『知の座標 中国目録学』Inami Ryoichi(白帝社アジア史選書 HAKUTEISHA'S Asian History Series 002)再読

 苦し紛れ。カッコいいデザインなのですが、装幀者の名前は見当たらず。

 あとがきに白帝社担当編集への謝辞もあるんですが、その人がデザインしたのかそうでないのか。白帝社のこのシリーズも、活字不況下、21世紀ゼロ年代に十冊ほど刊行され、その後、21世紀10年代、忘れたころにぽつりぽつりと二冊刊行されたようです。

http://www.hakuteisha.co.jp/search/s10491.html

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/stantsiya_iriya/20170316/20170316081110.jpg私がこのシリーズでほかに読んだのは004『亀の碑と正統 ―領域国家の正統主張と複数の東アジア冊封体制観』平せ(把"势"的"扌"手字旁就换成"生"的字)(「勢」の「坴」が「生」になる字)隆郎だけですが、とても面白かった。平勢隆郎という人は、そのキャリアの初期に、春秋だか左伝だかの距離や時間の記述について、じゅうらいの定説(そのまま受け取ると白髪三千丈だから常識的な数値に勘案してた)をまったくぶった切って、書いてある数値をそのまま時間と空間に当てはめて業界をひっかきまわした面白い人という認識で、しかもそれを中文で論文書いて中華世界のぜんぶの同業者が読める状況にしてしまったので(それまで、竹のカーテンや著作権ウヤムヤをいいことに、あちらの学者は日本などの論文を入手すると、訳して自分名義で完パク発表したりすることもあった)2ちゃん学術版に東洋畑では唯一かそれくらい珍しく、アンチが湧いていた学者です。その人が、大都会岡山にとばされてで研鑽を積んでいた間、池田藩の墓石の、世界を支える亀などを見て、面白い面白いと自由に思考をめぐらせたメモを後年まとめた本が『亀の碑』で、よほどその発想がバカでよかったのか、江戸東京博物館にもわざわざ亀が作られたという…(左写真/2017年3月16日くらい)

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私は、亀の碑読んで大都会岡山の閑谷学校行ったと言っても過言ではないのですが、それはさておき、本書は、亀の碑とはうってかわって、バカではないが固くもなく、非常に読みやすい中で、四庫全書総目提要とか冊府元亀とか格致とかバンバン出てきて、知らないうちに分かったような気になる、一知半解大好き人間の私にとってはたまらない本です。

格物致知 - Wikipedia

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中国は膨大な書物をのこしてきた文字の国である。筆者は、その過去から現在、未来にわたり集積される知の世界を、Constellation星座と見たて、その座標軸になるのが目録学であるという。本書は、京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センターが、毎年文部科学省と共催してきた漢籍担当職員講習会の講義録にもとづく。図書館学を目指す人、中国文化論に関心ある人に是非薦めたい一書である。

とりあえず漢籍の目録づくりについては、精度も速度も、日本人は漢民族ネイティヴにかなわないことがもう前世紀時点で完全に分かっていたので(蒼頡入力だって㍉)我々に残された余地は、機械作業でなく(AIならもっと早いかもしれない)、そこから得られるインスピレーション、霊感のみではないか、というお手本のような本で、あとがきで、中国目録学については、先行する内藤湖南吉川幸次郎倉石武四郎の三方がそれぞれ書き尽くされているが、故・川勝義雄サンの主張などに触発され、講義レジュメをまとめて出版するまでに至ったとのこと(あとがきによると、背中を押したのは、同僚で、木簡なんかの富谷至サン)です。

井波陵一 - Wikipedia

川勝義雄 - Wikipedia

レジュメだからといって万年一日のコピーを使うわけでもなく、当時業界のベストセラーだった井上進『中国出版文化史』(名古屋大学出版会)も出ますし、西洋でも共通する問題がある例として、山本善隆『磁力と重力の発見』からも引用しています。著者の主張は、目録づくりも時代により変遷がある。マージナル、ボーダー、辺境的な書籍を目録の何処に入れてゆくか、その変遷からパラダイムシフトを読み取り、社会の革新や変容の息吹、うねりを感じ取り読み取り記すことこそ、目録学の醍醐味であるというふうに受け止めました。

唐代の目録では、仏教はまだ外来宗教だから項目が立ってないが、後代はまた違う。じゃあ、マニ教はどうなの?景教は?(ここで旧約聖書の唐代の漢訳の図版が挿入される)そして、それは、近世の西洋科学書籍の輸入の際、同じ体験をすることになるわけだけれども、その時はどう分類したの? といった具合に、胡なるもの、従来の認識を覆すポテンシャルを秘めたものは"杂"、周縁部に置かれ、それが浮上し顕在化し、目録カーストの最上部に位置する聖なる経典にまで影響を及ぼした時、それはその社会が変革した時期だといえる、というようなことです。(马列とか毛沢東思想とかもちょろっと現代「経典」の絡みで出ますが、すぐ、今はなんでもかんでも、ポップスのヒット曲アンソロジーでも「経典」だから、と洒落にしてます)

こういう本は、引用も多く、引用ってのはこうやって、これくらいの分量でするもんだ、という基礎的なおはなしでの座標でもあります。そういう話をわざわざせねばならんと云うのもなんだな、と思いますが、身につけて悪いことはなく。

今検索する中で、さらに分かりやすそうなシリーズを京大人文研は研文出版(山本書店)から出していたことを知りました。巣ごもりがもっと続けば、読んだろうな。いやいやそうでなくとも、と本が言ってるかもしれません。人文研は"jinbun"でなく"zinbun"なのか、というURLで。

http://www.kita.zinbun.kyoto-u.ac.jp/publication/kansekiseminar/

以上