番の夜(収容所の囚人なのに不寝番の立哨任務がある)口笛で、ナチスドイツの党歌ホルストヴィッセルを吹きならしながら広場を横切る影を目にします。
私はこの歌を歌ったひとの気持ちの解釈を、作者と一つにしませんが、ここにこの歌を置いた作者の感傷は理解します。以上
(2018/10/7)
【後報】
天童

挿絵 内田巌
「小序」渡辺一夫 

私は当初、反共ノンフィクションなので、渡部昇一が序文を書いたと思い込んでいて、左が強かった頃は、ワタナベセンセーもおっかなびっくり書いたはったんやなあ、と感慨深かったですが、それは間違いで、渡辺一夫センセは、左にシンパシーがあった人だそうで、だからこそ、はれものにさわるような序文だったのだなと。そして四季・奈津子は、渡辺淳一センセでなく五木寛之失楽園の反対は極楽園。

渡辺一夫 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%B8%80%E5%A4%AB
渡部昇一 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80
渡辺淳一 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B7%B3%E4%B8%80
四季・奈津子 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%AD%A3%E3%83%BB%E5%A5%88%E6%B4%A5%E5%AD%90
(同日)