テインペーミン短編集|アジアの現代文芸の翻訳出版|翻訳出版|事業紹介 | 公益財団法人大同生命国際文化基金
題名のビルマ文字を無事入力出来たことで、もう胸がいっぱいです。マウンターヤとちがって、なんぼなんでもこの人はウィキペディアあるだろうと思ったので、人名は心配してませんでしたが、後半の「短編集」に当たる部分が、グーグル翻訳のミャンマー語でも、アルファベット入力するとビルマ文字に変換してくれる"Burglish"でも、まー出なかった。なので、途中までえいやで文字をきりばりして、それを検索にかけて、結果の中から、後ろがおりよくつながって、一致してるのをコピー&ペーストしました。コピー元は、創作文藝サイトかなんかなのかなあ。
装幀 山崎登 扉絵 樹下龍児 地図 小島岬
マ・パンケッの人が、科研費の助成で、ミャンマー文学研究は足で稼ぐ、とばかり頑張った研究対象の作家さん。下記はその近年の成果報告書ですが、研究自体は相當前から進められていたことが、『ビルマ文学の風景』読んでも分かります。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-24520395/24520395seika.pdf
本書や『ビルマ文学の風景』によると、1978年1月7日脳卒中で倒れ、数日後逝去されるのですが、倒れる二日前に初めてマ・パンケッの人と面会インタビューに応じていて、本書のテインペーミン写真はその時撮影したものが使われています。『ビルマ文学の風景』頁25で、その写真のトリミングされていない全景も見れます。
版権持ってるドー・キンチーチーという人は奥さん。奥さんは1944年にオルグされた元共産党員で、抗日女性部隊副隊長を勤め、戦後は女性コングレス書記長も務めたりしたが、党内の派閥闘争やセクト主義に嫌気がさし、1948年3月の武装革命路線以降、政治から離れたんだそうです。テインペーミン氏も元桐蔭、否、元党員で、しかし戦争中はパパ・アウンサン指示でチャンカイセック統治下の重慶まで行って周恩来に会ったり(ホントは延安に行きたかったがダメだったらしい)どっかでエドガー・スノーの知己を得たり、ベンガルでインド共産党麾下で動いてたりしてて、そうして氾世界的な視野を養ったのか、戦後の内戦では、オールビルマで安心・安全な祖国統一みたいなこと言ってどこからも総スカンで孤立したんだとか。
しかし自分で報道紙を持っていたためか、ビルマでは検閲不許可を怖れて手のかかる長編を皆が執筆したがらない(紙も統制経済なので、不許可で刷った分がまるまる出版出来なくなると大変で、だから長編はとてもリスキー)Ⓒマウンターヤなのに対し、何冊も長編をモノにしていて、しかし本書はそうしたビルマ文学の巨人の手すさび、各年代の短編を集めた日本独自のアンソロジーです。下記丸数字は掲載順序。
⑤『老教師の問題』'Hsayao i Pyathana', Myawaddy Magazine, Vol.7, No.8, June 1959 著者四十四歳
頁155
乙女の肢体はなよやかでございます。けれども健康的で引き締まっております。わたくしは教師であるのみならず、老齢でもございます。けれども、乙女のふくよかな臀部と細く引き締まった腰に、視線を走らせずには、空想をたくましくせずにはおられません。
(略)左右に揺れておりますその臀部は、まるで籾を振るう箕のようにリズミカルに動き、見飽きないほどでございます。わたくしは、取りたてて事に及ぶなど空想だにおりませんでしたのに、それを手のひらでそっと撫でてみたい気持ちが生じてまいりました。
(略)横から見えました胸は、実にふっくらと豊かでございます。わたくしは彼女を横から見ることに飽きたりず、前から眺めたくなりました。
(略)
籾を振るう箕のようにリズミカルに左右に揺れております臀部を、手のひらでそっと撫でたい気持ちが再び生じてまいりました。黄金の広場のようにすべすべしたその背中に、わたくしの頬を押し付けたい。いえ、それどころではございません。更に大胆にも、その細く引き締まった腰をかき抱き、揉みしだきたくなりました。(後略)
もび太さんのエッチ!!#metoo
ラングーン大学の老教師が、教職員宿舎のあるパガン通りを歩いていて、前を女子学生が歩いているので、懸想というか妄想する話。視姦という字はどう書くの。こう書いてああ書いてこう書くの。
⑥『法的枠内の中年独身主義男』'Upade Baung atwin hma Lubyodho', Myawaddy Magazine, Vol.15, No.3, January 1967 五十二歳
独身の中年弁護士が、てごめにしてメカケにする目的で、若いお手伝いを雇うが、冷凍マグロと化した彼女の硬直に何も出来なくなる話。若い女の子を住み込みにすると、それだけで世間体がよくないから、母親とセットで家政婦として雇い、まず母親経由で娘に納得も得心もさせようとするが、なぜ正妻に出来ず、本書でいう「隠し女」でなければいけないのか、主人公的には明々白々だが読者含め周囲にはさっぱりさっぱりで(階級差、身分違いを言いたいらしい)成金弁護士の妻の座というエサ、うそ、甘言でたらしこまない点だけは誠実というべきかというと、そんなことはなくて、非モテかつセクハラー兼パワハラーなだけ、ゲスはゲスという。
⑧『座る場所を確保したら』'Htingzaya Taneya Yaledaw', Shumawa Magazine, Vol.31, No.363, August 1977 六十三歳
しがないノンキャリ公務員が、郊外で週末農業すれば食卓が豊かになるし、ゆくゆくはその田舎に家を建てて移住したいと考え、さて週末、郊外の畑に行こうとすると、ラングーンの劣悪インフラに直面し、いつ来るか分からない押し合いへし合いの老朽バスを乗り換え乗り換えという話。
頁211
(略)中年女が、「そんなに押して! 何さ!」と叫ぶ。男は、無言で押し続ける。手の籠だけは、中年女の尻を圧迫しないよう下に降ろした。下に降ろすや、それは中年女の臀部の下、太ももの間へ収まった。男の後ろから人々が男をぐいぐい押してくる。一人の押し男が、「前の人は中へ入ってください! ドアのあたりに立たないでよ!」と言って、また思い切り押した。男も前の中年女を押し続ける。ゆえに男の籠は、女の太ももの間へ更に深く入っていく。手を伸ばして、座席の背もたれの手すりをやっとのことでつかんでいる中年女は、振り返って男を睨んだ。
ミャンマーの女性作家作品集で、満員の公共バス通勤で、しょっちゅう痴漢にあう話がありますが、それの男性作家版か。別の女性の尻が触ろうと思えば触れる位置に来て、しかしすかしっ屁炸裂。女性が降りる時かんばせを拝見し、「悪くない」とか「飛び切り美人とまではいかずとも、目を楽しませる顔」と考えたり、その次に、座った自分の前に巨乳の若い娘が立つと、マウン・ティンがビルマ語訳したモーパッサン『牧歌』を連想し出します。曰く、ジェノバ発マルセイユ行き列車で乗り合わせた、乳母の職を得た女性と、職探しで二日間何も食べていない男。女は乳が張ってどうしようもない。男は人助けの義侠精神から彼女の母乳を吸うことを申し出て、ごくごく飲み干す。
④『折れた櫂』'Ngwe Sein Hle Hlawyin Tet Kyogyin', Shumawa Magazine, Vol.9, No.97, June 1955 著者四十歳
著者には四作、弁護士を主人公とした短編小説があるそうで、これが一作目。四作目が⑥。本作では貧しいものに関心を寄せ、最初は、弁護料をまけだすと総崩れになるので土留めしてるのですが、のめりこんで、ロハでなんとかしてやらうというふうになりますが、貧困まではどもならんので、高利貸しに頼らざるを得なくなった器量よしの依頼者ヨメが失踪(所謂苦界に落ちたものと推定)、亭主も姿を消すという話です。マ・パンケッの人は『ビルマ文学の風景』で、マウンターヤの小説を「人生描写小説」と呼んでますが、さしずめこのシリーズは、依頼者の人生描写を弁護士が聞かせてもらうシリーズ、となるでしょうか。シャーロック・ホームズや明智小五郎が、遊民の立場から役割語で人生を語る庶民について寸評する、アレです。本作は露店の小間物売り(サンダル)と、露店の出来レース取り締まり。二作目は、解説によると、子どもをネグレクトするシングルマザーに、逃げた夫から慰謝料を取る裁判を勧め、しかし裁判にならず、後日新しい亭主が子どもを折檻する場面を弁護士が目撃して、終わります。三作目はやはり解説に依るのですが、完全な聞き語りで、闇屋とサイカー(サイドカーの輪タク)の人生描写を聞くだけ。で、四作目は、お手伝いをナニしようとする話で、一作目の本作でも、弁護料が支払えない人妻が身を任せようとするのを、ばか言っちゃいけない、みたいに諭す場面があります。朱に交われば赤くなる世の中でも、俺だけは筋を通すぜ、が崩れる過程なのか。
これまで読んだビルマ小説と異なり、テインペーミンの、政治に口出ししなくなってからの小説は、なんというか、エロ路線で、邪宗門なのか(未読)金子光晴の金花黒薔薇艸紙なのか、夏への扉や宇宙の戦士のハインラインの『悪徳なんかこわくない』(未読)なのか、です。
⑦『美よ、今日はお前に会えなかったか』'Dhiganedaw Min go Matwegeyabala Ahlaye', Moeway Magazine, No.100, May 1976 六十一歳
これは特になんということもなく、一日徘徊してほっつきあるったが、「美」に会えなかったなあ、「美」ってなんだよ、抽象的な表現でごまかすだよ、という小説。マ・パンケッの人によると、随想風短編で、身辺の日常のこまごまとした出来事が語られるんだそうです。私が、この小説を、⑤のようなワンデイストーキングの対象を見つけられず、残念閔子騫な小説なのではないか、さすがに直球では書けないだろうし、と読んだのは、間違いデスヨと誰か糺してくれると助かります。
⑤は、『ビルマ文学の風景』頁286によると、発表時、背徳的迷妄を書くんじゃねーよという批判が続出したそうで、おテインテインペーミンサン自ら「人間せいの抑圧ハンタイ!」と反論したそうで、2009年には評論家タンタイという人が、21世紀の開かれたミャンマーでは、もうこの程度のエロ妄想、問題にならんがな、と言ったそうです。『ビルマ文学の風景』によると、ジーパンよりロンジーの鎖国社会ビルマはもうとうに過去の話で、タイ国境を歩くと売られた女性が5ドルで(Gダイアリーは最強マップ作ってるんでしょうか)コロナカならぬエイズ禍が深刻な問題なんだそうで、私は新宿のしょんべん横丁で働く人がみんな自称ミャンマー人なのをいつも不思議に思っていて、タイ人というと大久保絡みで聞こえが悪いからミャンマ―人と名乗ってるのかと思ってましたが、たぶんほんとうにミャンマー人だったのだろうなと『ビルマ文学の風景』読了後は思ってます。かつて中国人が働いていた頃は、福州などの閩北語話者が多かった記憶がありますが、さだかではありません。
⑥で、お手伝いに手をつけようと企図する前は、「かのカーリダーサの時代から“国宝ビーダザー”と称され、認知されてきた天女たち」のところで処理してたが、びよきもこわいし、と独白する場面があります。頁170。
娼妓のことを「国宝」と呼んだり、「天女」と呼んだりするんだな、と思いましたし、こっちは、⑤ほど問題視されなかったというか、テインペーミンサンは、1941年、二十六歳の時に、'Tet Hkit Nathsoe'『現代の悪霊』という長編小説を書いていて、著者紹介のページでは「性病撲滅を訴える」小説としてますが、訳者解説では「自身が性病治療体験をもとに書いた医学啓発長編小説」だそうで、戦前ベストセラーで、戦後も版を重ねていたそうです。要するに、そういう人だった。
ちなみに、『ビルマ文学の風景』および当該部分の下敷きの大阪外語大紀要雑誌第3号1993によると、⑥から⑦へかけての60年代のテインペーミンは、「被抑圧階級解放闘争を正面から書くことは回避する」(『ビルマ文学の風景』頁67)ようになったんだそうです。人生後ろ向き。
③『裏切り者だと!』'Thissabaukdela', Tkway Thank Magazine, No.49, Feb. 1950 三十五歳
『ビルマ文学の風景』頁58
共産党の階級敵殲滅闘争に反対した有能な元農民指導者が赤色村で孤立し、妻も奪われ、身を隠すに至る悲劇を描く。しかしこの時期にはこのような革命勢力内部の矛盾を描く作品よりむしろ、共産党支配下の「解放区」への憧憬を描くものが多く見られた。
ごもっとも。農村で党工作員から役割を振られた夫婦のありようについて、丁玲の『夜』とのあまりの落差に驚いてみたり。テインペーミンサンがブラックシープなのか、これがビルマ文学のどしょっ骨なのか。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
この小説の舞台は、テインペーミン第二の故郷として、マ・パンケッの人も足繁く訪れた、ピャーポンという土地です。私はイラワジ・デルタという言い回しで覚えているのですが、本書並びにグーグルマップでは、ラングーンがヤンゴンになったように、イラワジでなくエーヤーワディーと表記されています。
また、テインペーミンの嫁さんキンチーチー同様、作品のヒロインも女性コングレスの役職についているのですが、「コングレス」の意味がいまいち摑めず、なんで邦訳しないでカタカナ表記なんだろうと思うです。パーラメントやコンベンションでは置き換え不能な語彙な気瓦斯。
②『万事異状なーし!』'Aloung Kaunbadhi Hkamya', Tkway Thank Magazine, No.45, Oct 1949
テインペーミンサンは知識階級だからか、刑務所内で世話係に世話してもらってた(買い物とか洗濯とかミルクティー淹れてもらったりとか)ようで、その世話係が恩赦で釈放されるので、行方を案じる話。世話係は元ダコイト。小説上のテクなのか、諸派入り乱れての内戦下をいのちからがら逃げ帰ると、故郷の村は焼き討ちされて、ダコイトの影の権力者の家だけが無傷だったちうことになっています。
ビルマのカーストは、あるのかないのかからしてよく分からないのですが、④には印僑のチョリア商人というのが出てきて、解説によると、チョリア族はマドラス出身のタミル系ムスリムで、鉄器や金物を扱う商人だそうです。ラングーンは植民地時代、人口の八割がインド人だったとか。また、③の農民は、ミルクティーでなく「番茶」を飲みます。
①『独立すれば』'Lutlatye Yadawhma', Dagon Magazine, Vol.21, No.12, Jan.1948 三十三歳
独立したら結婚しようと誓い合った若者二人。蓄えはなし。男は月給取りだが、レイオフがあったりでその日暮らし。よって、独立の暁に、高利貸しから金借りて結婚する。独立早々借金まみれの祖国ビルマみたいだな、と、誰がうまいこと言えと、というオチがついておしまい。
ラングーン北部にミンガラードンという地名があり、ミンガラー橋も⑦に登場するので、高田馬場のミャンマー料理店ミンガラバーはそこから来てるのかと思いましたが、関係なさそう。ニーハオみたいな、よそいきの挨拶言葉がミンガラーバーだとか。
本書冒頭の訳者紹介は、元大阪外語大学長(執筆当時は立命館アジア太平洋大学学長)で、大阪外大が阪大と統合され、消滅する当時の回想に登場する盟友としてのマ・パンケッの雄姿を語っています。数年前、銭湯巡りかなんかで西武ナントカ湖線に乗り、初めてその時東京外大が巣鴨からその辺に移転してることを知ったですが、大阪外大は消滅してたんですね。えらい話だ。
元大阪外大学長によると、マ・パンケッの人は、ギリシャの歌手、ナナ・ムスクーリと李清照を足して二で割ったような人なんだとか。
Νάνα Μούσχουρη
以上