『続こしかたの記』(中公文庫)読了


←本に挟まってた
 新聞広告の切り抜き。
 こんな顔の人なんですね。
 この広告は文庫のほうですが、
 単行本を書き上げた時、
 八九歳(昭和四二年)
 だったとか。執筆期間十年。

『革命的飲酒主義宣言』*1に出てきた本。
正編より個人的に全然面白かったです。
正編は、幼少期のおもひで主体で、
明治の江戸の、長屋なんだか武家屋敷
なんだかさっぱりな、神官の家というのが、
どうにも摑めなかったのと、
苦労してるはずが、すんなり画家になって
たつきの道が開けてゆくかのように
淡々と書かれているので、
ホントに白鳥は水面下で激しく水を掻いていて、
それを全然外部に見せないんだな、
だから天才はこわい、と、
この続巻まで読んで改めて思いました。

要するに正編は回想対象年齢が遡り過ぎてるので、
人格形成が出来てなかったころを、
うまく表現出来なかった。事実関係の、
史料的価値としては優れているけれども、
おとなの人間の、出来上がった感性を、
そのまま描ける続編のほうが、だから、
スケッチとしても引き込まれ、感動出来る。

正編読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20151220/1450558220

つまりだもんで、大人になってからの心境や物の捉え方、
ロジックを書いているこの続巻のほうが、私にはなじめました、ということです。
銀の匙より徳富蘆花泉鏡花金沢八景、金沢の別荘と、新宿郊外矢来町の家の描写が、
みずみずしかったり、時として、大好きな泉鏡花っぽい幽玄あやしげで、よかった。
下記は作者が矢来町の前に住んで、雑司ヶ谷までよく散策した本郷龍岡町の描写。

頁32
 無縁坂の名ある所以は知り難いが、そのころ、本富士警察署について鍵の手なりに二曲りして池の端へ下りる。やや急勾配の坂を云う。医科大学の通用門に並んで、旧加賀藩時代の海鼠壁の建物が、道の左側に続いていた。その曲り角の柱には、刳り取ったような夥しい刀痕が、その時にもまだ生々しく見えたのである。武家長屋には、俗に曰く窓と云った、その文字の形をした窓があるのに、何の謂れか加州藩に限って、壁に窓を明けてない。古来盲長屋と云われていた。河竹黙阿弥の作に「盲長屋梅加賀鳶」のあるのは劇に委しい人は知っていよう。
 たださえ淋しい屋敷町に、隙洩るともし火の光りもない真の闇、どういう心理に誘われてか、ここへさしかかる侍が、道ばたの角の柱に切りつけたものではなかったろうか。

作者も触れてますが、この辺りは森鷗外『雁』の舞台だったそうで、
時代としても重なってるのだそうですが、雁のほうに、こんな雰囲気はないです。

雁 森鷗外 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45224_19919.html

また、本郷龍岡町で画像検索したら、織田一磨という人の絵がヒットしましたが、
刀痕がいくつも残る、といった文章の余韻とはまた異なったふいんきです。

和歌山県立近代美術館 > 館長のおススメ― 3月の一品 織田一磨《本郷龍岡町》
http://www.momaw.jp/message/cat80/kumada-recommend201402.php
(いつの年の三月の一品か分かりませんが、URL的に、2014年三月かな?)

その本郷龍岡町の銭湯の描写。

頁33
 入口に幹の太い梧桐の立ち並んだ浴場は、町なかの銭湯と全く趣が違っていかにも山の手の風呂場らしく、真昼時にゆくとめったに相客はなく、流し場は白く乾いて、自分が浴びる風呂の湯に、はじめてあたりが濡れる。空寂たること山の湯に浸る思いがする。
 秋寂びて、梧桐の葉を振う頃ともなれば、濡手拭を提げて湯屋の門を坂道へ出ると、岩崎の土塀に絡む真赤な蔦の、天狗の羽団扇とも見えるようなのがカサリと音を立てて足もとへ落ちてくる。

屋根が高くて、あかりとりがじゅうぶんにある浴場が思い浮かびます。
じっさいは、どんな浴場であったのか。

挿絵という縁もあるにせよ、鏡花の熱烈なファン&友人でもある作者の感性について、
作者の自己分析の一箇所。

頁100
 腹からの都会人でありながら私は昔からよくいう諺の「京に田舎あり」この言葉をいつも心に留めていた。江戸の血筋を引く東京人にこういう矛盾したような注文をつける癖があるようで、友人の先代鳥居清忠さんなども、内に居れば閑静で、戸外へ出れば賑やかなところを望みにした。今私の住む鎌倉雪の下もそうした理想に近いところと云ってよかろう。そのころの市外であった雑司ヶ谷に仮の塒を求めたり、また久良岐郡の金沢に強く心を惹かれたり、今では古都の鎌倉に根を下したのも、やはり京に田舎を求めたがる心からなのであろう。

本文の随筆群について、作者は、自分が心酔した紀行文を、頁187で上げていて、
検索したら、下記スキャニングが見つかりました。でも読むかどうか。タブレットないし。

近代デジタルライブラリー
田山花袋 名張少女
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/885892/5
大橋乙羽 千山万水
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762112/140
川上眉山 ふところ日記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888102

あと、徳富蘆花の水郷描写にもあこがれたそうです。

新宿矢来町の家を夜蕾亭と名付けたりするのも面白かった。
『続こしかたの記』は、昭和十九年〜二一年の疎開日記と雑編で終わりますが、
さいごの疎開日記は、茅ヶ崎から御殿場までの逃避行に横浜空襲、平塚空襲の描写が重なり、
筆も崩れ漢文調となり、それまでの文章と異なった、けばだった、トゲが刺さってきます。

頁256 昭和二十年 *「照」は筆者の妻。
五月二十九日 曇、午前一時頃サイレン鳴る。B29一機相模湾を入り横浜より三浦半島へ出づと、午前六時頃また殆ど同方向偵察、この方面に今日何かやるにあらずやと二階の戸あけず、次いで警報出で午前中に戦爆連合六百機横浜、川崎を襲う。大火災を起し門のところより天に冲する濃き煙の大震災の時の雲の如きを見る。肇来り、小泉信三氏の焼夷弾にて火傷し、慶応病院に入り内臓に故障なくば命とりとめんというほどの重篤なりときく。憂い限りなし。夕刻電報来る。照宛てなるに、もしやと思えば果然高井戸姉の危篤を知らす都筑よりの電報なり。東京への交通未だ開けざる今なれば電報にて行かれぬ旨いいやる。局受けつけず。姉の一生不幸なる人なりし。
 五月三十日 清子来り、当所に別荘ある昆田さんより二十五日夜半の空襲に我家、清子、泰子の家も全焼せることをきく、予家の焼けたるを聞き遂に焼けたかと思いたるだけにて格別の感もなきよう思いいたるが、夕方下画つけたるあとを片付けたる後急にくたびれ筋のぬけたるようなり。自分には心つかねど家をうしないたる衝動やはり心身にこたえたるものならん。

六七歳くらいですかね。戦後じゃないから、年金制度はなかったろうけど、
(だからこそか)持ち家焼けて、がっくり来ない人はいないだろうと。

前巻を読んだ時には、正直続巻読まなくていいかなと思いましたが、
読んでよかった。鎌倉の記念美術館、正月明けに行ってみようと思います。

鏑木清方記念美術館
http://kamakura-arts.or.jp/kaburaki/index.html

あと、作者の名前を「きよかた」でなく「せいほう」と読んでました。
家人に指摘されて気がついた。「せいほう」を、変換すると、栖鳳と出た。
こっちはそう読むんですね。以上
【後報】
で、元日夜、相棒見てたら反町(たんまちではない)の役名がカブラギで、
ほほうと思いました。以上
(2016/1/2)