「生誕一一〇年 吉田健一展 文學の樂み」"110 years of birth, Kenichi Yoshida Exhibition. The Literary Joy."

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やってきましたケニチ展。

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この日は1992年の「ハワーズ・エンド」という映画上映もあったので、平日なのにそれなりに人が来ていて、盛況でしたが、143分の映画を見ているうちに、絶対寝るなと思ったので、見ませんでした。ここのカフェは閉館して無料休憩所になっていて、大佛次郎記念館のほうのカフェを残していたので、コーヒー飲みたいのを我慢してこっちに来て、損しました。けっきょくバス停でジョージアのエメマン飲みました。

「ブライヅヘッドふたたび」の映画なら見てたかもしれません。

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ケニチ先生のこの新宿の新居は、新築当時の雪の絵もありました。

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なんしかすごい吉田健一研究があったはずなのですが、その本が売ってたか分かりません。娘さんが父・ケニチ先生を書いた本も、なかった気がする。ケニチ先生が父・茂サンを書いた本はありました。そして、吉田茂国葬の記録映像(今回独自編集)がえんえんと流れてて、これは見ごたえがあります。儀じょう隊の空砲はともかく、三万人のお焼香風景とか、なかなか見れません。狭い一国を大磯から武道館までえんえん進む。喪主はケニチ先生で、麻生家に嫁いだ妹の和子さんや、太郎チャンのは流れません。いたのかいなかったのかは知りません。

生誕110年
吉田健一
文學ぶんがくの樂たのしみ
Kenichi
34
新宿区払方町の自宅前で 1954年
写真提供・文藝春秋
我々は何かを求めて本を讀みはしない。
ただ讀んだ後で
それが本と呼ぶに價するものならば
或ることに出會つた感じがする。
2022年4月2日[土]ー5月22日[日]
横浜・山手 港の見える丘公園
県立神奈川近代文学館
Kanagawa Museum of Modern Literature

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ケニチサイン。とにかく書簡がたくさんあって、子どものころの、いかにも書かされたエハガキはともかく、留学時代からの達筆な英文の、何枚でも書きまくる書簡に、この人はほんとバイリンガルで両方深い思考の出来た、めずらしい人だったんだなあと思いました。やっぱり飲み友の河上徹太郎との写真が多いです。

図録には収められてないのですが、ケニチ先生は最初からこんなヌタウナギというか、メフィストフェレスみたいな顔をしていたわけでなく、十代前半は、いかにも政治家の二世三世といった顔つきで、むっちりパンパンとしてます。めんどくさそう。

それが、留学を経てというわけでもなく、いつのまにか、十代のうちに、もう神経質な文学者かたぎの顔になってる。留学時、もう既に、研究者もしくは文士として生きてゆこうと二択で考えていたそうですが、政治家の家系だったら、ふつうは政治家か企業家のどちらにしようか悩むはずで(ごまめブラザース然り)、どっちも出来そうなあくらつ栄養満点な顔だったのが、いったい何があってこんな人になったのかと思いました。

茂サンが不在がちだったので、母方の祖父で大久保利通の息子さんの牧野伸顕さんに幼少期は育てられたとかで、大久保サンがテロで死んだのは有名ですが、牧野さんも5.15、2.26ともに襲われたとかで(死なない)そうした家系を強く意識して、文学のほうに進もうと思ったのかもしれません。

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ケニチさんがかかわったという金沢のお酒のパンフが「ご自由に」だったのでもらってきました。母親の雪子さんも英語ペラペラだったのか、英文の日記が展示されてます。たいしたいちぞく。

吉田茂サンが内閣総理大臣だったのは1954年までだったのですが、1963年に日台関係が極度に悪化した際には、翌年個人の資格で台湾を訪れ、蒋介石総統と個人の資格で交わりを結び、書簡を往来し、ことを収めています。

池田内閣のときだったそうですが、1963年、倉敷レイヨンビニロン・プラント中共輸出問題という、高碕達之助と廖承志のLT貿易に基づいた大陸との貿易ゴーサインみたいなのが出て臺灣國府を刺激し、さらには同年、中国(中共)油圧機器訪日代表団通訳の周鴻慶が東京滞在時にソ連大使館に逃げ込んだ事件で、ソ連大使館が日本政府に周鴻慶の身柄を預けたわけですが、本人が二転三転したあげく結局大陸に帰りたいと意向を申し出たので大陸に返した(大阪港から大連に強制送還)という事件があったのですが、國府側は一貫して彼の台湾への引き渡しを日本政府に要求していたので、顔をつぶされたとして日本の媚共親共政策に憤慨極に達し、在日大使館を閉鎖するなど強硬手段を次々と行い、「怨みに報いるに徳を以てす」の戦後台湾の好意を踏みにじる背信行為として台湾全土に反日キャンペーンが吹き荒れ、1964年1月14日には暴徒が台北日本大使館を襲撃して機能不全に陥れるまでになりました(ちなみに、台湾民衆は米国大使館も襲撃して荒らしまわったことがあって、これは中国人が米軍将校の奥さんの入浴を覗き見したので射殺されたことへの反発が引き金です。蒋経国の伝記によると)

この事態を収拾するため、引退したはずの吉田茂元総理が担ぎ出され、日月譚で計五回蒋總統と会談を持ったのですが、この時、何故か知りませんが、すでに麻生家に嫁いでいた和子さん(1938年結婚)が、1951年のサンフランシスコ講和条約のとき同様、父親に随行し、北沢直吉代議士とともにしょうちゃんとの会談に臨んだです(台湾側の同席者は秘書長の張羣。ニコラは空港までの出迎えで出番アリ)こういう妹さんがいたとして、じゃあこの妹さんが直接オモテに出たらというと田中真紀子さんとかいろいろ連想する人は連想することでしょう。なかなか日本のジェンダーも奥が深いというか、なんというか。

とまれ、こうしたことを踏まえて、国葬でカッポカッポ歩くケニチ先生の動画を眺めると、実にケニチ先生の飲酒小説同様の、陶然としたきもちになってくるのを抑えることが出来なかったです。

麻生和子 - Wikipedia

上記記述参考資料は鹿島研究所出版会『日本外交史』28巻。昭和48年5月30日刊行。ちなみにこの時の吉田・蒋会談で、進行しつつあった倉敷レーヨン以外の大陸向け輸出プラント案件、日立造船貨物船案件、東京エンジニアリング尿素プラント、日紡ビニロンプラント等すべて、こんどは中国(北京)側から蹴ってきたそうです。

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そんなの考えると、こうしてケニチ先生のように、手書きでいっぱい英文やら和文やらずらずら書いて酒飲んで、生きていくというのはそれはそれでありなんだろうと思います。戦争とかの非常時でなければね。三島由紀夫とケニチ先生が仲たがい?したのもこれと同時期の60年代前半らしいので、三島からしたら、なんでえ、お前だって政治に関しちゃぜんぜん重んじられてね―じゃねーか、てのがあったかもしれません。同じように、有能なテクノクラートの息子でありながらブンガクを志してしまった点も、同族嫌悪があったかも。でもナルシシズムの点ではだいぶ両者は異なる。三島が鉢の会無期限欠席をつげる、腰の低い文面のハガキを見ながら、そんなこと思いました。

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発禁になった翻訳書は再版してないようで売ってませんでしたが、かなぶんには蔵書部もあって、そこではケニチ先生の本を今読みホーダイキャンペーンやってるそうですので、そっち行けば、J・クレランド『ファニー・ヒル』も読めるかもしれません。読めないかもしれません。

https://www.luncheon.jp/shared/img/menu/sec02_img02.jpg神保町のランチョンという店でケニチ先生が考案したとされる「ビーフ・パイ」の写真があり、ケニチ先生はこれといっしょに、ウイスキーをたっぷり入れた紅茶「ウイスキー・リプトン」をひっかけてから中央大学の講義に行っていたそうで、やっぱりしらふじゃ講義出来なかったんだと思いました。

展示にあった左の写真が図録になかったのですが、なんのことはない、お店のホームページの画像そのまんまで、で、洋酒がスーパーニッカだったので、スーパーニッカなのか、ケニチ先生はスーパーニッカだったのか、と思いました。葉巻や帽子の展示はあれど、ウイスキーボトルはこの画像だけですので、そこの真実が知りたいところでもあります。金沢のゴリとかいう魚の画像と、これはちょっと知りたい。

www.luncheon.jp

以上