『崩れゆく絆』"THINGS FALL APART" by Chinua Achebe(光文社古典新訳文庫)"kobunsha classics" 読了

装画◉望月 通陽 装幀◉木佐 塔一郎 

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

 

 チョンクオ風雲録その九に出てくる火星の黒人部族の名称は、ここから借用しているとチョンクオの訳者あとがきにあったので借りました。チョンクオでは"Things Fall Apart"を『部族分解』と訳していて、中華圏で刊行された漢語訳では、《瓦解》という題名になってます。光文社古典新訳叢書は、1977年刊行の門土社古川博巳訳の邦題を踏襲しているとのことで、不本意だったか、本望だったか。

崩れゆく絆 | 光文社古典新訳文庫

光文社がなぜ古典新訳をシリーズとして自社で文庫化しようと思ったか、それは分かりません。漫画でもシグナル叢書という、似たようなコンセプトの古典復刊をやっていて、営業企画絡みの部署によそから来た人がドカーンと花火を打ち上げて業績を残したくてやったのかなあと、うがった推察さえしてしまいます。何故、カッパブックスの光文社がここまで持ち出しで頑張るのか。ノストラダムスの大予言で稼いだ贖罪なのか(三光作戦中帰連本もカッパでした)アイリーン・チャンの傾城の恋が、藤井省三北東の新訳で出てるそうですが、池上貞子という人の仕事としてだけ後世に残るのではダメなのかなあ。

訳者は、かつて読んだ本書の感動を、アチェベ関連のフォーラムにともに参加したイギリス人の友人が、十三歳の時に体験していたと告白するのを聞き、本書が文庫化されるということは、日本の高校生、ひょっとすると中学生が本書を手に取ることも出来るかもしれないと、ワクワクの多幸感に浸り、かつ、責任の重さをひしひしと感じたそうです。私は、読んでいて、やっぱり、私のサハラ以南のアフリカの読書に関する原点、山川の民族の世界史のアフリカを思い出しました。

www.yamakawa.co.jp

山川のこの本で、ガツンと殴られるのは、例えば、アフリカ諸国の識字率の低さについて、それは宗主国の英仏語を國語として、その識字率ではかるからそうなのではないか。社会によっては、土俗の宗教であるイスラム教のコーランの言語であるアラビア語識字率の方が高くなる可能性もあるのだが、そうした比較調査は、行われていない。そんなことでどうして識字率が低いと言い切れるのか。欧米主体のモノサシによる恣意的なものの見方による欺瞞ではないか。といった箇所。

ティングズフォールアパートは、ナイジェリアのイボ族世界の近代を描いた作品で、訳者は、イボランドという言葉を使っていますが、従来は土俗の精霊信仰しかなく、そこにキリスト教が入り込んで葛藤があり、徐々にキリスト教が勝利するという話なのですが、イスラム教はどこ? と読みながら思うです。ボコ・ハラムだってムスリム原理主義武装集団なわけですし、以前、フィフティ・ピープル読んだ時に検索したナイジェリア料理のクッキング動画サイトでも、ユーチューバー(女性で、たぶんハウサ)が出だしの挨拶で、「アッサラーム・アレイクム」つってたので、イボはどうだか知りませんが、ヨルバやらハウサやら含めたナイジェリア世界では、けっこう水面下では回教も強いと私は思ってるわけです。この小説がそれを出さないのは、黒人回教豪商が奴隷貿易の黒人側の犯罪者であるからなのかとも思いますし、イボとは関係がないからかもしれないのですが、訳者がイスラムのイの字にも触れてないのは、ちょっとさびしい。


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東アフリカの、ケニアエチオピアの黒人は、すらっとして痩せてて、マラソンや駅伝でお馴染みの人々と私は思っていて、対して西アフリカの、ナイジェリアやセネガルの黒人は、鬼瓦権藏、横幅があって、何にも筋トレしてないのにムキムキのガタイに勝手になってしまうようなイメージが私にはあります。なんとなく、北京の語言とかで見た黒人の印象からそうなってしまう。もちろん千差万別で、個人差も大きいと思いますが、そう思ってしまう。赤道ギニア出身の、仏語圏でも英語圏でもない(ポルトガルかスペインのはず)、背の低いひょろひょろした黒人といちばん話した記憶があります。私自身も体格がひどいので、そういう人のほうが安心して話せた。

体格というと、スパイク・リーのジャングル・フィーバーをよく思い出します。黒人と寝た白人女ということで、イタリア系のヒロインは父親や兄たちからベルトで打擲され続けるという折檻を受けるわけですが、その彼女を救うスーパーヒーローになるはずのマッチョでイカす黒人男性の主人公は、白人女性を襲おうとした黒人と誤解した警察に包囲されて銃を向けられて、いのちの危険に震えながら膝をついて両手を後ろで組んだりします。後年のBLM要素はここにもぜんぶ入ってるというかなんというか。で、その対比として、アフリカから来たちんちくりんのお勉強大好きブラックガールをいじめたおそうとする悪ガキどもに、よわっちい白人インテリ男性が勇気を出して抗議して彼女を守ろうとし、こっちは成功します。個人として超越しようとしてもあかんねん、社会的地位として白人の声の方が通るねん、というスパイク・リーの主張は、この後何に挫折したのか、十数年ニックスのサポーターとして眠り続けるわけですが、この映画を面白いと勧めてくれたギロッポンの白人ホステスたちにしてみれば、オリエンタル日本人と寝る白人女ということで、いろいろ重ねて見てたのかもしれません。ズボンからベルトを外してそれでぶつ場面で、白人の男はホントにそういうことするのよ、と言っていたらしい。らしい、と書くのは、この映画を薦められた日本人男性は私ではなく、もっとかわいいモテ男性だからです。私はその人からその辺の一連の話をぜんぶ聞いただけです。彼はこの映画以外にも、シンディ・ローパーのトイ・ボーイとか覚え込まされて、聞いてた。"He's my toy boy, toy boy"これをして諧謔といふ。

山川の民族の世界史シリーズについていうと、「民族」という近代概念を定義したのがスターリンであること、彼についてはあまりにマイナスなポイントが多いわけですが、ことこの定義に関しては、ロシア帝国の藩屏、属国といってもいいかもしれないグルジア出身でありながら継承帝国の初代皇帝になり上がった男の、透徹な社会考察の賜物だと思っています。私はタナカツ信者と言われるくらい田中克彦よりですが、その辺の原点は山川の民族の世界史シリーズだったか知りません。そういう意味で、民族という存在はいまそこにあるのに、『民族という宗教』みたく言いくるめようとするなだ いなだはその一点で評価減です。アイヌもコリアンも宗教だったらそりゃすごいですね。

 スターリンのせいか、共産圏のほうが、うわべの行政として少数民族自治共和国とか自治区自治州が整備されてたわけで、それは資本主義国フィリピンとか見ると分かると思います。フィリピンの民族ってなに族か、即答出来るような国家システムにフィリピンはなっていない。フィリピン人は、フィリピン国民て意味です。台湾は、中国への対抗上原住民をより一層きっちり多文化共生でやっておく必要があり、それはニュージーランドが英連邦のなかで、独自性を打ち出す際、マオリを前面に押し出したのにも似てると思います。

むかし、京都にいたころ、すすめられて、FMこころというラジオをときどき聞いていて、これは、阪神淡路大震災を契機として、外国人向けの情報発信として、ネットが普及する以前に始まった外国語放送なのですが、日替わりでいろんな言語でニュースや番組をやっていて、その中にキーウィの番組もあり、これが、実に「マオリ」を推していて、キーゥイがほかの英語圏と一線を画す要素、それがマオリ文化だッ、って感じで、マオリ文化やマオリ語(片言でいい)と英語圏のダブルカルチャーを身に着けているからキウィなのだ、どうだいいでしょう?毎回マオリ語講座とかゲラゲラ笑いながらやっていて、実に面白かった。何言ってるか分かりませんでしたが。オージーも番組を持っているのですが、アボリジニ講座なんか一㍉もやってなかったな。台湾とNZがコロナ水際制圧に成功した理由と少数民族文化尊重は関係ないでしょうが、なんとなく思い出しました。

話を戻すと、アチェベさんのこの小説は、父子の相克の物語でもあるのですが、訳者の人はそういうそういう見方をしてませんでした。主人公の父親は飲んだくれの楽器奏者で遊び人で、借金だけを残して死んでしまい、主人公はそれを見ていて父親のようにはならんと若い頃から独り立ちしていて、英雄としてもろもろの障害を克服して、一代で富を築きます。そしてその息子は、父親のように強力な稼ぎ手にはなれないという自信のなさから、父のプレッシャー、呪縛から逃れようとし、新興のキリスト教に、父に代わる、頼るべきよすがを見いだします。この話でいちばん急進的なキリスト教改宗者も同様で、父親が伝統信仰の蛇信仰の司祭で、それに反発し、神聖なニシキヘビを殺して食ってしまうという暴挙に出ます。この辺、ACとかいろいろ考えながら読みました。主人公は、部族間抗争を回避するため、村落共同体が人質として分捕った少年を三年間育て、実子より多くの愛を注ぐようになるのですが、神託が下り、その子を殺すことになり、掟に従わんければならんので、殺すのですが、ここは訳者には受けいられなかったようで、そこまですることないじゃん、何で殺すの、というような気持だったのかなと思いました。私は、村の掟なんだから従うのはしょうがないじゃん、と、すんなりそこは読みましたので、パワハラを見てるだけで止めない人かもしれないです。女性のほうが、ルールじゃない、感情だろ、と、イノチの、そこは思ってしまうのかもしれない。私は、本書に登場する、出産の多さと、新生児の死亡率、乳幼児の死亡率にぞっとするのですが、訳者は、双生児が生まれた場合の、民間信仰の掟のほうに怒りを覚えているようにも見えました。

頁261、白人より、白人の手先となった黒人官吏のほうがひどくて、その、廷吏の中間搾取もひどいことが書いてあるのですが、コートメッセンジャーがコートマンになって、それがピジン化してコトマと呼ばれるというくだりは面白かったです。灰色の半ズボンを穿いていたので「灰色のケツ」と呼ばれていたとありますが、ケツと訳す気分はどんなんだろうと思いました。

頁310、巻末に「平定」という単語の原語は"pacification"だと注記しています。パシフィケーション。パ・リーグは平定リーグ。昨年のトレンド入りワードはセリーグ。太平洋。大西洋。インド洋。

ケアリー(Joyce Cary)とは - コトバンク

訳者あとがきに出てくる上記の人の、『ミスター・ジョンソン』という、これも白人側から見たナイジェリア黒人の物語(1947)を読みたかったのですが、邦訳はないようでした。

Mister Johnson (M. Joseph): 1947|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

あと、村から主人公が追放される暴発事件もよく分かりませんでした。なんでそんなことになったのか。作者はこれが処女作で、以後、ビアフラ戦争ではイボ族のビアフラ側スポークスマンとして活躍し、ナイジェリアに降伏したのちは、評論やら教壇に立ったりは続けましたが、再び創作活動の成果を発表するまでは、長い時間を必要としたとのことです。彼なりに、敗北を抱きしめた。

私は本書のキリスト教を、白人の植民地支配の先兵とは見ず、普遍宗教が社会を席巻する時ってこんな感じなんだろうな、大化の改新とか聖徳太子のころの仏教と日本社会とか、と思いながら読みました。ので、余計、イボはあまり関係ないかもしれませんが、ムスリムという要素が出てもいいのに、作者が出さなくても、訳者は言及してもよかったのに、と思うです。作者によれば、イボがイボたりえるようになったのは、ハウサ、ヨルバ、白人といった広域社会と交流が深化してからで、それまでは、自らが「イボ」であることなど考える必要もなかった、みたいに、書いてた、かな? そこまでは書いてなかったかな。

以上