お孫さんとの
写真もあります。
装釘 林佳恵
編者須田正一が、
没後に他社の
未収録随筆集にも
未収録の随筆を
編んだ三部作の
ひとつ、です。
ほかは、
「女へんの話」
「居酒屋にて」
色、食、酒と、
わかれてるのか
というと、
色はそうでしたが、
食はそうでもない。
酒はこれから
読みます。
- 作者: 奥野信太郎
- 出版社/メーカー: 論創社
- 発売日: 1982/06
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住、玩、なんてテーマでも編めるほど、エッセーを重複せず書かれていたのかな、と思います。
頁35、大正時代の東京力士の大相撲、しこ名だけ見ても、だいぶ今と違うな、と思いました。
常勝将軍太刀山、玉椿。幕下十両には、現在ではプロレスなどにいるような、
愛嬌のあるトリックスター、作者によると和気満堂型の力士、電気燈、寒玉子などの名があり、
しこ名でこれはすごいと思いました。
頁40、立花家歌子というすばらしい美人の寄席芸人が、あとで岡鬼太郎の思いものになった、
とか、演芸場や劇場しかない頃のゴシップをよく覚えておられるなあ、と思いました。
岡鬼太郎(きたろうでなく、おにたろうと読むんですね)Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%AC%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
立花家歌子は、単独のWikipediaがなく、しかしあちこちに名前が出てきます。検索すばらしい。
岸沢式多津 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%B2%A2%E5%BC%8F%E5%A4%9A%E6%B4%A5
女道楽 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E9%81%93%E6%A5%BD
蜃気楼龍玉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%83%E6%B0%97%E6%A5%BC%E9%BE%8D%E7%8E%89
頁115 京劇の発展と梅蘭芳 昭和35.6
京劇は正しくは西皮二黄戯、略して皮黄戯ピーホワンシーと呼ばれる演劇であって、今からおよそ二百余年以前すなわち乾隆二十五年(一七六〇)安徽省の三慶班、四喜班、春台班、和春班の四劇団が、はじめて北京にもたらしたものであった。その後この安徽の演劇は宮廷を中心とした北京人士の趣味と生活によって次第に洗練と彫琢を加えてゆき、ついに今日の皮黄戯すなわちいわゆる京劇を大成したのである。したがって安徽出身の俳優の北京劇界における勢力は、長い間他を圧して強いものがあった。はやくから宮廷内に昇平署という俳優養成所が設けられていたが、この指導者たちはいずれも安徽出身の俳優が多くこれに当っていたことも、かれらの劇界における勢力を大にする所以の一でもあったのである。
北京外城にある精忠廟は往昔俳優ギルドの会館のあったところであるが、その境内にある重修喜神殿碑は道光六年(一八二六)に建設されたものであって、建碑世話人の程竹翠は安徽人であり、出資の戯班は徽班すなわち安徽劇班が多数を占めている。また崇文門外の春台班義園は同じく徽班の一である春台班が、安徽出身の劇団関係者のために設けた無料共葬墓地であることなどからも、いかに安徽出身の劇団関係者が長く北京劇界に大きな勢力を有していたかということが察知され得るであろう。
最近安徽のヴィッキー・チャオの映画観たりしたもんなので、興味深く読みました。
安徽省出身者は、上海では夜鳴きワンタンの屋台とか、ゴミ回収とかのイメージがありますが、
こういう面もあるんですね。京劇というと、私はカンゴ・ロンゴの下記著作積ん読のままです。
- 作者: 加藤徹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2002/01/01
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- 作者: 加藤徹
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頁125 楡と槐樹と柳の都 昭和35.6
自由に散策のできた中南海公園は、いまは絶対にはいることができなくなった。それはここに政府の中枢の役所があるからだ。だから聴鴻楼も、流水音も、卍字楼も、すべて一般の人々がはいることはできない。ぼくたちが周恩来総理と会見したときだけ、わずかに紫光閣に参入することが許されただけである。
紫光閣といえば、ここは清朝以来、皇帝が外国使臣を謁見する宮殿であった。その場所を使って中華人民共和国の総理が、東夷西戎南蛮北狄の客人を接見するのも、たいへんおもしろいことである。ただし昔は玉座があったが、いまは玉座だけはとり除いて、総理もわれわれと同じ平面に坐るが、場所だけは正面の、もと玉座のあった跡である。
ぼくは昔はよく外城の陶然亭のあたりに散歩にいったものである。外城もこの辺までくると人家も稀れに、一面に葦の生いしげった湿地帯で、季節によってはヨシキリが鳴いたり、モズが囀ったりして、ほとんど人にあうこともなく、一路陶然亭にたどりつくことができた。
中南海が開放されてたのは北平時代ってことだと思うので、
どこまでその感覚が共有されてたかと思いますが、辛亥革命から光復までのあいだ、
滞燕した人ならそうなるのかな。陶然亭は昭和35年のこの文章では、スポーツセンター、
と続いてますが、あまりそういう記憶はないです。
作者のように漢籍に通暁していると、頁157、疲倦に過ぎて、なんて言い回しも出てきて、
“疲倦”なんて中国語だろうと思っていたので、日本語の形容動詞にもあって、
受ける動詞は「過ぎる」なのか、知らなかった、と思い、検索すると、
中日辞典しか出てこなかったです。漢籍のビッグデータはいまだ道半ばですね。
疲倦の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典
http://cjjc.weblio.jp/content/%E7%96%B2%E5%80%A6
頁161 今は昔の銀座酒場 文春 昭和25.6
(戸川秋骨のはなし)秋骨は一滴も酒を嗜まなかった。少しでも酒をのむと病気になるというくらい、酒とはおよそ縁がなかった。そのくせ酒席は非常に好きであった。食いしん坊でもあったからうまいものは大好きであったが、うまいものがあって、人が楽しく酔っている酒席なら、何時間いても飽くところがなかった。秋骨のいううまいものというのは、ごく単純な、しかも酒のみの嗜むようなものが大好きであった。たたみ鰯や、茹でたはしりの蚕豆には心底から眼のない方であった。
だから妙に凝りすぎたあるいはとりすましたところのあるような食味はこれを極力軽蔑していた。たとえばそのころの井上世外の厨房で料理番をしていたという男が、麻布に沖津庵という一割烹店を開いたのであったが、ここの料理はその妙に凝った、いわゆるとりすましたところがあるものだったので、あの鳥の擂餌みたいな沖津庵の料理は、井上世外がよぼよぼの爺さんだった所為だろうと、秋骨はよく一流の皮肉をとばしていた。
酒を嗜まないで酒席の好きな秋骨は、だからそういう場所では食い気一方であったが、酒場ではオレンジ・エードであり、レモン・スカッシュであった。これは酒場にとってはむしろ外道の御客であったにちがいない。
原価率とかそういう面で、酒を頼まないとそうなりますかね。
ノンアルも頼んでみると、高いなあ、と思ってしまいがちです。
自販機やスーパーと比べちゃいけないんですが。ほんとに。
頁181 伝説と因縁の墓 東京新聞 昭和32.7.13
ジェームズ三木と前田敦子でお馴染み八百屋お七のお墓。円乗寺の境内も以前はよほど広かったらしく、その辺の人家の土台石には大分古い墓石とおぼしき石が使われていた。あんまりぞっとしない話である。
門前に某菓子屋の看板あり。いわく“恋よりあまいお七羊羹”。
奥野信太郎先生もカッコと句点を重ねるのか… 石の話は、安土城や文革後の中国では、
よく聞きますが、灯台もと暗し。明治以降の都内にもそういうことがあるのか。
この辺は前にも行ったことがあるので、今度行ったら、ついでに歩いてみたく。
頁208 風景について 昭和27.8
昔の漢学者たちが江戸の地名を一々中国ふうに書きかえて喜んでいたのなども、たしかにその他愛なさの一つといえばいえることであろう。不忍池が小西湖、小石川が礫川、目黒が驪山お茶の水が茗渓。牛込見付が牛門となると、そういう字づらから、発散するなにか中国ふうの雰囲気を感じて、そこにいうにいわれない快楽を楽しんでいたことがよくわかる。“このたびは品川の方にお引越しになりましたそうで”“はい、一里あまり唐土に近くなりました”という笑話も、こうした漢学者たちの他愛ない趣味をいやかしたものであろうが、考えてみればこういう子供らしさは江戸時代の漢学者ばかりではなく、現代の日本の文化人たちにだってずいぶんあり得ることなのだ。麻布の六本木から飯倉までの街路樹がマロニエだったということを発見して、すっかりころころして喜んでみせたフランス語の先生があった。マロニエなんて普通の樹で、なにも六本木から飯倉にかぎったことではなく、上野公園にだってどこにだって東京の市中にはたくさん街路樹として使われているのだが、このフランス語の先生はたまたま六本木から飯倉の間にいたるマロニエにはじめて気がつき、それがただちにパリを連想したことは明かである。もうそうなると他の条件、たとえば通行している人間の服装や、周囲の建物のまるで似もやらぬ格好や、空のいろや言語や、そういうものが全然別種のものだなんていうことは問題でなく、東京即パリとなってしまう。僕はしかしフランス語の先生の無邪気さをけっして咎めようとは思わない。世にこんな楽しい、度はずれな他愛なさはないからでもあるし、また正直にいうと僕にも十分この否定癖があることを自覚しているからでもある。
潮来へいったとき、僕は蘇州城外の風景を思いあわせた。蘇州城外の運河風景を知らないで潮来へはじめていったとしたならば、あるいは僕の潮来に対する興趣はあれほど深くはなかったかもしれない。よし深かったにしてもそれはまったく別のものであったことだと思う。ところが運よくかわるくか僕は蘇州の風景を知っていた。知っていたことがマロニエだけで東京とパリとを直結したフランス語の先生と同様、僕もまた蘇州城外と潮来とを直結して考えた。実をいうと蘇州城外の風景を一番よく連想させるところは、潮来までゆかないその途中の方だと思う。すなわち佐原の町を出て水郷大橋をわたってから、牛堀までの間の、まだ川幅がそれほど広くならないところが僕にはなんともいえない蘇州風景としてうけとれるのである。あいにく佐原の町には蘇州の古い町のようなおちつきもなければ、ことにあの閶門附近のような石畳みの路を、馬蹄の音高く馬車でゆく情緒などとはさっぱり縁がないけれども、大橋をわたってしまうといかにも城外に出たという感じがはっきりとして、それから右手に延々と水をみてゆくあの間というものが、樹のたたずまいといい、雲のゆききといい、それは実にぴったりと蘇州城外そのままである。
私も潮来に行ったことがあり、そんな感想は抱かなかったので、えーと思いながら読み、
上流の佐原の方は行ったことがないので、ほっとしました。(佐原市内はある)
さっき書いた、安土城のあたりの、琵琶湖近辺のほうが、まああそこも魚米の郷ゆうてますし、
太湖のあたりと似てる気がします。
頁214 無精ものの旅行 日本経済新聞 昭和33.2.18
ぼくはもともと無精に生れついていて、だから健脚を誇って山野を跋渉するというような趣味は少しももちあわせていない。なろうことなら便利な乗りものを利用して、できるだけ閑静な、あんまり人にも知られていないような土地にいってみたいと、はなはだ虫のいいことを念願としている。
同感です。
頁321 大正文人と中国 昭和42.4
これは余談になるが、一九五三年、わたくしは安倍能成先生たちとともに、中共に招かれて久しぶりに中国を訪れた。
その際、中国作家協会の招宴で、わたくしはたまたま田漢と卓を同じくした。田漢はわたくしに向って、往年日本にいたときのことを、いかにもなつかしげに語り、村松梢風の近況などをたずねるのであった。そして彼の談は、梢風とともに流連荒亡したことなどに及んだので、わたくしは、すべて革命の教条主義が万能になりつつある当時の中国で、なんら懸念することなく逸楽の日々を回想する田漢の勇気に驚嘆したものであった。しかし今日からみれば、まだ一九五三年ころは、中国もはるかにおおらかであったことを思わずにはいられない。
田漢も今回の文化大革命では、もののみごとに顚覆させられてしまったが、かれのゆきかたとしては、むしろ当然すぎることであったろう。
あっさり書くなあ。
田漢 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%BC%A2
頁252、東京新聞昭和28.12.4で、影響を受けた本として、“みほつくし”をあげていて、
検索してWikipediaの澪標*1を見ると、
外村繁の小説とありましたので、青空文庫で読んで、えーっ、やっぱり女の人好きなんだなあ、
と思いましたが、よく見直すと、Wikipediaにない、上田敏訳“みをつくし”でした。早合点危険。
以上
国会図書館近代デジタルライブラリー - みをつくし
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876471/5
【後報】
頁277に、武者小路実篤に描いてもらった色紙として、
この道より
我を生かす道なし
この道を歩く
を挙げていて、「この道を歩く」がすばらしい、としています。
で、この文句、どっかで見たことがあるな、と思ったら、
山止たつひこの色紙シールでした。
(2016/6/7)