その辺に落ちてたマンガ。1992年8月の10刷。意外に版を重ねてないんだなと。既にして消費税がかかっており、本体320円の定価330円。装幀者未記載。初出未記載。
Wikipediaを見ると、ドラえもんのロゴを考えた人が誰か、掲載誌の年単位のざっくりな一覧(よいこ、幼稚園、小学一年生から六年生までの八誌で一年12ヶ月連載したら、年に96本作品を発表しなければいけなくなり、どう考えても無理なので、再掲載などを駆使して、あれこれやりくりしていたんだろうと思います)チーフアシの名前などが書いてありました。
ドラえもんがこの当時やってて今の漫画に見られない文法、見開きページの表紙で、下の方はもうストーリーのコマが始まっている構成などを懐かしく読みました。全十八話。巻末は確か毎回人情もののはずで、この巻は21世紀ネトウヨからあれな『ぞうとおじさん』かわいそうなぞう物。この前の巻は幼少期死別した祖母の話(こんな漫画があっても日本の少子化は止まらなかった)、この次の巻は例の最終回。
毎回ひとつは入るドラミものは、ダウジングの話。東京新聞からの引用として、武蔵村山市水道局はダウジングを使って水道工事に大きな成果をあげていると書いてあります。ウィキペディアのダウジングにもこの話は出ていますが、「組織とは無関係に個人の考えで」ダウジングを行っていたことになっていて、ソースは「科学朝日」という雑誌。
さいしょの話は、ときどきドラえもんに出てくる、「薬に頼る」はなし。ドラえもんはのび太に服用をすすめ、のび太はいやがる。次は、びんぼうな級友のはなし。次は学習雑誌の常として必要な、ためになる、地球のミニチュアを作るはなし。次は、鏡の中の自分と入れ替わる話。ときどき、ドラえもんの道具で生まれた、悪ののび太が本人に入れ替わって現実世界に現出する。作者の何かの願望か。今回の鏡の中ののび太は、母親に、いつから左利きになったのかと指摘されています。次は、記憶喪失者の頭部をトンカチで叩くはなし。現金なスネ夫とその母の末路があわれをさそう(さそわない)次は、ジャイアンが因果応報のはなし。ときどき、そういう話を描く。次は、タイムマシンもので、かつのび太が寝ているコマを11コマ並べる実験演出。その次は、自転車に乗れないのび太のコンプレックスは、「目ざましに温度計、カレンダーや鉛筆削りまでついている」しかも光学迷彩でひとこぎ100メートル走れて三次元の物質をすべて透過出来るスーパー三輪車でも解消されないというはなし。私も身につまされる、Fサンの自動車運転コンプの反映か。次がドラミでその次は幼年向けの大きなコマわり。次はバッジを作るカメラ。既製品蒐集の世界にハンドメイドで殴り込みは、現在はハードル高いですが、当時の子どもはうるさいこと言わなかったんだなと。次は、
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スネ夫「だいたい、ちかごろの日本人は遊びすぎる!」
のび&しずか「自分だって、そのひとりのくせに」
ドラえもんの道具(=文明の利器)に溺れて生命の危機(もしくは精神の危機)に陥る話。次は、パロディで遊ぼう。次は、これも時々ある、天丼の不条理もの。将軍さまになってしまうのび太がステキ。次は、強くなりたいという、シンプルなはなし。作者の願望のひとつ。次は、金持ちになりたいという、これもシンプルなはなし。なりたいなあ。次は、どこでもドアとの重複。未来には、重複製品がいっぱいある。パソウコンとスマホみたいなものなのか、クレカとQRコード決済みたいなものなのか。開発時期やコンセプトが異なるとか、その時期により法規制が異なるとか、いろいろあるのか。
面白いんですけど、米国の保護者が児童に見せたがらないのも分からないではないと、改めて思いました。のび太の布団は誰が押し入れにしまっているのか。毎朝自分でしまっているのであれば、そういうコマを強調すれば、米国の母親も彼を見る目が変わったことでしょう。しかしそれがのび太にとって空気のような行いなら、それは強調されず、したがって異文化の人たちは気づかない。
ほかにも、のび太ママのスカート丈とか、ジャイアンは長ズボンとか、いろいろメタファーがあるのかもしれませんが、語っている人はようさんいると思いますので、以上。