『荒野のおおかみ』"DER STEPPENWOLF" von Hermann Hesse ヘルマン・ヘッセ(新潮文庫)読了

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文春の五木寛之作品集第三巻『青年は荒野をめざす 悪い夏悪い旅』1972年に植草甚一サンが解説を書いていて、それに出てきたので読みました。植草サンは当時64歳か63歳。夜更けでも飯倉に行けば、友人が飲みながら雑談してるだろうが足がない、のようなことを書いていて、尾羽打ち枯らしたのかと思いましたが、その逆の円熟期で、二年後の1974年には65歳で初めてニューヨークに行ってますし、1977年、69歳か68歳でベストドレッサー賞受賞。そんで1979年に71歳PPK(心筋梗塞*1

カバー装画 野田あい デザイン 新潮社装幀室 巻末に訳者あとがき。

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私はヘッセサンの小説をたぶん読んだことがないです。世界のハルキ・ムラカミ『ノルウェイの森』で、書店を営む家で夜を明かす青年が、店の棚から『車輪の下』を抜いて読んでて、仏壇の前で女性はご開帳だったような気瓦斯。『シッダールタ』くらいは読んだような気もしますが、読んだのは中勘助提婆達多』だったかもしれません。

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38字×16行で346頁なのですが、133頁までまったく退屈で、Mr.オクレみたいな主人公ハリーがえんえん、オレは荒野のおおかみだど、みたいな大言壮語をのたまわりながら、間借りしてる部屋が三階なので階段の上り下りがツラいとか酒浸りだとかそんなことを愚痴愚痴言いつつなので、平井和正ウルフガイシリーズとかXメンのウルヴァリンみたいなキャラを想像してるとひどく落胆させられます。下記が好きな人はどうだろう。犬のジョンというピアノ弾きもいたなあ。

夜更けに歓楽街を疎外感に駆られながら徘徊してると、おかしな文句の広告板を掲げたサンドイッチマンから小冊子を渡され、それには主人公ハリーの分析がびっしり書いてあった、みたいな不思議なことも起こるのですが、でもたいくつ。迎えに来て。

頁31 編集者の序文

(略)私が鉱泉水を三杯飲むあいだに、彼は赤いワインを半リットル、それからまた四分の一リットルとりました。(略)彼は私の鉱泉水のびんのレッテルを読み、ワインは飲まないのかとたずね、(略)私がワインはまったく飲まないと言うのを聞くと、彼はまた途方にくれたような顔をして、「ええ、そりゃけっこうです。私も幾年も禁酒して暮し、長いあいだ断食さえしましたが、目下はまた水がめ座の星の下に、もうろうと酔った星の下にいます」と言いました。

「彼」がハリー、ヘルマン・ヘッセサンの分身です。

頁43 ハリー・ハラーの手記

(略)どういうわけだかわからないが、故郷を持たぬ荒野のおおかみであり、小市民世界の孤独な憎悪者であるくせに、私はいつもちゃんとした市民の家に住む。これは私の古い感傷である。豪華な建物にもプロレタリアの家にも住まず、選りに選って極度にきちんとした、極度に退屈な、申しぶんなく手入れの行きとどいた小市民の家にいつも住む。テレピン油とシャボンのにおいがいくらかし、玄関の戸の錠をがちゃんとかけたり、きたないくつではいってきたりすると、みんなのびっくりする家である。私は疑いもなく、こういう雰囲気を幼年時代から愛している。(略)

どんなオオカミやねんとしか。頁78、五十歳になったら自裁すると決めているとあり、キリスト教徒っぽくないと思いました。また、常習者ではないですが、阿片を嗜みます。頁110。頁134ほかに「ブルグンド酒」という文句が登場し、知らなかったので検索しました。フランス語のブルゴーニュがドイツ語になるとブルグンドになるとか。主人公ハリーは言うまでもなくヘッセサンの分身なのですが、その彼が出会う相手がヘルミーネという少女で、ヘルマンの女性形。頁183。

読んだのは2006年1月15日の改版35刷。以下後報。

【後報】

荒野のおおかみ - Wikipedia

ヘッセサン=主人公ハラーは徹底した非戦主義者でそれを貫く人で、国家社会主義マンセー時代のドイツで良識人家庭に招かれ、マンセーマンセーやられてついていけなくて疎外感を感じるわけですが(相手も同様に、変わってしまったジジイのハラーサンに失望する)その直後からヘルミーネに出会ってパパ活相手を紹介してもらい、谷崎的痴人の愛慾生活に溺れだします。なんだよこれと鼻白みました。ナチス批判をするのは腐れパパ活オヤジ=変態である、崇高なるアーリア人種の高潔さと相容れぬ退廃主義、デカダンの徒なのであると、レッテル張りされ、人格攻撃されてしまうこと請け合い。それだからか、本書はナチス時代も禁書になってません。他山の石として売られていたのか。

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映画イージーライダーの主題歌ワイルドで行こうで知られる一発屋バンド、ステッペンウルフもヘッセサンのこの小説から来てるそうで、植草サンによると、本書はヒッピーたちによって「再発見」された小説ということなのですが、このパパ活小説のどこにその要素があるのか、60年代の青年バカだなとまで思いました。

下は"Born to be wild"ちがい。

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多様性の時代なので、いろんなボーントゥビーワイルドがあっていい(かもしれない)

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この小説はもう一段階確変があり、フリーザさまのようにぬめっと変化します。亜空間殺法、四次元空間にロケットが飛ぶ。確変しないままのパパ活と精神世界路線をさらに推し進めると、シュタイナー神智学の信奉者谷恒生サンの『魔海流』になると思いました。『魔海流』になると、もうアジアアフリカ各地で毎回主人公は年端もいかない少女兼娼婦と乳繰り合います。ヘッセサンも好きじゃいかな、いや、このくらいの年の少女はさすがによろしくないと思うかな。どうだろう。

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しかし本書はそうはなりませんでした。ハリーサンのげんなりする自己批判まで飛び出します。

頁205

(略)彼はさらに権力と搾取の敵であったが、銀行に工業会社の有価証券をいくつも預けており、なんら良心の責めを感ぜずにその利子を消費していた。万事そういうふうふうだった。ハリー・ハラー氏はなるほど理想主義者として、世界をけいべつ者として、悲しい隠者として、憤った預言者としてみごとに仮装してはいたが、根は一ブルジョアにすぎず、ヘルミーネの生活のような生活を排除すべきものと考え、レストランで空費した夜々やそこで消費した金に腹をたてていた。そして良心のやましさを感じ、自己の解放や完成をすこしも願わず、むしろ反対に彼の精神的な遊戯が彼を楽しませ、名声をもたらした安易な時代に帰りたいと、はげしく願っていた。(後略)

純粋まっすぐクン🄫小林よしのりは本書が好きではないでしょうが、学生時代は学生運動をやって、卒業したらしれっと大企業に就職したような団塊ど真ん中の人には本書は面白いように思えます。いいですよね、こういう割り切り方。

楽師パブロはプッシャーでしたので、それで小金持ちのハリーサンに関心があったと私は考えるのですが、ハリーサンもヘッセサンもそうは考えなかったようです。頁207にコカインが出て、ハリーサンは「さわやかに元気になった」とあります。コカイン直球って、ピエール瀧くらいしか思いつかないのですが、ヘッセサンもそうなんですね。

①老人のグチ②パパ活ときて、③人間狩り、マンハントが始まります。この確変には驚きました。もちろんハリーサンは狩る側です。夢のような世界で、ハリーサンは学生時代の同級生の悪童に再会し、郊外のなだらかな野原の一本道でたっぷりの銃弾と銃とともに待ち伏せし、ピクニックにやってくる自動車(ドイツは1927年、昭和二年すでにブルジョワや貴族が自家用車時代なんですね)を次々に狙撃し、運転手を撃ち殺して車を炎上させたり横転させたりして遊びます。この展開には参りました。脱帽です。

ダリオ・アルデンテ、否アルジェントの「ゾンビ」では、ソンビ、否ゾンビは人でないから撃っていいというルールで、標的になってバンバン撃たれるわけですが、それを人にしたら本書です。これはヒッピー熱狂するわと思いました。ぶっ飛んでる。まさかマンハントの展開になるとは。爆発横転した車から引き摺りだした紳士も殺すし、その娘だか孫娘にも銃を持たせて次の車を銃撃させるし、メチャクチャです。

頁297

「おかしいな」と私は言った。「射撃がこんなにおもしろいとは! これで僕は昔は戦争反対者だったんだ!」

すげえなあ。こんなの書いてもまだヘッセサンは転向せず、第二次世界大戦中はスイスに逃げたんじゃいかったかな。その人間の業(カルマ)が若者の心を打ち、新潮文庫も三十五版も版を重ねたのでしょう。単なるパパ活小説で終わらなくてよかった。そして売人パブロの描写は、一周半廻って、実に的確です。以上

(2024/5/9)