英語名が見つかりません。
1914: Hitachi mine great chimney completed/茨城県
茨城県の公式サイト英語版で、かろうじて英語によるこの煙突の紹介が見つかりました。"One town has a tall tall chimney" とでも訳すのでしょうか。
was built in accordance with smoke pollution control measures in 1914. The 155.7 m tall chimney was the highest in Asia at that time.
公式によると、日立市で監督が桜花の映画のトークイベントで煙突に触れて(策士やな)イベント終了後地元の人に取り囲まれて、ゼヒ映画にしてけさい、となって、しかしそこからも道のりは長かったそうです。キャスティングが、なかなかうまくいかなかったとかで、そこは公式でも撮影日誌に細かく書いてありますし、映画のレビューでも、いまだに、口惜しいなあ的に、そこを理由に星を落とした、地元からの書き込みが目立ちます。おそるべし。さすが、直訴も一揆もなしに、平和裡に公害解決のソフトランディングに成功した町。今でも気質は変わってないのか。
JXは知りませんが、博報堂など広告会社から出向する人もいるので、期待する人はおおいに期待したんだろうと思います。キャスティング。でも、この映画、地味に見えて、実は背景から送電線と鉄塔を消すVFXに相当お金をかけてました、なんてことがあるかもしれません(ないか)ムカデエントツとアホウエントツ、ふたつの巨額浪費大失敗の天丼があったのちの高い煙突ですので、意外と思ったより谷あり山ありです。善人同士が力を合わせりゃ成功すんにゃわ、みたいな甘い展開の映画では、さすがになかった。
私もチラ見したウェブ社史とかでバンバンこの煙突は出てくるので知っていて、しかし煙害問題の最終的な解決は、戦後間もなくの昭和26年、排煙利用硫酸製造工場の稼働によると、おぼろげに記憶も残っているので、正直映画としてはどう作れば正解なのかとも思っていました。1978年に小松伸六が文春文庫の解説に書いた文章でも、「現代の科学では、高煙突による大気汚染の解決はあり得ない」という識者の意見を引いてますし。映画では、ウィキペディアにも使われている、久原の決断がそのまま使われ、This is CSR(企業の社会的責任)となっています。
この表紙がいつの版か見忘れました。それによって、映画のスチール使わない潮流が今の出版業界の主流なのか勝手に判断出来たかもしれません。
小説は昭和43年に「週刊言論」という雑誌に連載されたそうで、映画では会社側の小坂銅山の苦い経験、が抽象的に出てくるだけですが、 原作では、足尾や田中正造もバンバン比較として登場しますし、あろうことか、主人公はふたりの女性の間で悩み、揺れ動くという、映画では結核のヒロインいちずに改変してしまったがためにぼけてしまった、人間くささが満開になっています。といってもあくまで新田次郎の満開ですが。敗戦を延吉で迎えた男、新田。
結核のヒロインは茅ヶ崎の療養所に隔離されるのですが、ここで「高座郡」の字幕が出て、おおと思いました。でもあの海は相模湾にしては荒いので、外房とか大洗のイメージだと思います。役者は、誰がやってもここまで頑張れると思いました。脚本が、もう少しねばれよと思う。主人公が会社側の対応部署の人間に対し、一対一で会社側の人間と会ってるとあらぬ噂が立てられるから会わないと言っておいて、すぐ不用心に逢うのは何故か。けっきょくインテリはインテリにひかれあうということだと思うのですが(訴訟というか公害対応のため戦前の高校進学から帝大、国家公務員という夢をあきらめた主人公と、大企業の末端で苦労する元公務員から野に下った大卒役付き社員が共感しあうという)やっぱ不自然なので、会社が補償業務の末端を任せた外部からの中途採用のうさんくさいキャラとか、自分で汗を流さない地主はダメだと主人公を罵倒する、兄が首吊った弟などのキャラと、もっとスムーズに連結できるともっとよかったかなと。
この首吊る兄役の人の演技、現代の薬物依存の人とか見てそれを演じてるのかと思いました。そっちでリアルだった。
あと脚本でみんなキツネに鼻をつままれたのが、高い煙突NGは国の政策、がいきなり覆る場面。ウィキペディアや原作を読むと、ここは、JXは知りませんが、日立はまさにお家芸の、寝技が炸裂したことが分かります。寝技なんです。要するに寝技です。でも悪いことのための寝技じゃないですよ。いいことのため、社会正義のための寝技、大義のための寝技です。これがないと、会社員人生とか、社畜うんぬんぬきにして、ナンノブレイクスルー、突き抜ける達成感、よろこびがあろうかと思うんです。これがこの映画の言いたかった点であり、日立やJXが金出した理由ではなかろうかと。
後年フクシマ50につながるわけですからね。この現実は。日立はスピルバーグがディアスポラを抽象的に描いた、トム・クルーズの宇宙戦争なんかにもお金出してまして、大坂ならやってくれるとか、娘がヒステリックでクレイジーもよかったのですが、自社のルーツが公害対策にWin-Winで勝った歴史的偉業に金を出して何の悪いことがあろうかという。レイソルの名前があってもよかった。
ときどき、ネトウヨの誕生、ネトウヨの創世について考えるのですが、加害者というか、やってしまったほうが、いつまで責められなければいけないのか、と音をあげて、それに対し、被害者がサディスティックに、未来永劫だよ、オマエら子々孫々だよ、と言った時、そこにネトウヨ的な何者かが生まれると思うんですね。謝り慣れてない、謝るのが苦手な人がまずそういう要素があるわけですが、そういう人の人口配分はそんな多くないですし、大衆の中で薄まると思います。しかし、前述のように、謝っても謝っても青い山、みたいな情況が続いて終わりが見えないと、確実にその人の中で、那太过分了、となって、人口配分の閾値を超えると思います。それは、たぶん、いま、東電の社員とかほんと日々、高まってる何かではないかと。倦んでる奴もいるんじゃないかな。いつまで言われるんだよいい加減にしろよ、なんて対外的には絶対いうなよ、それをいっちゃあおしめえよ、なんだぞ、という環境は、実にホンネでそれが醸成されやすい。だって、自分たちが悪いんじゃない、外部に悪がいるんだ、扇動されてるんだ、そいつらが悪い、という陰謀論が形成される条件を完全に満たしてますから。既得権益があるからえんえん言って来るんだろう、なんて相手に対し考えちゃだめだぞ、態度や顔色に出るからな。という心理的抑圧だけで、かなり内部にエネルギーが蓄積されるんじゃいかな。
だからこの映画は、茨城県の県北で作られねばならなかったと。
公害対策が行き詰まる度、集団離村の策が集落で語られますが、ここは映画の勝ちかと。原作だと南米移民なので、それだと無駄に夢があり、公害対応としては、弱い。それに、21世紀のフクシマも連想させない。
焼け太りという言葉が、さいたまとかだと、もう早期からネットの頻出ワードになってたわけですが、映画で、多額の補償金もらった貧農の末路が、バーンと語られてる場面もよかったです。慣れない商売はじめてすぐ失敗して、一家離散で、少年はひとり村に舞い戻って、空き巣を繰り返して、捕まって、リンチされる。これ、21世紀の何キロ圏内で、自分じゃやらないでしょうが、窃盗団の手口があまりに鮮やかだったら、どこになにがあるか、食い詰めた奴が金に目がくらんで手引きしたんじゃいか、みたいなフォークロアの流布を背景にした映画のフィクション、故事のような気がしました。
仕事も、何かカタルシスがないとダメで、それが社会正義の実現である場合もあると思うんです。それが、「実話!」で出せるんだから、出さない手はないです。地域振興とかの視点でしか語られない映画ではなく、そっちでもよいかと。高い煙突にダメ出ししてた国がころっとおk出す場面なんて、中国とかのほうがゲラゲラ笑いながら即受け入れる気がします。
朝九時の上映なのに、関連企業が全国区だからか、隠れ水戸ちゃんがたくさんいるのか、三十人以上入ってました。面白いものです。以上