装丁 成原亜美(成原デザイン事務所) カバー写真 Chongtian/EyeEm/gettyimages
表題作『路上の陽光』が巻頭なので、そこから感想を書きます。
帯。帯の文句は、表題作とその次の གཉིད༌དུ༌ཡུར༌བའི༌ཆུ།『眠れる川』を指してると思われます。なぜなら、そのふたつだけがラサを舞台にしてるから。
(1) 最初この話を読んだ時、蔵漢両文記載の出版なのかと考えてしまいました。
(a) マヤ文学の邦訳*1を読んだ時、所謂先住民族文学は、それ単体だとパイが小さいので、コンキスタドレス言語と両文掲載で出版して、そっちで読者と部数を稼ぐのがセオリーとあり、トンドゥプジャの没後作品集も蔵漢両文記載の出版でしたので、ちょっとその可能性を考えたです。
(b) というのも、この作品は、農村から都市に日雇いの出稼ぎで来ている娘さんが、水商売の成金に手籠めにされてしまい、すんでのところでするりと逃げたり出来なくて、最後までコマされてしまう話なのです。えっ、こういうの、チベット語で書くとしても寸止めで誤魔化すもんじゃないの? と読みながら激しくめんくらいました。ムッツリスケベの漢族に向けて、性にあっけらかんなのがチベット人という色眼鏡、ステレオタイプで作品を書くとしたら、こういう展開も取り入れるだろうし、逆に、コマす金持ちを漢族にしてしまうとなにかとさしさわりがあるので、チベット人がチベット人コミュニティーの中だけで起こってることと書くことで、漢族読者はシケベごころも満たされ、かつネトウヨ愛国者精神も刺激されないで済むこととなるから、それで、蔵漢両文出版なら腹に落ちるんだけど、という次第。
(c) ソルタンジャ監督の『巡礼の約束』という映画*2で、ニョーボが五体投地の巡礼に出発する時、村の若い娘さんで、韓流みたいなキャップを被ったルーギャーが同行するのですが、彼女はしんどくてあんましパッとしない巡礼五体投地旅行にすぐ飽きてしまい、通りかかったランクルの野郎(民族不詳)にナンパされるとホイホイ車に乗ってどこかに行ってしまい、以後映画に登場しません。ここ、監督はさらっと描いたけど、実はとってもこわいシーンじゃなかろうかと私は思っていて、ソルタンジャの映画は2020年か2019年で、この小説は2010年ですが、この小説がけっこうまじめにこの問題を提起していて、映画が影響を受けてたとしてもおかしくないと考えます。ラシャムジャは長編『雪を待つ』でも、「都会の性産業に消えるチベット農村女性」をズバリ書いてます。
話を戻すと、この小説の出版はチベット語オンリーで、2012年の青海民族出版社です。*3そもそもラシャムジャサンは、自分ではそんな漢訳しないみたいで、そこが、自分で蔵漢両方やっつけてしまうペマ・ツェテンサンとは違うところかと。漢訳は別の人が訳してる。これもマヤ文学の本で読んだのですが、マヤ文学のその作家さんは、マヤ語とスペイン語を別に対照させたりしてなくて、それぞれ単語が増えたり減ったり、ニュアンスも変わったりしてて、邦訳する人は頭コンクリになりますが、本人としてはその方が気が楽なんだと思います。両言語を同じ人格で書ける人って、欧米以外だとどれくらいいるんだろう。欧米なら、フラ語と英語、独語と英語で完全に同じことを書ける人はナンボでもいるでしょうけれど。
上は、前にも日記に載せた、頁16に出て来る漢語の歌。冒頭で飛ばされる帽子が流れていく先の「トゥールン・デチェン」は検索しました。
(2) この話のメインキャラクターは、ラサ近郊の農村から日雇いにありつくため日参する出稼ぎたちなのですが、彼らのことを「立ちん坊」と訳しているのがおっそろしく違和感ありありでした。ウィキペディアはものすごい情熱を傾けて、「立ちん坊」とはわずかな手間賃にありつくため路傍で待機してる日雇い予備軍であると力説しているのですが、それはウィキペディア自身が語っているように明治時代の用例で、21世紀の現代では、どう考えても「立ちん坊」は街娼の意味でしか使われてないかと。東電OL殺人事件でも、ルポ『じゃぱゆきさん』でも、黄金町でも。「まっさじいかがですか」は街娼もどきで、ふつう売春行為は行わないので立ちん坊ではありませんが、「立ちんぼ」只算是〈野鸡〉而已!!
立ちん坊(たちんぼう)とは(主に仕事を待って)立ち続けている者のことを言う。たちんぼとも。
日本での明治時代から昭和時代の初期にかけては、立ちん坊と呼ばれた道端や坂の下に立って待ち続け、荷車が通ればそれを押すのを手伝って駄賃を貰うことを職業としていた者が存在した。他には土木工事や建築工事に雇われるために寄せ場で立って仕事を待っている者のことも立ちん坊という[1][2]。岩波文庫より出版されたルイ・ボナパルトのブリュメール18日では立ちん坊もルンペンプロレタリアートの一つとされていた。1968年8月23日に放映された現代の映像のサブタイトルは「立ちん坊たちの夏」であった。
荷車と立ちん坊 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社
セーフサーチをオンにして検索してると、上のような例しか出ないのですが、オフにすると、あらふしぎ。
「立ちんぼやればいいだろ。立ってれば通行人が声かけてくるから」 同居女性に300回売春させた男性が“情状証人”についた “ウソ” | 文春オンライン
(3) チベット語でナイトクラブをナンマカンというそうで、マレー語でマカンといえば食事ですが、たぶん両者に接点はありません。そういえば、インドで邦人駐在目当てに単身キャバクラを始めた女性のエッセーマンガを読んだことがあります*4が、キャスト募集にインド人女性の応募はひとりもなく、チベット人女性だけが応募してきたので雇ったとか。顔は日本人に似てしまいますが、まいっか、みたいな。作者女性がひとりしか出勤していない時を狙って、不良駐在ふたりが来店後暴行未遂に及んだ話までは読みました。PTSDもありつつ、金主と相談の上、駐在勤務先日本企業にぶちまけるといきまいたら、駐在二人は土下座してきたんでしたかね。そんなんじゃ気はすまないでしょうが、未遂でよかった。という話を書くつもりはなくて、ナンマカンの例の金持ち親父の名前が「ジグメ」なので、セブンイヤーズチベットを見た人は、またジグメか! と思う仕掛けかもしれないなと思いましたが、中国のチベット人はアベイ・アワンジグメを尊敬してたりもするので、その可能性は低いと思います。という話が書きたかった。以上