『ラスベガスのチャーリー』"Las Vegas Charley" 『ヒサエ・ヤマモト作品集 -「十七文字」ほか十八編-』"Seventeen Syllables and Other Stories." by Hisaye Yamamoto. Introduction by King-Kok Cheung. Revised and expanded ed. 読了

Primary Source : Arizona Quarterly 17 (1961) : 303-322.

作者によると、ラスヴェガス在住の日本人はあまりいないそうで、そもそもこの沙漠の人工都市じしんが、この国の建国精神、清教徒の流儀への最大の抵抗であろう。そんな街に住んでる日本人は、たいがい強迫的ギャンブラーデス。この話は、中華料理店で皿洗いの仕事をしながら給金の大半をギャンブルで溶かしてしまう日系老人(62)の、これまでの半生のおはなし。なんしか、韓国映画「ペパーミント・キャンディ」みたいだと思いました。日本人も、あの映画とタメを張る人生譚が、まだまだ描けるのではないでしょうか。

彼はかつてはカズユキ・マツモトでしたが、今はチャーリーという名前を気に入っています。職場は大きなチャイニーズダイニングで、ウェイトレスは白人で、白人ウェイトレスたちは、こっそり彼に、実直でステキ、中国人はいい加減だけどあんたは立派よ、とおだてては金欠の時2$、3$借りていたとか。早朝までの仕事明けにバーテンダーがおごってくれるウィスキーからかつて"an appetizer of pickled greens" 漬け物のつまみで晩酌のサケを飲んでいた農場経営時代を思い起こすこともありますが、自分ではないかのようです。 

陸軍がネバダ砂漠で原爆実験を断続的に行っていた頃、ある酔っ払いの兵士が時々チャーリーに会いに来るようになり、チャーリーの英語はピジン英語なので最初よく分からなかったのですが、その兵士はヒロシマに原爆投下のボタンを押した本人だったとか。

頁181

 実際、この兵士はあるとき、頬に流れる涙を拭いもせず、チャーリーの両肩を鷲づかみにして、チャーリーの国の人々に対して犯した自分の残虐行為を謝罪するといった。いい終わると、またグラスの方に顔を向け、握り拳でカウンターを叩き、それから、つぶやいた。「でもね、相手かこっちかのどっちかだったんだ。わかるだろう、殺られるのは日本人かアメリカ人かどっちかだったんだよ!」

チャーリーは返事しなかったのですが、自分は熊本県人で広島県人ではないとか、熊本県民から見て、広島県民はちょとけちなんじゃないかとか、そういうことを考えていたそうです。それを表現する英語力も持たないし、一生懸命話しても、相手が関心を示してくれる話とも思えない。

で、その後、戦後間もないころの思い出を二つ思い出したとか。

頁182

どこからともなく白人がでてきて道をふさぎ、急にチャーリーをビルの壁に押しつけ、開いた小型ナイフを彼の腹に突きつけた。「おまえ日本人か、それとも中国人か?」と男が詰問したとき、チャーリーには、この赤い顔をした中年の男が酔っているのがわかった。チャーリーは答えられなかった。虚をつかれると、瞬間的にことばがでてこない。「おまえが中国人なら、それでいいんだ。だけど、もし日本人だったら……」男はナイフの先をチャーリーの腹にいっそう近づけた。

"If you're Chinese, that's okay, but if you're Japanese...!" (P72) 

頁183

チャーリーが路面電車を降りたとたん、ほぼ同年輩のメキシコ人とぶつかった。この男も酒くさい息をしていたが、チャーリーの腕をぐいっとつかむと怒鳴りだした。「おれの息子、おれのかわいい子供、戦争で死んだ! おまえたちジャップ、おれの息子を殺した! まだたった十九なのに、おまえたちジャップ、おれの息子殺した! おれ、おまえ殺す!」しかし、チャーリーにとって、メキシコ人はなぜか白人ほど怖くはなかった。かつて彼と妻は、夏の野菜の収穫時に人手が必要になるとメキシコ人を雇い、彼らのボスになっていたからではないだろうか。

「メキシコ人、日本人、長いあいだ、いい友だちだった」とチャーリーはいった。「私の息子も戦争で死んだ。イタリアで。私、今、ドイツ人憎んでない。しかたがない」

 けげんな表情を浮かべながらもこのメキシコ人は、チャーリーの腕をつかんでいた手を離した。「へぇー、そうだったのか?」といって首をかしげた。

 あの不思議な力をもつスペイン語がチャーリーの口からでた。「ヴェルダほんとだよ」と彼はいっていた。「ヴェルダ」

"Verdad"

verdad(スペイン語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 西和辞典

そこから物語は幼少期の回想に移り、「鱒に似たアユという魚」"the troutlike fish called ayu"がたくさん泳いでいたり、二十歳になって長崎から船の三等室でアメリカへ。既に土地所有が禁じられていた時代だったので、土地を借りて農場を始め、写真花嫁が来てくれて、そして、日系農村コミュニティの新年のお祝い行事が、餅つきから描写されます。

ここで、緑色の餅は乾燥した海苔を蒸す時に入れるとあり( green ones, made so during the steaming with the addition of dried seaweed ; ) 、熊本ってそういう餅があるのかと思いました。さすが有明海の恵み(てきとう)

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

黄色の餅は、海苔餅にオレンジ色のきなこをまぶしたものと訳されているのですが、原文は ”kinako" でなく"orageish bean flour" です。それがきなこなのかな。

「えび茶色のあずきと砂糖を長時間煮つめた甘いつぶあんを詰めたもの」"some filled with a sweet mealy jam made of an interminable boiling together of tiny, maroon Indian beans and sugar. "

P74

 But the main purpose of the work was to make the larger unsweetened cakes, which tiers two or three high (one tier for each memeber of the family, topped with choice tangerines with the leafy stems left on) decorated the hotoke-sama, the miniature temple representing the Budha which occupies a special corner in every Budhist household. On New Year's morning the cakes, reverently placed, would be joined by miniature bowls of rice and miniature cups of sake.

頁187

 ところで、この仕事の主な目的は、甘みのない大きな餅をつくることだった。それを家族の人数に合わせて二段、三段と積み重ね、最上段にまだ葉が残っている枝をつけた選りすぐりのみかんを置き、仏教徒の家ならどの家でも部屋の隅に特別にしつらえてある仏壇のホトケサマの前に飾った。元日の朝、その餅の横に、ご飯を盛った小さな茶碗とサケを注いだ小さな杯がうやうやしく置かれた。

この小説は、日系人の少ないアリゾナの雑誌に掲載されたせいか、餅をモチと書かず、ケーキにして、鏡餅という単語を使わず鏡餅の説明をしています。

P75

 Then, on New Year's Eve, Haru would prepare the last meal of the year, to be eaten just before midnight. This was soba, the very thin, grey, brown-flecked noodles served with tororo, the slippery brown sauce of grated raw taro yams. At the stroke of midnight, 

頁188

 そして、大晦日になると、ハルは夜の十二時直前に食べるその年最後の食事の用意をした。それはソバだった。やや黒っぽくて、茶色の粒がまじったとても細い麺で、おろし金でおろしたトロロというぬるぬるした褐色のなまのヤムイモをかけて食べるのだった。真夜中の鐘が鳴ると、

除夜の鐘と書いてないので、教会でしょうか。教会も大晦日鐘を鳴らすんでしょうか。年越しそばを年越しと書かず、まず「蕎麦」とはなんぞやから描写する力技で、しかしとろろはヤムイモだろうかと思いました。八王子のペルー料理店が、キャッサバをペルーの山芋と説明していたのを思い出しました。"yuca frita"だったかな。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/stantsiya_iriya/20210802/20210802100050.jpg

頁189

 新年はじめて顔を合わせた友人とは、きまって同じ儀式が繰り返された。深々とお辞儀をして、ていねいな決り文句をいって挨拶を交わす。

「アケマ-シテ オメデトウ ゴザイ-マス」

「サクネン ハ イロ-イロ オセワ ニ ナリ-マシテ、アリガトウ ゴザイ-マス」

「コンネン モ ヨロシク オネガイ イタシ-マス」

P75

 And the ritual was the same with each friend seen for the first time in the year, each solemn, prescribed greeting accompanied by deep, deep bows:

 "Akema-shite omedeto gozai-masu. " (The old year has ended and the new begun ―congratulations!)

 "Sakunen wa iro-iro o-sewa ni nari-mashite, arigato gozai-masu. " 

 (Thank you for the many favors of the past year. )

 "Konnen mo onegai itashi-masu. " (Again this year, I give myself unto your care. )

この後、一家の主婦が腕を振るった、正月のおごちそうの描写が続きます。といってもここは単におせちではなく、「淡緑の大黄の茎」"stalks of pale green bog rhubarb" が日本語の商標のついた缶詰に入っているとか(なんなんだろう?)、日本市場で買ってきた、魚のすりみを使った紅白のガランティーヌやゴボウの魚巻きとか、エビフライとか、鶏のから揚げとか、"thin slices of raw fish" 薄切りの刺身とか、"gelatinous red and white agar-agar cakes"紅白の寒天とか(かすかな薄荷風味)"sweet indian-bean cakes"あずき饅頭、"dried herring roe soaked in soy sauce"数の子の醤油漬けなどなどです。この後錦糸卵を使ったバッテラというか太巻きや巾着包みの説明もありますが、省略。

ダイオウ属 - Wikipedia

ガランティーヌ - Wikipedia

agar-agarの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

アガ=アガの語源は、マレー系、インドネシア系みたいですが、なぜそれが米語になったのか。

その後、次男出産時にハルさんは死にます。男手ひとつでふたりの子どもを育てられないので、最初は米国内のつてで育ててくれる縁者を探しますが、無理で、子どもだけ郷里に帰して、老母に託します。そして、自分は、自作農をやめて、あちこちの農場で流れの小作人として働きます。当初はその現金収入をそっくり郷里に送金していたのですが、そのうち花札を覚えたのが運の尽き。

父親の死に目には会えませんでした。

P77

 Learning of this news, Kazuyuki had secretly wept. Like father, like son, the saying went, and it was true, itwas true. He was as worthless, as tsumara-nai, as his father had in the end become.

頁193

 父の訃報に接して、カズユキはひそかに泣いた。この親にしてこの子あり、と諺にあるが、その通り、みごとにその通りだった。父の人生最後の頃と同じように、彼も役立たずの「ツマラ-ナイ」人間になっていた。

彼は改心して一念発起、二年間花札をせずに資金を貯めて、息子ふたりを呼び戻し、ふたたび農場を始めます。しかし、ルーズヴェルトの農業政策の影響もあって、赤貧イモを洗う如しの生活となります。食事はトマトスープと薄切りイタリアカボチャに小麦粉をまぶして揚げたもの。お米は買っていたが、「ブルーローズ米」の価格は高騰し、冬には"the thick yellow soup made by adding water to soy bean paste, and pickled vegetables"「味噌に水を加えた黄色い濃いスープと野菜の漬物」ばかりになったとか。頁194、P78。

Calrose rice - Wikipedia

 ("Blue Rose" is an earlier medium-grain developed in Louisiana)

 日本で育ったふたりの息子は、よく知らない父親のカズユキを、日本の家父長のように敬い、絶対服従の態度で接したため、かえって父親はいらだったそうです。

頁194

また、息子たちは二人とも、地域の同年齢層のニセイたちに対してたいへん憤慨していた。二人に英語の力が欠けているという理由で、ニセイたちが二人をキベイと呼び、まるで自分たちの髪の毛にくっついたもみ殻みたいに軽蔑していたからだ。

P78

And both of them had been resentful of the fact that their contemporaries here, the Nisei, looked down upon them as Kibei, for lacking English, as though there were rice hulls sticking to their hair.

Kibei - Wikipedia

www.discovernikkei.org

誰もが分かるとおり、木の塀でキベイ、ではなく、はたまたきちがいベイブリッジの略でもなく、「帰米」だそうです。知らなかったです。こんなことばがあるんですね。

それからは、収容所、長男の志願、イタリアでの戦死、次男の帰国決意と翻意(収容所で知り合った二世女性への恋)、次男の入隊、終戦、結婚、です。ラスベガスのチャーリーは、以後、お金にきれいになることはなく、借金はだいたい次男夫妻が肩代わりして、ヨメを憤慨激怒させ、母の死に際しても、いつか立派な墓を建てて何十本も母が好きだった菊を飾ってやろうと思いつつ、ラスベガスで給与を溶かし続ける日々は変わらなかったです。

P84

 The young Japanese doctor said to Noriyuki, "When an Issei starts complaining about his stomach, it's usually pretty serious. " He meant there was the possibility of cancer. For some reason, possibly because of the eating of raw fish, Japanese are more prone to stomach cancer than other races.

頁206

 若い日本人医師はノリユキに「イッセイが胃の痛みを訴えだすと、たいていの場合、ちょっと深刻なんですよ」といった。つまり、癌のおそれがあるというのだった。どうしたわけか、おそらく刺身を食べるせいかもしれないが、日本人は他民族より胃癌にかかる率が高かった。 

ところが実は肝硬変から肝臓がんで、ウィスキーの常飲と、うまくはまらない入れ歯で栄養が不足したせい、と医師は判断し、死にます。次男のヨメが、若くして死んだハズの母親に言及し、ハズがずっと、自分を生んだせいだとトラウマになっていると気づいてハッとする場面もありますが、それは蛇足。チャーリーは次男在住のロスで死に、孫はふたりで、ラスベガスから山のような見舞いのカードが届き、料理人組合の保険もありましたが、若い日本人医師の診察料はその保険外で、しかし医師は診察料を受け取りませんでした。

実は私は、こういう即物的な充足感がさいごにあるだけで、だいぶ悲しみがうすらぐと思うのですが、どうでしょうか。たくさんのカードと、金銭面で迷惑かけなかったこと。このふたつを以てして、「ツマラ-ナイ」けれども、よい人生だったと言い切ってはだめでしょうか。言い切ってよいと思います。以上

ヒサエ・ヤマモト作品集 : 「十七文字」ほか十八編 (南雲堂フェニックス): 2008|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

ヒサエ・ヤマモト - Wikipedia

Hisaye Yamamoto - Wikipedia