『ボートの三人男』 (中公文庫) 読了

ボートの三人男 (中公文庫)

ボートの三人男 (中公文庫)

コニー・ウィリスの『犬は勘定に入れません』はこれの副題。
やっぱ読もうかなあで読みました。表紙は上と異なり、池田満寿夫
昭和五十七年の第七刷。後は後報で。

【後報】
左が池田版表紙。
犬は勘定に入れません
なので、四人写っています。
どれかが犬。
スタンド使いみたいな奴が
そうなのでしょうか。
裏表紙は犬のみ。

フォックステリアで、
ひよこや鼠はまだしも、
非常に猫を噛み殺すそうです。
(しかし本文の田舎町では
 戦わずして敗北する)

この中公文庫は、
昭和44年の筑摩書房版を
文庫化したそうで、
解説の井上ひさしは、
この解説より、
筑摩版の訳者あとがき
読む方がよっぽどいい、
筑摩版ユーモア全集の一冊で、
古本屋で全巻セット売りだから、
抱き合わせで入手するのもなんだろう、ここで大意引用しといちゃる、
別に手を抜いて原稿料もらおうと思ってるわけじゃないよ、
ということで、やってます。図書館という発想のなかった、
出版不況と無縁の、古き良き時代。で、大量複製のインターネット時代の昨今、
全文章中の何パーセントまでが「引用」で許されるの?
何行までが許されるの?という基準が分からない
(かつ自分で責任持とうとしない)人がけっこういるのかもしれませんが、
この井上ひさしの解説に於ける引用の度合いは、一つの参考になるでしょう。
井上ひさしもホント、晩年奥さんのDV告発で、なあ。回し蹴り一閃で、
死角から墓穴にたたっこまれた感じ。でもそういう人生ということで、
堪忍してくさい。あれだけ遅筆で劇団ほか色々迷惑かけ乍ら生きて来れた神経は、
やはり闇があった、と後からなら何とでも云えます。ナントの勅令。

ボートの三人男 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%89%E4%BA%BA%E7%94%B7
Three Men in a Boat Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Three_Men_in_a_Boat
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Three_Men_in_a_Boat_-_map_of_tour.svg/1024px-Three_Men_in_a_Boat_-_map_of_tour.svg.png
邦訳にもこういう地図があるといいと思いました。
今の表紙が和田誠か誰か知りませんが、そっちにはあるといいなあ、地図。
で、この地図の黄色三角、よく分からなかったです。
引き返したのはオックスフォードだし、ボートもういいやで、
汽車に乗り換えたのはパングボーンなので…

頁58、犬のモンモラシーが鼠を殺すのは、彼の原罪の働きだそうで、
原罪なら分かるけど、原罪の働きはよく分からないと思いました。
頁68、荷造りの場面で、普通の雨傘数本以外に、日本製の紙の雨傘入れてまして、
1889年は明治22年なので、まだうちの近所にも、
横浜から辮髪の支那傘売りが来る前かなあ、と思います。
よくその傘売りの話は聞きました。雷が鳴ると、
その辺の農家の台所に断りなしに飛び込んで来る。こわいから。

地図には載ってませんが、頁239、レディングの上流10マイルで、
三人は水死体に遭遇します。あとから分かった身投げの真相は、
もちろん、おきまりの俗っぽい悲劇とのことで、
ここは読ませました。旅してると、稀に死体に遭遇しますが、
私は冥福を祈りますし、作中の三人の男は魂の救済を祈っています。

218
 一体ぼくは、いつも働くべき分量以上に多く働いているような気がする。誤解しないでほしいが、ぼくが仕事が嫌いだという訳ではない。ぼくは仕事が大好きだ。何時間も坐りこんで、仕事を眺めていることができる位なのだ。ぼくは仕事をそばに置いておくのが好きで、仕事から引離されるなどということは、考えただけでも胸が痛くなる。
 ぼくはいくら仕事が多くても平気なのである。仕事を溜めておくということは、ぼくにとって、ほとんど情熱のようなものになっている。今では、ぼくの書斎は仕事が一杯になって、もうこれ以上仕事を置いておく余地がないくらいだ。もうじき建て増ししなければならないと思っている。
 それにぼくは仕事に対して注意ぶかい。だから、ぼくが抱えている仕事のなかには何年間もぼくの所有に属していて、しかも指のあと一つついていないものもあるのだ。ぼくは自分の仕事にたいへん誇りをもっている。ときどき仕事をとりだしてハタキをかけてみるくらいだ。仕事の保存状態がぼくよりもよい人は、あまりいないだろう。
 しかし、仕事は大好きだけれど、丁寧にするのが好きなのだ。だから、多過ぎるほどの仕事はしたくないのである。
 しかし、こっちがしたくないと言っても、仕事のほうで推しかけて来る。少くとも、ぼくにはそんなふうに見える。それですっかり困ってしまうのだ。
 ジョージは、そんなことで苦労する必要はない、と言う。手に余るほど仕事をかかえこんでいると思うのはぼくが苦労性だからだ、実際問題としては本来しなければならない分量の半分も引受けていない、というのがジョージの意見だ。これは、ぼくを慰めようと思って言っているのだろうと思う。
 ボートに乗るといつも気がつくことだが、乗組員はめいめい、自分があらゆる仕事を一人で引受けていると思いこむ。ハリスは、働いているのは自分ひとりで、ジョージとぼくは彼に仕事を押しつけていると考えた。ところがジョージはハリスが食べることと眠ること以外に何かしたかといって嘲り笑い、労働と名のつくほどのことをしたのは彼(ジョージ自身)だという固い信念に燃えていた。
 彼は、ハリスとぼくみたいな怠け者どもと一緒にボートに乗ったことはない、と言った。
 この意見はハリスを喜ばせた。彼は笑って、
「ほう、ジョージが仕事の話をするのか。三十分も働けば死んじまうだろうに。君はジョージが働いている所を見たことがあるのかい?」
 とぼくに話しかける。ぼくは見たことがない、とハリスに同意する。たしかに、この遠漕に出発してからはそうなのである。
 するとジョージはハリスに向って、
「君にはそういうこと判るかしら? だって、一日中眠ってるんだもの。ハリスが、まあ食事のときは別だけれど、シャッキリと目をさましているのを見たことがあるかい?」
 とジョージはぼくに向って訊ねる。
 真理はやはり尊重しなければならないから、おくはジョージの意見に与することになる。手助けになるという観点からみると、ハリスは最初から今までボートのなかで、ちっとも役に立っていないのである。
「なに言ってんだ。おれはJよりはともかく働いてるぜ」
 とハリスが、今度はぼくに当り散らして言う。するとジョージが、
「まあ、君だけ怠けていいって法はないからな」
 とこれもやはりぼくを咎めると、ハリスがつづけて、
「Jは自分のことをお客さまだと思っているらしいんだ」
 ぼくが彼らと彼らのおんぼろボートをキングズトンからはるばると運び、彼らのためにあらゆることを監督し、管理し、いろいろと世話をやいてやり、奴隷のように働いたことに対するお礼の言葉がこれなのだ。ああ、これが世間というものか。

仕事を、サービス活動とかに置き換えて読んでも、痛快です。

神田川でも隅田川でも荒川でも利根川でも多摩川でも相模川でも、
鶴見川でも境川でも帷子川でも大岡川でも目久尻川でも鳩川でも、
今は時代が違うでしょうからこれと同じボートの旅はあれでしょうけれども、
出来る旅行をしたいなと思います。グランピングとか。うそ。以上

Three Men in a Boat (English Edition)

Three Men in a Boat (English Edition)

(2017/4/25)