石毛直道『鉄の胃袋中国漫遊』で、教示を仰いだ師として登場する人の著書なので読みました。
以下後報
【後報】
頁viii 凡例
一 本書では中国とは岡山、広島、山口、島根、鳥取の五県をさし、シナの意ではない。
東京とうきょうと東京トンキンが違うように中国ちゅうごくと中国チュンクオとは違うはずなのに、このごろの人がシナをばさしてチュウゴクと発音するのはおかしい。ここでは古来の日本語どおりチュウゴクは日本の一部として取り扱うことにした。それに後編でもわかるとおり、中国チュンクオの範囲は時代によって著しく異なり、漢代には江蘇・江西・湖南の諸省は完全に辺境であったが、唐代にはほぼ、中国チュンクオのうちにはいったし、西康・西蔵までも中国チュンクオに入れるようになったのは実に中共以来のことなのだ。それゆえ、混乱をさけて、中国ちゅうごくは日本の一地方、中国チュンクオは古来の日本語どおりシナ(始皇帝の秦という字から転訛した)という字を使うこととした。
冒頭の「はじめに」(昭和四十五年の改版時に記述)によると、本書はまず柴田書店というところから昭和四十一年に初版が出て、五年余に十二回再版されたとの由。この凡例を見ても笑いだしてしまうような、飛び道具みたいな本がイキナリ12刷もいったというのが、如何に類書がなかったか、寿司屋が客に語る蘊蓄のモトネタがなかったか、ということだと思います。凡例なんか誰も読まなかっただろうな。
頁viii 凡例
一 本書では物の名はできるだけ漢字をさけて仮名で書いてある。
第一に、漢字制限のため正しい感じを書いても読めない場合が多い。したがって、蘿蔔、胡蘿蔔、野蜀葵などはダイコン、ニンジン、ミツバ、とするか、仮名続きで読みにくいときは大根、人参などの俗字を当てておいた。
第二に、われわれが普通使っている物名には誤訳が少なくない。ことに本書後編ではシナのすしを取り扱うので、誤訳から混乱を生じるおそれが多分にある。たとえば鮪いや鯖セイは淡水魚なのに海産のマグロ、サバにあて、鮭ふぐをばサケ、鮎なまずをばアユと読むのだから、目茶な話だ。また、シナでは時代によって同じ字の意味が変わってくる。鮓ははじめからすしだったが、鮨は昔はシオカラを意味した。以下略
清代に絶滅した中華寿司事情なんかどうでもええから、はよう日本のスシのはなしやとくんなはれ、と誰もが読みながら思ったでしょう。
頁ix 凡例
一 本書では漢文は全部読み下し国文になおしている。
漢字制限のため今日の若い層は漢字が読めなくなってきたし、第一、ゲーテやロマン・ロランは訳文でどしどし引用しているのに、漢字だけ原文どおり載せなければならないという理由もないだろうから。おまけに平安朝中ごろ以後の日本人の漢文はあまりにも和臭芬々で、ただ漢字が並べてあるだけのこと、下手すぎて引用するのも気の毒な、というのが多い。
スシといっても江戸前握りは著者の敵とするところで、馴れずしメイン、それも、各地方の差異、伝播について、フィールドワーク、大規模アンケート、文献研究、など統計と解析を縦横無尽に組み合わせて真相に迫ってゆきます。頁28の出だしで、まず、国鉄総武線と九十九里浜の間は、氏神に熊野神社が多く、日常生活も関西的要素が多く、成れ寿司もそのひとつと書いていて、熊野の漁民が入植したからそうなったと書いています。すぐにまあ、佃煮の語源の佃が、大坂から江戸に移植された故事を想起しますが、作者の展開は違っていて、江戸初期には熊野漁師の多くは土佐に出稼ぎに行ってカツオ漁業に従事していたが、山内氏が土佐モンロー主義をしくに及んで、はじき出されて関東に転進し、九十九里浜などでイワシの曳網漁に従事するようになった、んだそうです。
土佐モンロー主義なんてことば初めて聞きました。検索しても何も出ません。吉田類と西原理恵子の故郷、かつてはそんなことをしていたのか。竜馬が行く。
頁55には、鹿児島の「酒ずし」が紹介されています。
頁57
焼酎の国薩摩でも、女はさすがにおおっぴらには飲めないので、すしにかこつけて、上戸はビショビショになるまで地酒をぶっかけ、すしに「酔う」のんだ、とはさる半可通のお話だが、さて嘘やらまことやら。
著者の取材時は、スーパーで、上のサイトにも載ってる、縁黒内朱のすし桶のみデパートで売られていて、寿司家に行っても、「それってなんですか」状態だったそうで、しかし観光用に復活の機運もあると書かれていて、今はそのとおり観光用に復活しているようです。山形の酒田にも「粥ずし」という、鹿児島が米一升に酒一合二合に対し、新米一升極上清酒五合という同種の寿司があると紹介されていますが、「本間さまには及びもないがせめてなりたや殿さまに」の本間さまクラスでなければ、再現できね、とのことで、教職に就いた本間一族の子孫からおすそ分けを送ってもらっています。
頁31には、ドジョウのすし、腹を裂かないので食えたものではなく、食べる真似だけする神事の寿司が、各地の諏訪神社のひとつ、京都丹波篠山岡谷でのみ作られているとのこと。諏訪の岡谷にはそんなものなくて(普通に食べれる雑魚のすしを作る)食べられない寿司をわざわざ作ってるのは京都だけという。今でもあるのかどうか。このへんは大規模アンケートの成果。
頁190、今度は文献渉猟について、例えば延喜式は延喜年間に編纂公布されて現存している唯一の「式」だが、ほかに弘仁、貞観にも「式」は公布されていて、けど現存してないんだよん、みたいなこと書いていて、それに続けてこう言っています。
頁190
私がこんな細かいことをいちいち注釈しているのは、何も学のあるところを示そうというためではない。引用する書物の性格をよく知らないと、その記載をどこまで信用してよいかがわからないからだ。『故事類苑』からの孫引きですませるなどは、話の泉ならとにかく、結局アインシュタインと鉄腕アトムを並べて引用するようなことになりやすいから。
手塚先生に謝れ!とは思いませんでした。
頁192
紀貫之が土佐守の任から帰るときの日記『土佐日記』(承平六年、九三六)の室津の条に、船から降りて海岸まで徒渉して行く景色として
何の蘆陰に詫かつけて、ほやのつまの飯鮨いいずし、鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛にもあげて見せにける
とあるのは、ご婦人が「スカートをまき上げてジャブジャブ歩いていると、蘆の陰に怪しげなものが水鏡にうつって見えた」という怪しからぬ文章だが、それにしても「かのもの」の形が後の世の飯鮨に見えるはずはない。清少納言が『枕草子』にいう「恐ろしきもの、いにずし」とある、かのイニズシの伝写の誤りで、ウニではないかともいう。なるほど、ホヤ、ウニ、アワビなどならば ごもっともの形に水鏡にうつるだろう。
水鏡としてますが、まくり上げて直接見えたのではないか、いや、まくりあげたくらいでは、下から覗きこまぬ限り、葦の茂みしか見えないだろうと思い至りました。たぶんそうじゃいかな。紀貫之は、女性のフリしてこの日記をかなで書いたわけなので、女性が水に映った同性の性器そんな注視するもんかね、とも思いますが、だからわざわざモノホンの女性である清少納言出したのかもしれません。まんじゅうこわい。
下記は江戸時代の料理本から。
頁236
おまんずし 塩した小ダイの腹に、酒、醤油でから炒りしたキラズを(冷えてから)詰め、重石する。なま小ダイに塩してもよい。
江戸自慢のおまんずしが卯の花ずしだったとは少々がっかりだ。
(略)
手柄岡持(本名平沢平格)は、『後は昔物語』(享和八年、一八〇三)のなかで、このころの思い出話として「おまんずしは宝暦初めごろからのもので、京橋中橋「おまん」が紅という童謡から名づけたらしい。(後略)
おまん、おまん、どこ行く。
極付け!お万の方 (きわめつけおまんのかた)とは【ピクシブ百科事典】
頁242、すしを詠んだ句を列挙しており、その中でも蕪村連投がすさまじい。
頁242
馴れ過ぎた鮓をあるじの遺恨哉(宝暦中)
(略)
鮓つけて誰待つとしもなき身哉(明和八年、一七七一)
(略)
鮓おしてしばし淋しきこころかな(安永六年、一七七七)
鮓を圧す我酒醸す隣あり( 〃 )
(略)
すし桶を洗へば浅き遊魚かな( 〃 )
(略)
夢さめてあはやとひらく一夜鮓(安永末)
このすしはほとんど生成鮨で、それは彼が上方人だからだそうです。
頁245
『五大力恋緘こいのふうじめ』(寛政七年、一七九五)では、舞台は泉州堺だが、すしが代用食というより酒の肴で、ついどこでも変えそうな問答が出ている。
源五「酒ひとつ飲もうか」
女房「イエ肴は何も御座りませぬ」
源五「肴がなくばツイ鮓でも大事ない」
この頃はもう寿司を馴らすのに雑穀(粟など)は用いられず、もっぱら白米でやってたんだそうです。
下記は阿部直吉という老人からの聞き書き。
頁277
すし屋の伝統 一体料理屋で三代続くのはあまりありませんが、すし屋は不思議とよく続きます。(中略)
その代わり、贅沢はできません。旦那になったらおしまいで、夫婦共稼ぎです。ことに飯炊きは主婦の役目。(中略)飯炊きが一定することは飯の炊き加減を一定にする最初の条件で、橋筋の「鮓虎」ほどの店でもこれを女中にやらせていたので、始終飯の加減が変わったものです。
中国の鮨は、なんとなく前にも読んだ気がして、引用しませんでした。以上