『帝都東京を中国革命で歩く』読了

帝都東京を中国革命で歩く

帝都東京を中国革命で歩く

某図書館のウェブサイト「予約かご」がシステム更新に伴って、
全データ消失しましたので、失われたかごの書籍を思い出しながら、
借りた第一弾。たぶんここまでのデータ移行は市の予算的に、
無理だったのかな。Sierもふっかけたわけではないでしょうが…

装幀=矢野のり子+島津デザイン事務所
組版=スズキさゆみ
カバーは東京都立中央図書館所蔵の早わかり番地入東京市全図訂正第46版(大正11年)

ベルマーレの試合記事を読もうと買った、神奈川新聞の書評欄に、
載ってた本だったと思います。違うかもしれませんが。

著者 新潮社公式
http://www.shinchosha.co.jp/writer/2102/
著者 Wikipedia(本書は現時点で未反映)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%9A%E3%83%AD%E7%BE%8E

白水社HPに一年半連載したものを大幅に加筆修正。

もっと、まっぷるというか、るるびーなガイドを予想してましたが、
作者が、父親の思い出などを交えながら、各章、ピックアップした人物や、
事象(関東大震災など)を中心に綴っていく讀み物です。
出てくる街は、ワセダ、本郷、神田(小川町神保町含む)、三田。
正直最初の街は、鶴巻町なので、戦後ある時期からはZの街だけどね、
と思いながら読みました。あと、国際言語文化アカデミア、
県立地球市民かながわプラザ(あーすぷらざ)の学校でやってた講座*1の、
先生が、清国留学生と下宿先の女性等の淫猥というかインモラルな関係について、
大好物でご専門?だったのか、とってもうれしそうに、嬉々として話してて、
それを思い出しました。でも、そういうのはどうでもいいほど、
セレクトチョイスがいいので、やっぱ近代日中関係はこっから始めなくっちゃ、
とうなづきながら読みましたです。梁啓超!宋教仁!少し飛んでチャンカイセック!
李漢俊…は知らない…黄興!魯迅!震災!飛んで周恩来!秋瑾!!!

高原書店で買って積ん読状態の武田泰淳著秋瑾伝記。

研究者の名前も楽しい。頁23、いきなりさねとうけいしゅうが、
漢字表記で登場。私はこの人のひらがな名と漢字名の使い分け基準、
知りませんのでただ字面を読んだですが、読みながらも、
この人もまた「支那」呼称問題にかなり早期に取り組んだ人で、
青木正兒先生と在日華商の新聞投書論争などは、この人がまとめなければ、
散逸し忘れ去られていたと思います、等々思いは巡りました。
きだみのるわたせせいぞう(ひらがな名の系譜)
で、トップバッターの梁啓超ラブドールの予言者でも知られる)、
岩波書店が島田虔次先生の名前を冠して刊行した『梁啓超年譜長編』
からまず漢詩が引用されてるんですよ。三酔人経綸問答もビックリ。
その次の宋教仁はもう、私が唯一久世光彦で読んだ、北一輝を描いた『陛下』
これに北一輝が宋教仁を回想する場面があるですが、もうそれしか思い出さない。
久世光彦が、森繁久彌週刊文春エッセーを、本人書けなくなってから、
聞き取り記述してたのが、聞き取りもままならなくなって、
「森繁さんは今頃どうしているだろう」みたいな一行挟みながら、
完全に自分のエッセーでお茶を濁すしかなくなり、しかし、しかしです、
久世光彦森繁久彌より先に亡くなってしまうのです。

陛下(新潮文庫)

陛下(新潮文庫)

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/510XF1BCAEL._SX331_BO1,204,203,200_.jpg
北一輝が登場するのは神田お茶の水ニコライ堂が多かったです。
以下後報
【後報】
上記ごっつい記憶違いがあり、ラブドール預言者は、
梁啓超でなく康有為でした。この本には康有為も出てくるので、
そこで思い出した。スペンサーの社会進化論が猛威を振るっていた時代なので、
モテの弱者向けにそうした工具の需要が増大して発達するか、
という文脈だったはず。だいたい私のこういう知識は、
武田雅哉だと思うので、彼の、清末民國初期新聞トンデモ記事本で、
読んだんじゃないかな〜と。でなければ藤井省三北東の、
平凡社新書かな、と。

頁122、漱石魯迅旧居跡、ここ、近くの銭湯に行ったことあります。
白山に土曜の午後出かけて、その後歩いて富士ナントカ湯まで行った。
後楽園の真裏なのに、その時番台のおっちゃんがハマスタのベイの試合、
応援してて、なんかうれしかったの覚えてます。

頁137、義和団事変の賠償金を欧米各国が、どのように民國に返還したか、
の個所で、米国は北京に清華学堂を作って、それがのちの清華大学になった、
というのは、知りませんでした。あるいは忘れてた。

頁154、関東大震災で命を落とした民國留学生とその家族の招魂碑が、
湯島の通称「からたち寺」にあり、という出だしで、
それらの記述がたんたんと続き、そして、追悼式で、日華学会会長、
細川護立侯爵が讀んだ文章が全文記載されています。
のちの近衛政府の、国民政府を対手とせず、が、日本語の「相手」でなく、
中文の「對手」を使ったことで、意味を込めようとしたが、
そんなもん何も伝わらなかった、のと同じ感傷から、随所に、
日本語の言い回しというより、日本でも漢文書きなら使うので、
純粋な中文ともいえない、そもそも、東アジアの共通文章語、
漢文に純粋も不純もないですわ、的単語が多く使われていて、
それもあって全文掲載したのかなと思いました。
私は、下記の文言に打たれたです。
溘焉異域の鬼となる
この鬼が日本の、ツノをはやした虎パンツの鬼でなく、
ひとだま的なものであることは、いまさらあえて書かなくても、
判ると思います。

さねとうけいしゅうの漢字名とかな名の使い分けですが、
著書の名前が漢字名なら漢字名、かな名ならかな名、のようです。

頁185、作者の父親と廖承志のエピソード、入院中の父を、
廖承志が見舞いに来て、「郭沫若にはならないよ!」
と言った話。郭沫若が郁達夫の見舞いに築地の聖路加病院に来て、
看護婦佐藤富子にひとめぼれして結婚。彼女は「郭安娜」と改名し、
(漢語名に変え乍らも夫の姓を名乗る点は日本という…)
中国に移り住み、郁達夫はこれをモデルに『沈淪』を書いたと。
で、この富子の妹操は、陶晶孫と結婚。なので、看護婦の前で、
廖承志は広東語でそないいわはった、と言う話で、よかった。

まあ、検索すると、郭沫若は親の決めた第一夫人は兎も角、
アンナの後も第三夫人作ったはるので、きれいだけではおまへんけど。

郭安娜 百度
https://baike.baidu.com/item/%E9%83%AD%E5%AE%89%E5%A8%9C
郭沫若 家族 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%B2%AB%E8%8B%A5#.E5.AE.B6.E5.BA.AD

革命後の中国上海で101歳まで生きたというのもすごいです。
周恩来のオヒキで中国籍ゲットしたとのこと。
中国籍だと、政治に絡んでたりすると、川島芳子のように、
漢奸になって逃げられなくなったりしますが、
そういうことはなかったんだなーと。夕陽と拳銃の伊達はどっちだったか、
忘れました。アンナさんに戻すと、1983年から全国政治協商委員歴任とか。

作者は、孫文のくだりでも、西木正明が小説にした、
孫文の女』炉利炉利〜♪みたいなことひとことも書かず、
スルーしてるので、そういうのイヤなんだろうと思いました。

孫文の女

孫文の女

2016-10-17 上記読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20161017/1476650377
以上
(2017/10/24)