『同時代ゲーム』"The Game of Contemporaneity" by Ōe Kenzaburō 大江健三郎 読了

1964年刊『個人的な体験』の巻末広告を読んでいて、『空の怪物アグイー』初出1964年と1979年刊の本書の煽り文句に惹かれ、こっちは1967年刊『万延元年のフチボル』*1と絡む作品なのかと思って読んだのですが、そうであったとしても、おそろしく婉曲、迂遠な作品でした。

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読んだのは単行本。昭和54年11月初版。読んだのは同年クリスマスの3刷。英題は英文ウィキペディアからとりましたが、英訳未だそうです。

The Game of Contemporaneity - Wikipedia

同時代ゲーム - Wikipedia

右が新潮文庫巻末の煽り文句。

四国の山奥に創建された〈村=国家=小宇宙〉が、大日本帝國と全面戦争に突入した!?特異な想像力が産んだ現代文学の収穫。

オーエサンの故郷の四国の山奥で独立運動ってえと、『万延元年のフチボル』に描かれた在日コリアン経営スーパーマーケットに金銭的物質的に従属させられた村人青年団の反乱物語がかたちを変えたのかなと思いますし(ウヨサヨ反転)伊予ではなく土佐ですが、吉田類サンの故郷回想によく出てくる、山家の村の焼酎密造と税務署抜き打ち検査との戦いも想起しますので、まあそういう話かなと思って読みました。したっけ、第四の手紙「武勲赫赫た五十日戦争」などは多少具体的ですが、ほかは神話的ナントカ、ポストモダニズムのナントカで、寓意が森のトポロジーでミクロコスモスカールセーガンな展開でした。小林秀雄が二ページで読むのをやめ、オーエサンがのちにそれを「彼は二ページでなくニ十ページですた」と修正し続けたのもむべなるかな。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/a/a2/D%C5%8Djidai_Gemu_%28%C5%8Ce_Kenzabur%C5%8D%29.png左は単行本表紙。装幀・装画 司修 頁7によると、このカバーは原画の左右反転で、原画は本書主要舞台である《村=国家=小宇宙》の空想図だとか。本文各手紙扉にも部分部分のキリトリがカットとしてあしらわれています。

私が思うに、本作の対抗馬はヨコジュン『ポエムくんとミラクルタウン』シリーズ*2かなと。そんで、堀井雄二サンがハミコンゲームにしたらいいと思う。そんな小説です。

イタロ・カルヴィーノも『レ・コスミコミケ』や『柔らかい月』のように意味のないSFもどきの小説を書きましたが、ここまで大ボリュームには膨らまさなかった。オーエサンは執筆時、ドイツの東独出身作家グラスやペルーのマリオ=バルガス・ジョササンらが矢継ぎ早に大作を発表しているので、焦っていたんだとか。しかし『同時代ゲーム』が『ひらめ』や『密林の語り部』とタメをはれるかというと、ふつうにはれないじゃん。シンハラ語で「エパー」朝鮮語で「シロヨ」と言われる出来です。関川夏央サンが韓国の太白山脈などの巨匠作家を評して、編集と切磋琢磨して、削りまくって小説を書いてない、自分の書きたいことばっか書いて、編集が読者の代弁者としてその誇大妄想にブレーキをかけてない、だから冗長で自己満で、読んでて読者はちっともおもしろくないんだ、と言ったのに近いと思う。関川翁によると、韓国のそれに近い日本の作風だと、やはり編集がペコペコ頭をさげるだけの小田実小説が同類項だそうです。

オーエサンは編集に対しコワモテではないと思うんですが、新潮社のこの「純文学書下ろし特別作品」シリーズそのものが、採算度外視で読者を想定しない、作家のひとりごと駄々洩れしりーずを想定していた気もします。自己満ばっか書かせて才能を腐らせる目的。実録褒め殺し序曲。

左に本書巻末の純文学書下ろし特別作品ラインナップを置いておきます。有名な作品もいっぱいあるのですが、ある時期から編集者がハンドリングしなくなったとしたら。

オーエサンは本書をとても気に入っていて、なんとか読者に受け入れてもらおうと腐心していたそうですが、「ダメなものはダメ」©土井たか子なのかも。ウィキペディアによると、筒井康隆もこの作品の大ファンだったそうです。『東海道戦争』発表時、それがもとで社会的に抹殺されるかもと本気でおそれた経験のあるツツイサンは、『政治少年死す』『セブンティーン』を書きながらなお再起してこのような作品を書くオーエサンにエールを送りたかったのかもしれません。『風流夢譚』の深沢七郎サンはその後沈黙してこのような作品を書かなかったわけですが、オーエサンと違って、無関係な女性(出版社社長宅のお手伝いさん)を殺害されてますので、現実とのかかわりの重みも違うかと。『虚構船団』は本作のオマージュだそうですが、文房具とイタチが星間戦争を繰り広げ、混血児が地に満ちるあの小説のどこが本書のオマージュなのか、サッパリ分かりません。ツツイサンはオーエサンの失地回復の爲わざわざ日本SF大賞を創設して、第一回受賞作を本書にしようとしたが、さすがにそれは反対多数で挫折し、第二回に井上ひさし『キリキリ人』(ハスキル星から来たハスキル人とは無関係。東北を舞台にした、小村vs日本の独立戦争もの)が受賞したことで溜飲(「るいん」では変換されないのですが、私はいつも"ruin"と読みます)を下げたとか。こみあげてきたものをまた飲み下すなんて、バッチイデスネ。カーッ、ペッ、と吐けばいいのに。《禁止随地吐痰》

カバー(部分)メキシコが冒頭の舞台で、だからか、オシリ。この上のほうに斉藤真一画『いないいないの国へ』*3みたいな燎原の炎があるのですが、「妹の赤い恥毛、ちぢれっ毛」のスライドがいたるところに花を添える小説ですので、それかもしれません。

本書に大日本帝國という単語は出るのですが(新字)大東亞戰爭という単語は出ません。頁44に日本書紀の一節が出て、「日本化されたシナ文」と形容されてます。津田左右吉がよろこびそう。でもカタカナじゃんと思う向きには、頁449「それは支那で、南方でまた太平洋海域で、大日本帝国軍隊の神ながらの戦いにはむかう朝敵のあさましさ」という一文があります。『支那はわるいことばだろうか』の高島敏男センセイもご満悦。太字は私。

カバー(部分)放屁、否、放尿。〈撒泡尿〉ですので、オシッコの中国語の量詞は泡です。

なんだか分かりませんが、主人公は歯が痛いので日系メキシコ人のヤブ医者にかかった後マルガリータを鎮痛剤がわりに飲んだり、現地のマオイスト女性とセックルした後、「あざやかな緑色の軍服に赤い徽章をつけて、少年のような目つきをこちらに向けた」「中国人民軍の兵士」に空港で監視される夢を見ます。「いまや日本は中国人民軍の占領下にある」そうで、「税関吏の、中国語による命令のまま」行動する主人公は、「中国人民軍兵士によって全面的に禁圧されるかもしれぬ日本語」によってこの小説を書こうと試み、「日本国が占領されても」土地の人間としての自立はなしうると夢想します。頁54。なんでそんな夢を見てるんだか。「羽田空港を膨大な人数で埋めているようだった中国人民軍兵士の、異様に重苦しい量感」「禁止された言葉についての暗澹たる予感」「中国人民軍兵士の軍服の緑と赤の鮮烈さ」(頁57)ずっとこんな夢を見てるのかと思いきや、第一の手紙だけです。伏線回収されず。

下記は中表紙(部分)

『万延元年のフチボル』に登場するプチブルコリアンに相当する存在は、頁377に出てくる「コーニーチャン」のように思われます。

頁377

(略)コーニーチャンは十七、八で朝鮮へ向けて出立し、新義州で軍隊に入って憲兵をつとめたという。敗戦後いち早く復員して來ると、魚と牛肉を専門的に扱う闇屋として、京阪神にまで勢力圏をひろげた。(以下略)

邦人のようにもみえ、しかし「高」兄ちゃんかもしれず、生鮮流通業という点で、重なるかと思います。あとは入替可能ということで。あるいは柯倪强"ke niqiang"先生。

中国と朝鮮に関する部分をあえてキリトリしてみましたが、大半は森やら神話やらの幻影というか賛歌ですので、キリトリ部分だけ読んで誤解する人が赤恥をかくか、そういうそそっかしい人が良識派を凌駕するか、このブログがインフルエンサーのそれだったら実験としておもしろいのですが、安心してください、過疎ブログですよ、ってなもんで。以上