「群像」平成八年十一月号掲載『年譜の行間』に、発表時期はぱっと分からないけれど、同じく講談社「群像」の『弥生の壺』、岩波「波」の『乾山を観る』、都市出版「東京人」の『血の恐ろしさ』、ポーラの広報誌?「is」*1の『祖父の迷いの多い生涯』などを加えて、2000年新潮社からミレニアム書き下ろし出版。第49回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。2006年に平凡社ライブラリーにて文庫化。表紙写真は単行本も同じ。
ビルマの小説家テインペーミンの1970年代の小説にモーパッサンの短編『牧歌』が出て来るので、それの新潮文庫版を読んだら訳者が青柳瑞穂サンで、珍妙な方言や役割語が多くて面白かったので、それで検索で出たこの本を読んでみたです。
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頁183 Ⅶ とよの死
瑞穂は勤勉に仕事をする方ではなかった。日本語をあやつる能力には長けていたが、かんじんのフランス語の語学力には難があった。
せんせいは堀口大學ビオロンで、先生も骨董狂いの道に引き摺りこんだんだそうで、戦後、奥さんの死後、活字ブームでやっとガッハガッハの時代になったそうですが、いちばん売れたもしくは長く読み継がれた訳書が、渋澤龍彦との共訳怪奇小説集ということでした。
頁179 Ⅶ とよの死
とよが悩んでいた理由はいろいろあるが、一番大きなものは経済問題だった。図書館員養成所の非常勤講師にすぎなかった瑞穂は、四月と十二月にわずかな手当てをもらう他は定収入がなく、翻訳の方も、いわゆる「当たる」ものを選ばなかったこともあり、結婚後十年間くらいはほとんど金にならなかった。
(略)
甲州の実家からも毎月送金があったが、それだけではとても生活できず、生活費の大半は伊平の山本家からの援助に頼っていた。私が昌子からきいたところによれば、当主の気太郎は、かけおち同然で瑞穂と一緒になった妹のために、結婚式をあげてやれなかったからといって、月に二百円もの仕送りをしていたという。とよは援助を受けるたびに気太郎に感謝し、「お兄さまは神様に近い方だと思います」などと手記に書いた。
総理府統計局の家計調査によれば、大正十五年から昭和二年八月までの勤労者世帯一ヶ月間の収入のうち、一番多いのが八十円から百円未満、一番少ないのが二百円以上の世帯で、平均的な収入の世帯の六分の一以下である。七十円は、昭和二年から十五年までの銀行員の初任給にあたる。ちなみに、やはり親がかりだった太宰治は月に九十円、亀井勝一郎は六十円仕送りしてもらっていた。
月に二百円もあれば、親子四人充分に暮らせたはずだが、いったいその金はどこに消えてしまったのだろう? とよは手記の中で(以下略)
ここまでの引用で、私が知りたかったことはすべて書き尽くされた感があり、あとは余禄です。
(1) 骨董狂いというと、青山二郎に関する本を何冊か読んでるのですが、本書には青山二郎も、小林秀雄も、川端康成も出ません。かわりに、井伏鱒二や太宰治が出ます。上述の「とよ」という奥さんは自裁だったそうで、どの程度か分からねど、睡眠薬も時折服用していたようで、飲むと翌朝からだが重いなどとこぼしていたそうです。で、その人の死後二ヶ月後に太宰も心中。
(2) お孫さんの著者も、本書時点ではまだわだかまりがあるのか、筆は生硬で、しかしのちに同趣旨の本を書いている中では、自身も年をとったこともあったでしょうし、多少やわらかくなっているのではないかと思います。未読ですが、2007年に幻戯書房という出版社から川本三郎監修で『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』を、コロナカの昨秋にはやはり平凡社から『阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ: 文士の町のいまむかし』という本を出しています。
同時期に集まっていた「鎌倉文士」と並び称されることの多い阿佐ケ谷文士だが、その気質は正反対だったとか。「(略)鎌倉文士と同じでお坊ちゃまばかりなんだけれど、(以下略)
瑞穂の息子さんである作者の父は、母への所業が許せず、逆勘当を貫いたと本書にありますので、本書時点では家族みななにがしかの思いがあったのだと思います。「阿佐ヶ谷会」に対して、青山二郎が鎌倉グループだったのかしらと思いましたが、よく分かりません。白洲正子は青柳瑞穂について書いてたかどうか。
(3) ちかぢか阿佐ヶ谷に行く用事があり、偶然開いたこの本が阿佐ヶ谷の本でしたので、こりゃおどろいたまたシンクロニシティーだよと思いまして、青柳瑞穂邸が現存してれば見てこまそうかと思いましたが(中井落合に行くと林芙美子邸に行き、湯村温泉に行くと竹中英太郎記念館に行くようなもの)現存してないのか作者が住んでて非公開なのか、検索で出た家がそうかと思ったらそれはボーツー先生エディット『禁酒宣言』でお馴染みの、上林暁ハウスでした。
(4) ダザイが好きな人にはつすますーずのエピソードが書いてあるのでいいと思います。ダザイはんは、人ん家ですき焼きなど肉の匂いがすると異様な嗅覚でかぎつけてやってきて、頼まれもしないのにガツガツ食い漁ってほとんど残さず帰ってしまうので、育ち盛りのその家の子供たちには恨まれていたとか。ヒドい男だ。阿佐ヶ谷グループとはまた別に、学生時代の友人が奥野信太郎だったので、女妖啼笑のことも書いてますが、べつだん中国絡みで目新しいトピックはないです。仏文翻訳者の伝記なのに、ロクにフランスの記述がなくて、骨董ばっか、ドライマウンテンと訳して乾山、みてよーなのばっかで、中国漢籍がなくても仕方ない。頁102に「ゴスアカエ」(呉須赤絵)が出るくらい。
(5) 青山二郎を読んでも白洲正子を読んでも骨董には猫に小判でしたので、本書のドライマウンテンに関しても特にないです。私にはコレクションと呼べるほどのものはありませんが、それでも、まんだらけに生前見積もりしてみたいと思う感じかな。
以上です。
【後報】
亀和田武のコラムを読んでいたら、「波」は新潮社とあり、自分の文化資本のなさにガックリきました。岩波が波、新潮が潮なら分かりやすいのに、「潮」はまたちごてて、学会という… 全然関係ないですが、御殿場駐屯の自衛隊の人は、長泉のことを「チョーセン」と音読みするそうです。ときのすから岩波をへて長泉なめりへ。
(2021/6/17)