『女は下着でつくられる』 (鴨居羊子コレクション 1 ) 読了

女は下着でつくられる (鴨居羊子コレクション)

女は下着でつくられる (鴨居羊子コレクション)

著者を写したカラー写真一枚と著者直筆の絵が数点巻頭にあります。

装幀 澤地真由美
写真・図版提供 牛島龍介 ←解説によると、著者の興した会社、チュニックの代表取締役とのことで、検索したら現在でもそうでした。
http://www.tunic.co.jp/company.htm

写真の著者は著者自身の言うとおりパツキンですが、思ったより明るくなく、当時の脱色技術による、明るくした程度の髪という感じでもあります。その写真では。

わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい (ちくま文庫)

わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい (ちくま文庫)

上記の、さいしょの刊行、1973年三一書房版と、1991年日動出版部刊の自伝エッセー『わたしのものよ』を収録しています。図書館で、上記ちくま文庫が貸し出し中でしたので、こちらを借り、わたしのものよには、京城時代の思い出も収められているので、なんぞ掘り出しエピソードがあるかなと思いましたが、特にありませんでした。平均的なコロンの追憶というか。

頁378、白白教事件。あとはオンドル生活やスケートリンクについて語る個所などか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%99%BD%E6%95%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6
どちらかというと金沢生活の想い出のほうが野趣に富んでいます。

頁314
 母はなつかしい家伝来の長崎風鯛茶をつくる。オランダ料理と日本料理のミックスのようなごってりとバタくさい味だ。

金沢ですが、ルーツは長崎という。頁301にはどじょうの蒲焼きが金沢名物として出てきます。食べてみたい。頁300、作者の名前は、ヒツジに子で、珍しいと思うのですが、本名は洋子だとか。

頁300
「わたしの名は洋子。太平洋のように心がひろい」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B1%85%E7%BE%8A%E5%AD%90
https://kotobank.jp/word/%E9%B4%A8%E5%B1%85%E7%BE%8A%E5%AD%90-1067278
http://honu01.wixsite.com/tunic

頁276
「母はいったいどこへいったのでしょうか?」
「あの世っていったい、あるのでしょうか?」
 若い浄土真宗の坊さまはひどくあっさりと答えた。
「あの世はありませぬ」

頁276は、『わたしのものよ』ではなく、『わたしは驢馬に乗って下着を売りにゆきたい』でした。あっとういま。

河出のアンソロジー『ほろ酔い天国』に著者のエッセーが収められていて、それで単体で読んでみようと借りた本です。

2018-08-19『ほろ酔い天国』 (ごきげん文藝) 読了
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20180819/1534693167

ロバは、文句なしに面白かったです。実際にサクセスした人の立志伝は重みがある。

記者時代のエピソードがおもしろい。戦前は外国航路の事務長だった人が、海外で覚えた競馬を飯の種に、競馬記事を書いている話。西宮の彼の洋式屋敷に行ってシャンペンをごちそうになって、ヨーロッパ人はこんなうまいものを吞んでいるのかと思うと、実はこれはラムネを焼酎で割ったものだと種明かしをされる頁20。鄢タイツの膝に白く光るガラス球(イミテーションダイヤモンド)を縫いつけて穿く頁39。産経新聞デスク時代の司馬遼太郎との交流も描かれますが、笑ったのが、社の女性記者の先輩である山崎豊子との交流。カネを借りるわけで、スカッとした女の友情譚ですが、それとは関係なく、糸へん企業のアバンギャルドとして登場した彼女が、山崎豊子のバックグラウンド船場を、歯に衣着せずにバッタバッタと浪花節なんぼのもんやねんドアホと斬ってゆくくだりが痛快至極でした。
すごいんですよね、島耕作並みの運を持っているというか、東レの後援をもぎとるくだりとか、漫画化したら女島耕作としか思われない。パンティのことを執拗にパンティスと書きます。パンティ好きのがきデカが見たらなんというか。死刑。そごうの展示会にこぎつけるくだりも島耕作。各新聞社の展示会紹介記事の中で、「A新聞」が、ミスリード記事、鴨居羊子の思惑と百八十度反対の思想で紋切り型の定型文をお茶の間に届けてしまったバカバカしさ。いかにも朝日らしいなーと思いました。社会の木鐸による褒め殺し攻撃。赤字覚悟だが黒字が夢よの展示会が、諸事情から一発逆転、大口契約による黒字ばんばんざい泣いてうれしがるも大口の一部は黒社会の没義道恫喝で取らぬ狸の皮算用となってしまう。このへんジェットコースターで実に読ませます。会社辞めて無職から始まって、よくもまあ危機と苦難とその脱出の連続が続くものだと。ジェットコースター。

頁106
 正月三日ごろから、私は新しい飛躍と気分一新のために、事務所をさがしはじめた。
 場所は絶対に、船場、丼池、久宝寺の伝統的な繊維街からはなれたかった。この街がもっている“大阪の商売”というものが好きでなかった。量から量へ走って質を忘れている商売を私は否定していたし、老舗とか、のれんとか呼ばれる硬化した努力主義や、戦時中の精神主義に通ずるような信用第一主義やお客様第一主義に大いに反撥するものがあったからだ。またあの喧騒の中では、私の望む沈潜など、とても出来そうもないと判断したからである。あそこでは一メートルの布地の質を上げることより、また一〇パーセントのセンスを上げることより、目先のお客様の発言に右往左往し、百メートル、千メートル、一万メートルと量に目がくらんだ毎日がつづいている。それにまぎれこむことはさけたかった。

最初の事務所は四号室で、

頁110
四の字は縁起がわるいから変えてもかまいまへんと家主さんは言ったが、私は古い縁起を自力で良い縁起に変えてみようと思った。それ以来、私の会社は電話番号も番地も四の字がつきまとい、現に、いまのビルなどは、市内の四橋通りの四橋ビルの四階の四〇四号ときてる。

頁112の、今東光の助言は、私もやってみます。ウソです。時代が違うのでやりません。やりません。

頁117
 サモン・ピンクというのは、ベビー・ピンクとちがって、女の肉体の色がしみついたような、少少垢じみた感じが最高なのだ。ベビー・ピンクは名前の如く赤ん坊色だが、サモン色はヨーロッパの婦人たちの下着の伝統といってもいい。着ているにもかかわらず裸のようで、ほのかに色づく肌の香りを匂わすような下着。潔癖をよそおうことの好きな日本人は、その大人の色気を汚れたピンクと思いこみ、赤ん坊色(のベビー・ピンク)を喜ぶカマトト的な(略)
 白だって本当は純潔であると同じに、女の白い肌を一そう白くみせるセクシャルな色である。

頁119
 そんなえらそうなことを考えていても、そのころの金勘定ときてはまるでなっていなかった。(略)6に9をかけたら54なのに、9に6をかけたらわからなくなって、隣の部屋をノックして聞きにゆく。手助け顔にやってくる友だちがまたたよりなくて、カケ算となると二つずつの足し算を長々と紙をつぎたしながら五十センチほども書いてゆく。助けてもらいながらも、この人ひょっとしたらおかしいのとちがうかな? と横顔をみながらよく思ったものだ。

頁120
 ある人の紹介状をもって心斎橋の先鋭的な婦人服店へ売りこみに行った。(略)
「このガーターのゴムは細すぎるわ」
「靴下をつれる範囲で細くしたんです」
「こんな水玉模様だと夏など上へうつってダメね」
「うつらない服のとき着るんです」
(略)
「そのガーターの両側のゴムは、もっと後へゆくべきでしょ」
 まるで私をいじめるのが趣味のように、彼女はじんわりと言う。
「うしろにゴムがあったら靴下を吊るときむずかしいし、腰かけるとうしろのゴムだけすごくのびますし、金具の上へ坐ることになるんです」
 私はまるで職員室に呼ばれた生徒のように言った。
「でも両側がゴムだったらスカートにひびくわ」
(略)
姑さんにいびられているような気がして、みるみる涙があふれてきた。
「いいんです。別に、おいていただかなくても」
(略)
 私の創った新しい型の小さいガーター・ベルトは、こうしてまず悲しい目に遭遇した。しかしそれから三ヵ月を経ずして東京から売れはじめ、大坂にそれが移り、他社からも量販され、数年を経ずして私の創った型以外のガーター・ベルトは、日本の市場からは消えてしまった。しかし私を嘲った人たちはそのことを忘れてしまっているだろう。

頁149
 ごく大衆的な支那料理屋のもつ一種独特な臭気。煮えた油の匂い。香辛料の匂い。それにパイカル楊貴妃や老酒の匂いがいりみだれている。私は、この庶民的な匂いが好きだ。ここはもとしゃれた音楽喫茶兼バーだったのを、マダムが商売がえして満州うどん屋を始めたのだった。だから部屋のつくりも調度品も、ところどころに昔のしゃれたバタクサイ味を残している。そんな壁やドアのあちこちに、料理の名前や酒の名前が上代といっしょに一目でわかるように貼ってある。どれをどう食い吞んだって一人三百円にはつかない。パイカルなど三百円も吞んだら、よほどの吞みすけでも小トラぐらいにはなりかねない。私は二千円ほどもっていた。帰りに私が払ったのは千二百円だった。いろいろと話しこんで三人が席を立ったとき、吞みすけのT氏もかなり上機嫌に酔っていた。
 話が前後するが、席につくと、でっぷり太り、艶をふくんだマダムが、ニコヤカに寄ってきた。彼女は女の仲間意識というか、このころから私のファンだったらしく、パイカル片手に励ましの言葉をおくり、背中をたたいてくれた。
 パイカル三杯――と私は注文した。透明な支那焼酎が三杯、安もののガラスのコップになみなみとみたされてテーブルに運ばれた。溢れた酒はデコラをぬらす。みそを油でねったものも小皿で出てきた。玉ネギをスライスして油をかけたものも出てきた。みんな二十円か三十円の品物だが、妙に大陸の乾いた味がする。

 さあ話をうけたまわりましょう……と私。

頁155、スキャンティという名前があるのに、“タワシ”という呼び名を勝手につけて、「ホイ、タワシ百丁」と数勘定をしてた問屋さんの話が出てきます。
商談で上京した折、夜行の東海道線に途中乗車してきた雲助にサイフギラれる話もよかったです。クサリで服につないでるのに引きちぎられて、寝てて気がつかない。

本書、国書刊行会の合本には、江國香織が「書物の豊穣」と題した一文を寄せていて、灰谷健次郎から紹介された「わたしのものよ」から読み始めたと書いています。私は、ロバのインパクトがすごかったので、わたしのものよは、佐野洋子に通ずるようなエッセーとのイメージを抱きました。さらに早川茉莉という人が解説を書いていて、周知の事実として鴨居羊子実弟玲(画家)は自裁したのだが、鴨居羊子は『わたしのものよ』でこれを病死として描き、実際に彼女は周囲の人にたびたび弟の死因を病死だったよねと問うてイエスの返事を要求し続けたというエピソードを披露しています。グリコのオマケ的にネタ投入してみた、というわけでもないのでしょうが。

早川茉莉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E8%8C%89%E8%8E%89

同じ時代に見てみたかった、そんな女性です。レスリングが出来て、フラメンコで三ヶ月で十二キロやせて。ロバは、朝の連ドラになるかな。もうなったのかな。以上