『天才と狂人の間―島田清次郎の生涯』 (河出文庫)読了

鳥井信治郎の伝記『美酒一代』を読んで*1、作者のほかの伝記も読もうと思い、
借りた直木賞受賞作。
カバー装幀 巖谷純介 フォーマット 粟津潔 解説 川村湊

杉森久英 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%A3%AE%E4%B9%85%E8%8B%B1
島田清次郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E6%B8%85%E6%AC%A1%E9%83%8E
この生涯はどっかで読んだぞと思い、記憶を探ると、私もやはり、
後続の評伝作者同様、ヤンジャン絶頂期連載の、
栄光なき天才たち』で読んでいたのでした。

後続の評伝。掌中にせんとする女性(おさな妻候補)への暴力と支配欲の場面を読んで、
(かたときもふところにしのんではなさない短刀をふるう箇所など)
ブルーハーツの殺しのライセンスを思い出しました。ヘビとかいやや。

しかしこれはないわ。プリ入れたファンレターの中から、
家柄とかまで吟味してから漁色する鬼畜ぶりには普通に引きます。
著者は、島田は祖父が置屋を始めたその中で育って、
女性に対する感覚が商売もんを扱う感覚になってたのではないか、
と一論述べてますが、再婚して衣食住の安寧を得た母のところに、
ズカズカ入り込んでその結婚をブチ壊しにして再び困窮に追いやるあたり、
母をまずコントロールして、同様の態度を他の女性(年下とか)にも取る、
そういうことではないのかとも思いました。なんだかなあ。

執筆時存命中だったからか、ぶつぎりにしか登場しない、
DV被害奥さんのその後の場面が、いちばん気がかりで、心に沁みました。

頁163
数年後に豊子は、彼女の過去を全部知って温かく愛してくれるある男のところへ再嫁した。子供は何も知らされず、その男の子として育てられた。頭がよくて、目鼻に島田清次郎の面影をしのばせたが、性質は温和で、狂気の痕跡もなかった。成長して早稲田大学の理工科に学んでいたが、昭和二十年八月十五日、終戦詔勅から数時間後、路傍に倒れて死んだ。その時以来彼女は、自分の一生は何かの間違いであって、もはや何時終わりを告げても惜しくないと思うようになった。

目の前がまっくらになる時はまっくらになるものです。

頁151
 四十年も過ぎた昭和三十五年頃、五十幾つになった彼女は、ある日ふと雑誌で室生犀星の小説を読み、その中に金沢の町が美しく描かれているのをなつかしく思った。過ぎ去った日のいろんな思い出が一度に湧き起こった。考えてみれば、彼女の中にはじめて金沢という町への憧れが生まれたのは、犀星の詩や小説によってであった。彼女が「地上」に心惹かれ、その作者に手紙を出そうという気になったのも、犀星によって彼女の中にうつくしく写し出された金沢の幻影への憧れがすでにあるからであった。いや「地上」の読者の何分の一かは、前もって犀星によって金沢への招きを受けていたと言っていいかも知れない。いずれにしろ、彼女を金沢へ、そしてあの地獄へと案内したのは犀星であった。彼女は一度犀星に会って恨みを述べる必要があると思った。

けっきょくどうしたのでしょう。会ったかどうか書かれてない。

頁57、沐猴ニシテ冠スは検索しました。

沐猴にして冠す(モッコウニシテカンス)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%90%E7%8C%B4%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E5%86%A0%E3%81%99-645853

頁74、呵々 この、笑いの擬音語のニュアンスは、日中で違う気がします。

評伝の主人公に関しては、特にないです。女性に手を上げたら、あかん。

頁93
林はまず「地上」の成功に祝辞を述べて、
「お母さんもさだめしお喜びでしょう」
 途端に島田は、
「そうです。しかし母は、僕がどれくらい偉くなったかを、よく知らないだけに可哀そうなものです。実際、総理大臣より偉くなったんですがねえ」
 林は次の言葉に窮したけれども、持っていった「アカシヤ」を出して、
「僕たちもこのごろ、こういう同人雑誌を作って回覧したりしていますが、何かと一つ、よろしくお願いします」
 島田はすかさず、
「僕のように成功すると、それに刺激されて、君たちも真似するようになったというわけでしょうね」
 林は返事のしようがなくて、あわてて暇を告げると、外へ出て、ぺっと唾を地面に吐いた。

頁104
 彼はいつも梅毒の恐怖に脅えていた。父か祖父か、どちらかからか病毒が遺伝されているかもしれないという不安が去らない。彼は自分の気質が、人に比べて感情に激し易く、苛立ち易く、円満なところ、温和のところに乏しいことをよく知っていた。それは不幸な境遇に成長して、いつもほかの者の蔑視に耐え、他を凌ごうという焦慮から来たものであることは自分でも認めていたが、また生来の遺伝的な気質の欠陥のせいであるかもしれぬと疑った。
(中略)彼は前年帰郷した時も病院へ行って血液検査をしてもらったが、今度の帰郷でも、まっ先に金沢病院で検査してもらった。結果はやはり陰性であった。彼はいくらか気が休まった。

彼は零落後、若年性痴ほう症発症、誰も養い手がないので、
国庫負担の公費患者として、蘆原将軍の書生となり、

頁223
 彼はときどき新聞や雑誌を読んだり、自著「我れ世に敗れたり」のページを繰ったりして、思いに沈んでいたが、そこには往年の傲岸不遜の影は微塵もなく、ただ打ち挫がれた者の淋しい姿があるばかりだった。彼は医局員に対しても、同僚の患者に対しても、ただ謙遜で、丁重で、お辞儀ばかりしていた。

で、三十一歳で死なはります。

こういう人がまわりを巻き込むのは世の常で、妹を毒牙にかけられた兄の部分など、
作者は平等に叩いてるな〜と思いました。

頁190
砂木茂男はいかにも良家の育ちらしく、善意と誠実と正義感にあふれた純情の人で、およそ故なく人を憎悪したり嫉妬しない人であった。彼がいつまでも作家的地位を築くことのできなかったのは、才能が乏しくて佳作を書かなかったからでもあったが、また他の文学志望者のように、是が非でも文壇へ出て、名声を得たいという執念に欠けていたからでもあった。いわば彼は古風な作家気質の持ち主であった。いつかすばらしい傑作を書くことは、彼の終生の念願だったけれど、それは名声を得るためでも、地位を築くためでもなく、ただ傑作を書きたいだけであった。その当然の結果として、彼は名声も地位も得られなかったが、同時に彼は、餓鬼のように名声と地位にあこがれて、何とかして文壇へ出ようとあせる世の文学志望者を軽蔑することも深かった。たとえば島田清次郎がそれであった。そういう成り上がりの田舎漢いなかもの文学者に妹を傷つけられたことは、彼にとって耐えられないことだった。

ルビがあるのですが、いなかものぶんがくしゃ、と読めずに、
ついつい、いなかかんぶんがくしゃ、と空目ってしまいます。以上